Fastnacht 12

046

 枕元で水音がする。浴場の湯ではない。水桶の水だ。
 額の上の布が熱を持つ度にシェイがそれを冷たい水に浸して取り換えてくれているのだ。
 そのこと自体はありがたいと思うのに、耳元に響き忍び寄ってくる水音に対する小さな恐怖が止まない。
「まだ熱が高い……大丈夫? リューシャ」
 シェイが心配そうな声をかけてくる。それに応える力も今はない。乾いた唇が熱い吐息を零すだけだ。
 体調の悪さが気力をも侵していく。現を彷徨っていたリューシャの思考は次第に眠りの闇に堕ちていく。
 ――ああ、嫌だ。また悪夢がやってくる。

 ◆◆◆◆◆

「リューシャ王子は熱を出したそうだな」
「ええ。無理をし過ぎたのでしょう」
 何に、とは二人とも言わない。どちらが、とも言わない。無理をしたのは彼らであってリューシャではない。そんなことはわかりきっている。
 遊び相手がその調子なので大人しく執務に励んでいるスワドが、いつもの悪戯っぽい光に瞳を輝かせてラウルフィカを見つめる。
「そう言えば、あの後二人で何かあったらしいじゃないか」
「あの後?」
「お前がリューシャを浴場に連れて行っただろう。中で大きな物音がして驚いたカシムが飛び込んだそうだな。何があった?」
「――何もありませんよ」
 ラウルフィカは舌打ちをしたい気持ちになった。ラウルフィカのことに関し、カシムはレネシャとスワドと共同戦線を張っている。心配してスワドに報告したのだろうが余計な真似だ。
「ほう、そうか」
「強いて言うなら少しからかって突き飛ばされたくらいです。物音はその時のものですよ」
「今リューシャが寝込んでいるのは?」
「湯冷めでしょう。箱入り王子様ですから」
 その言い方がおかしかったのか、スワドがペンを置いて笑い出す。相手が箱入りの王子様ならこちらは何か。泥水を啜って生きる王様皇帝様か?
「ふふ。私はてっきり、お前がリューシャに何かしたのかと思ったよ」
「――したのであれば、私は咎められるのですか?」
「いいや。好きにすればいい。元々あれを連れてきたのはお前だ。殺すも犯すも壊すもお前の自由」
「……随分、気前のいいことですね。アレスヴァルド古王国の王子ですよ」
「向こうの国から指名手配されているくらいだからな。死体を送れと言われても幸いここから青の大陸までは遠すぎる。処刑したと言って適当な書簡でも送ればそれで済む話だ。それよりも、お前のそんな表情が久々に見れたのが嬉しいよ」
 スワドは執務机の上に腕を組み、にやにやと面白そうにラウルフィカを見ている。
「リューシャが憎いか? ラウルフィカ。同じ王族、世継ぎの王子という立場でありながら、かつてのお前と違いすぎるあの子が。違いすぎるのに、どこか自分と似ているあの王子が」
 似ている? 自分とリューシャが?
 まさか。あれは違う。自分とはまったく別の生き物だ。
「いいえ。憎くなど――」
「ならばどうしてそうもリューシャに執着する。ここ三年、お前のそんな表情を引き出せた者はいない」
 そう言われても、自分がどんな表情をしているのかラウルフィカ自身にはわからなかった。表情筋の動かし方はいつだって変わらない。そのはずだ。
「お前の感情を刺激するならどちらかと言えばもう一人の月の民の少年だと思ったのだが。あの見事な銀髪の。誰かを思い出すだろう?」
 確かに、シェイの銀髪はザッハールと同じ色合いだ。だが、それがどうしたというのだろう。似ているのは髪色だけで、中身はまったく違う。それがわかるからこそシェイ自身には何も感じない。
 シェイの健全過ぎる光はラウルフィカには遠すぎて、どんなに眩しくとも触れる気も起きない。求めるのは太陽ではなく、夜闇を照らす月の光だ。
「……疲れているようだな。ベラルーダ王」
「いえ。そのようなことは――」
「もういい。お前が戻って半月。来月にはベラルーダに戻るとのことだし、執務の方も大分落ち着いただろう。どうせ今日の夜は宴の予定が入っている。休んでいいぞ」
「宴? 初耳ですが」
 休めという命よりもそちらの方が気にかかり、ラウルフィカは問い返していた。
「旅の芸人が舞を披露するそうだ。とてつもない美女だという話だが、お前は興味ないだろう?」
 ラウルフィカはこれでも既婚者だ。妻は亡くなっているが。隣国の元王妃でもあった年上の亡き妻があまりにも素晴らしい女性だったので、今も他の女性に興味を持てないでいる。
 皇帝は美術品に限らずあらゆる芸術に興味を持っている。旅の吟遊詩人の歌や演舞も例外ではない。珍しい芸人がやってくると聞いて、急遽宴を開くことを決めたのだろう。
「ああ、そうだ。レネシャが会いたがっていたぞ。お前が最近顔を出さないと嘆いている」
「……そうですか」
 さすがに宴の間はスワドも他に悪巧みをする気はないだろう。リューシャはいまだ寝込んでいると聞くし、城内は平和なはず。
 ラウルフィカは皇帝に頭を下げ、執務室を退出した。

