Fastnacht 13

051

「シェイ」
 剣をしまい顔を上げた男は、黒髪に青い瞳で端正な顔立ちをしたまだ若い青年だった。ラウルフィカとそう変わらない年齢だろう。
 彼の眼はただひたすら、シェイだけを映している。
「ラウズフィール」
 倒れ伏す警備隊を挟んで立つシェイは、彼に歩み寄ろうとする。そこでラウズフィールが一言口を開いた。
「ごめん」
 前置きなしの謝罪に、シェイの体が動きを止める。
「お前……」
「君をこんなことに巻き込んだ」
「か――」
「でも」
 何事か叫びかけたシェイの口を、続いたラウズフィールの言葉が塞ぐ。シェイは中途半端に口を開いたまま声を失い、ラウズフィールのその一言に全身で耳を傾けた。
「君を愛している」
 傍で聞いているリューシャからしてみれば唐突な程あっさりと、ラウズフィールはこれまで隠し続け、否定し続けたその言葉を口にした。
「私に関わることで君が不幸になっても、苦労しても、それでも君を手放せない」
 ラウズフィールは正面からシェイに向き直り、その手を彼に差し出した。
「私と一緒に生きて欲しい」
 シェイはその手を取らなかった。
 ラウズフィールの言葉が聴こえた瞬間、一足飛びに駆け寄ってその体に抱きついたからだ。
「馬鹿野郎……!」
 銀の睫毛にけぶる目元に薄らと涙を浮かべながら、シェイはこの一年ぶつける相手が目の前にいないと呑みこみ続けてきた恨み言をぶつける。
「そもそも一人で逃げたのはお前じゃないか……!」
 彼が姿を消したあの時にはすでに、シェイはラウズフィールと共に行く気だったのだ。運命とやらに怖じて逃げたのは、ラウズフィールの方だ。
「ラウズフィール」
 ぐい、と。抱きつくというよりはもはや胸ぐらを掴むような勢いで顔を上げたシェイが宣告する。
「僕はお前が好きだ」
 睨むように目元に力が入っているのは、そうしなければ涙が零れるから。
「だから、お前が僕から離れても幸せになれるって言うならきっと後を追わなかった。でもお前がそうして一人で不幸になる道を選ぶなら地の果てまでも追いかける」
 彼を愛している。だからその幸せのためなら身を引ける。愛している。だからこそ、不幸になる時は見過ごせない。
「好きだ……好きなんだよ……! お前と一緒なら不幸を選べる。運命なんかいらない。お前だけが欲しい」
 一年前、シェイの前に現れたラウズフィールは言った。自分たちは前世で恋人同士だった魔王と姫君の生まれ変わりだと。これは運命だと。
 だけどそんなもの、シェイには関係がない。
 魔王であってもなくても、今のラウズフィールを今のシェイが愛している。かつてのお姫様ではなくても。
 一緒にいたい。
 それだけでいい。他には何も望まない。
 シェイのそれより逞しい腕が少年の体を包み込む。
「ありがとう、シェイ」
 いつの間にかラウズフィールの目の縁にも涙の滴が浮かんでいた。
「一緒にいよう。今度こそ、地の果てまでも」
 二人離れる幸福よりも、共にいる不幸を選ぶ。
 前世の彼らがそうしたからではなく、今の自分たちが自分たちの意志で。
 二人は固く抱き合った。
 ちょっと気まずいようなその場面に居合わせてしまったリューシャは、することもなくその場に佇んでいた。シェイに関してはラウズフィールがいればもう大丈夫だろう。しかし自分はこの二人についていっていいものだろうか。
 迷う時間は隙となった。ラウズフィールが倒した四人の男以外に警備隊員がいないと油断したことも。
 シャリン、と軽い金属が擦れ合う美しい音。聞き覚えのあるそれを耳元で聞いたと思った瞬間、背後から抱きすくめられるようにして拘束される。
「んぐっ!」
「そこまでだ」
 冷然とした声が耳を打つ。
「ラウルフィカ陛下!」
 振り返り拘束されているリューシャを見たシェイがさっと青ざめる。リューシャが聞いた涼やかな金属の音は、彼が身につけている数少ない装身具の擦れあう音だったのだ。
 そして彼らがラウルフィカの存在に気づいた瞬間、前後の曲がり角の向こうから次々に鎧姿の兵士が現れた。その鎧姿は先程のシャルカントの帝都警備隊員とは違う。ラウルフィカの近くで見たことのある、ベラルーダの兵士たちだ。
 彼らの装備は軽鎧と槍とはいえ少なからず音を立てる。集団であれば尚更だ。だからこそ豪奢な生地ではあるが布の服だけを身に纏っているラウルフィカが一足先にリューシャに近づいて人質をとったのだろう。
 一人だけ格好の違うすらりとした長身の青年が剣を構えラウルフィカの前に立った。彼とラウルフィカに囲まれるような形になったリューシャは動けない。もっとも、最初からリューシャの膂力ではラウルフィカの拘束を振りほどけないのだが。
「シェイ。お前もこちらに来るんだ。宮殿に戻るぞ」
「ラウルフィカ陛下、僕は……」
 戻る必要なんてない。シャルカントにとって重要なのは「青の大陸アレスヴァルドから指名手配されているリューシャ王子」であり、一市民であるシェイにそれほどの重要性はない。色々と厄介な物事の裏側を知っているとはいえ、彼がそれを言いふらすような性格ではないことはラウルフィカにもわかっているはずだ。
 どうしてもと言うのであれば、シェイだけなら口止めして放逐する方法はいくらでもある。足枷になっているのはリューシャの存在だ。元々ラウズフィールは緋色の大陸に渡っていたくらいだし、このまま逃亡者となっても元魔王は恋人を連れて逃げ切ることくらいはできるはず。