 ◆◆◆◆◆

 夢を見ている。
 これは夢だ。そうわかっているのにリューシャは次々と目の前を流れる光景を制御することができない。
『あら、来たのね』
 訪れた粗末な小屋の中、艶やかな美貌を持った漆黒の髪の少女が笑う。
『ごめんなさい。今日は二人ともいないのよ』
 馴染みの姿を探す自分に、少女は笑って言った。銀髪の少年の不在に落胆する自分のために、彼女は竪琴を取り出してみせる。
 小屋を出ていつもの海岸の岩まで歩いていくと、振り返って告げた。
『特別よ。今日はあなたの好きな曲を聴かせてあげる』
 爪弾く竪琴の清らかな音に合わせ、澄んだ声が流れ出す。優しい子守唄に微睡む。
 海辺の村にはたくさんの人がいて、特に銀髪の少年と黒髪の双子とは仲が良かった。
 双子は銀髪の少年の命の恩人だという。二人が彼を救い、彼が自分を救った。だから自分も双子が大好きだった。けれど。
 広い空と海が目の前に現れて、笑い合う人々がいて。そんな幸せな光景が、すぐに暗転して壊れてしまう。
(何故)
 白い砂に紅い血の花が咲いていた。あちらこちらに手足を投げ出して、命のないものとなった死体が無造作に並んでいる。
(どうして)
 見知った顔の死体。普段から仲の良い二人は、最後まで血濡れながら硬く抱き合って横たわる。かつては生きて笑っていた人々が、どうしてこんなことに?
『戦いなさい。殺しなさい。滅ぼしなさい』
 青い髪の女が目の前に立ち、傲岸と命じる。
『それがあなたの役目。あなたの存在意義』
 本の頁をめくるように、また光景が移り変わる。
 次に目の前に現れたのは、いつも夢で見る白銀髪の少年だった。色違いの瞳でリューシャを睨み付ける。
 ――やはりそうか! お前も僕の敵に回るんだな!
 ――だから僕も殺すのか、“総てを滅ぼす破壊者”よ。
 以前、ラウルフィカとの会話の中で思い出した台詞が脳裏に蘇る。憎悪の眼差しが胸に突き刺さった。
 認めがたいことを認めざるを得ない。
(我は……憎まれている)
 何度も何度も夢に見たあの少年。恋と呼べそうな程に焦がれる彼に、憎まれている――。
 どうして。これまで十六年の人生で見た夢の中では、彼はいつだって優しげだった。砂浜の波打ち際で手を引いて歩いてくれたのに。幸せそうに微笑んでいたのに。
 いや……おかしいというのならば最初からだ。
 リューシャが見る海辺の夢は、いつも神託を受ける託宣の儀の前後数日間だけが明瞭で、あとはもっと茫洋とした断片的な記憶でしかなかった。それが、今年の託宣の儀以来、リューシャは何度もあの夢と、あの夢とはまた違う『彼』の夢を見ている。今のように。
 優しく手を引いてくれた銀髪の少年が、憎悪の眼差しをリューシャに向けてくる。そんな夢。
 かと思えばリューシャは現実で彼らしき姿を見た。アスティと名乗ったあの少年。白銀の髪に紫の瞳をしていた。夢と同じ顔だった。
 創造の魔術師は、地上に降りるとき紫の瞳の少年の姿となるのだという。
 それを自分に教えた淫魔のことを思い出し、リューシャは咄嗟に唇を噛んだ。堪えきれない叫びが口をついて出そうになる。
 この夢に、意味はあるのだろうか。弱った心が見せる悪夢は、リューシャ自身の心象の恐れを表現しているに過ぎない。ラウルフィカの思わぬ変貌に、みっともなく怯えているのだ。
 わかっていたはずじゃないか。馬鹿な自分。どれほど好意的に近づいてきた相手だって信じてはいけない。ましてやラウルフィカは元々帝国に与する存在としてリューシャとシェイをこの大陸まで連れてきたのだ。彼がスワドの命令に従って自分を犯したところで、何を動揺することがあるというのだろう。
 けれど、一度優しくされた後の裏切りは胸に刺さる。酷く不安で心細くて仕方がない。
 セルマ、ダーフィト、ウルリーク。親しい彼らの顔が見たい。いつものように軽口を叩いて、それをしょうがないなと笑って許して欲しい。
 運命に立ち向かう? 何を馬鹿なことを。たった一人の人間に弄ばれたくらいで、こんなに動揺しているくせに。
「運命は立ち向かうものじゃないわ」
 ふいに、闇の中に鈴を転がすような女の声が響いた。
「それがあなた自身の選択なんだもの。望んでそうなったのだもの」
 リューシャは背後を振り返る。いつの間にかそこに、一人の少女が出現していた。リューシャが夢の中に勝手に創り出したとは思えない、はっきりとした存在感を持っている。
「……シェイ?」
 少女の顔立ちを見つめたリューシャは呆けた声をあげる。銀髪に銀の瞳を持つ彼女は、リューシャの知る月の民の少年によく似ていた。顔立ちそのものは違うのだが、酷く似た雰囲気を持つ。
 それで唐突に、彼女の正体がわかった。
「貴女は……セーファ? シェイたちが信仰する月女神イーシャ・ルー?」
「そうよ。久しぶりね。“******”」
 黄金の太陽神フィドランの妻であり彼と対を成す銀の月女神セーファ。黄大陸の砂漠地域ではイーシャ・ルー、イシャルーと呼ばれる存在。
 彼女の言葉の最後が聞き取れない。流れとしては、恐らくリューシャの名を呼んだように思えるのだけど。
 そういえばリューシャはこれまでの夢の中でも、銀髪の少年に名を呼ばれる場面でその名を聞き取ることができなかったのを思い出した。
「どうして……」
 何故月の神がここにいるのか。リューシャの夢などに。そしてリューシャが何度も繰り返し見る海辺の夢で辰砂らしき少年に呼ばれる名を、何故彼女も知っているのか。そもそも何故その名はちゃんとした音として聴くことができないのか。
「だってあなたは私の言葉を聞いてくれないんだもの」
 一番最初の疑問に答えてころころと笑い、淡く微笑んだまま彼女は『それ』を告げる。

「“歯車は動き出す。汝は運命に出会うだろう”」

「?!」
 声、を聴いたことはない。だがその口振りにどことなく覚えがある。
「貴女は……まさか?!」
 ゲラーシムの罠に嵌められ冤罪にかけられ、結局聞きそびれた今年の託宣。
「そうよ。兄であり夫でもあるフィドランに頼まれて、アレスヴァルドに託宣を出していたのは私」
 世界を創りたまいし創造の女神が辰砂の襲撃により名を奪われ眠り続けて幾星霜。神々の主神となったフィドランの妻女神はあっさりと肯定する。
 例えどんな場所でも、太陽と月は昇る。セーファ信仰が盛んと言えるのはシェイの属する月の民のように信仰を表明している民族だけだが、それでもこの世界で太陽神と月神という主神夫妻の存在を知らぬ者はいない。
「では我の神託も――決定したのは貴女か」
「私が決めたのではないわ。私は界律から読み取ったことを伝えるだけ。あなただけでなくアレスヴァルドの他の民もあの国以外のどんな人間も、その運命に神は関与していない。ただ来る未来を言葉にして告げるだけよ」
「では……」
「未来や人生というものは、自分で選び掴みとるものよ。そうでしょう?」
 月女神の意外な答にリューシャは戸惑った。神が人の運命に関与しない? では誰がこんな人生を決めたというのだ。この世界に溢れる残酷な宿命の数々を、誰が決定するというのだ。
「わからないわ。それを決定する機関があるのかどうかさえ。それを知るお方は、辰砂の手によって眠りについた」
「……創造の女神?」
「そう。もう名も呼べぬ我らが母」
 今現在フローミア・フェーディアーダに残る神々は人の運命を決定しない。それをする資格も技術も、持っているのはこの世界を創り上げたただ一人の女神だけ。
 辰砂が名を奪い封印した万物の母神。
「……辰砂はどうして、神々に反逆など起こしたんだ?」
 脳裏にアスティと名乗っていた少年の姿が蘇る。そして何度も海辺の夢で見た優しい笑顔と。
 あの少年が辰砂だというのなら、神話で聞かされたような傲慢な魔術師像とは程遠い。その彼を一体何が凶行に駆り立てたのだろう。
「あなたは知っているはずよ」
 セーファが静かに告げた。
「早くアレスヴァルドに戻りなさい。“総てを滅ぼす者”よ。取り戻しなさい。あなた自身を」
「待て!! まだ聞きたいことが――」
 夢の終わりとセーファが離れる気配を感じ、リューシャは慌てて彼女を引き留めた。しかし長い銀髪は風のように翻り闇の中に消えてしまう。
「……なぁ、我は、一体何なんだ? 何者なんだ?」
 何もかもが無となって消える黒い空間に、リューシャの悲痛な呟きだけがぽつんと落ちた。