 そう言ったことを伝えようにも、ラウルフィカの手がしっかりと口を塞いでいるためリューシャは声を出すことはできない。目線で訴えたところで、そもそも正義感の強いシェイがどこまで聞いてくれるか。
 自分一人なら彼は戻ることを選んだかもしれない。だが今は、ラウズフィールがいる。
「リューシャを放してください、陛下」
 シェイが言った。国王への無礼な態度、不遜な要求ととられても仕方のない言葉に、ベラルーダ側の兵士が気色ばむ。
「僕たちは……この国を出ます。犯罪者じゃないんですから、こんな風に拘束される謂れはありません」
「犯罪者ではなくても、この国にとって色々と不利になることを知ってしまった。そういう人間を、野放しにすると思うか?」
「言いふらしたりしません。それに、僕一人がどうこう言って何か影響がある程のことでもないでしょう」
「そうか」
 ラウルフィカがリューシャを抱く腕に力を込めた。
「お前に関しては、確かにその通りだな。だが――リューシャは別だ。アレスヴァルドの王子に関しては青の大陸から指名手配の要請が来ている。殺してしまっても良いかもしれんな」
 ちょっと待てと言いたいが、声が出せない。ただの脅迫だとわかっていても、シェイの顔も引きつったようだ。
 だが続く言葉には、いくら人の好いシェイと言えど納得することはできなかった。
「それに――その男は、お前を一度裏切ったのだろう」
 憐れむような響きに、シェイだけでなくその隣のラウズフィールの顔も強張る。
「一度裏切った者は何度でも裏切る。共に生きるという誓いを断ってお前を置いて行った男だ。そんな相手を信じて何になる?」
 シェイが息を呑む。
 だがリューシャには、それはまるで目の前の二人ではなく、他の誰かに向けた言葉のように聞こえた。
「その男と共にいればまたお前は不幸になるかもしれない。今なら私の権限でお前の生活は保障してやる。さぁ、大人しくこちらに――」
「いいえ」
 銀の髪の先から光を散らすように、シェイはかぶりを振る。
「いいえ。ラウルフィカ陛下。僕は、自分だけの幸福を望むよりも、ラウズフィールと不幸になることを決めました。その誘いには乗れません」
 従えないと、はっきり言い切ったシェイの様子に今度はラウルフィカの顔が強張る。美しい顔立ちが彫像のように凍りついた。
「――上手くいくわけが、ない」
 冷たい声。
 一瞬それが誰の声だかわからなかった。リューシャは驚いて傍らの男を振り返る。
「そんな関係、うまくいくはずなどない!」
 ラウルフィカは憎悪の籠る眼差しで、ようやく心の通じ合った二人を睨んでいた。
「お前たちにはわからないだけだ! 一度罅の入った関係を騙し騙し繋ぐことの虚しさが!」
 常に水を思わせる美貌の王が、火のような激しさで叫ぶ。
 シェイとラウズフィールが驚き、咄嗟に手を取り合った。お互いを庇い合うようにもはや自然と体が動いている。
 この二人はもう引き離せないのだと、リューシャにはわかった。ラウルフィカにもそう伝わっただろう。
 ぎり、唇を噛みしめる音を聞いた。しかしその様は恐ろしいというよりも、ただひたすら痛々しい。
 リューシャは話に聞いただけだが、ラウルフィカの過去を知っている。裏切り、罅の入った関係というのはシェイたちではなく、ラウルフィカ自身の想いだ。
 だから伝わらない。
 そしてシェイたちが、その言葉に惑わされて人生を歪めてやる必要もない。
「従えないと言うのならば、無理矢理従わせるまでだ」
 ラウルフィカの持つ空気が一瞬にして支配者のものへと変わる周囲の兵士たちがそれを感じ取り各々の武器を構えなおした。
 今にも殺せと合図をするかのようにラウルフィカがリューシャから片手を放して上にあげた。それが振り下ろされる前に、拘束の緩んだ隙をついてリューシャはラウルフィカの残る片手を外して叫ぶ。
「行け!」
「!!」
 一瞬だった。交わした視線を正確に汲み取り、シェイがラウズフィールの手をとって走り出す。
「リューシャ!」
 ラウルフィカがリューシャを怒鳴りつける。その分だけ指示を出すのが遅れる。だが、目の前で逃げようとする相手を兵士たちも簡単に通しはしない。向こう側で道を塞ぐ兵たちに、ラウズフィールが剣を向けた。
「我が国の兵士を害するならばその場で罪人として処断する!」
 宣告にラウズフィールは動揺し、代わりにシェイが彼の前に出た。ラウルフィカが確保したがっているのはシェイだ。下手なことをしない限りラウズフィールに手は出せない――はず。
 しかしベラルーダ兵たちは、シェイたちが動き出した時に咄嗟に武器を振りかぶっていた。目の前の相手が入れ替わったことに気づき慌てて槍を止めようとするものの間に合わない。
 シェイがきつく目を瞑りラウズフィールがそれを庇う。一瞬後の惨劇を誰もが覚悟した。
 しかし。
「この子たちに手を出さないでちょうだい。ベラルーダの民である前に、私の民なのだから」
 一瞬前には影も形もなかった女性が、忽然とその場に現れていた。
 ほっそりとした白い指先が花を摘むように軽く、槍の穂先を二本の指で挟んでいる。
「な……」
 周囲の男たちは仰天し、シェイもラウズフィールも呆然としていた。ただ一人その女性の姿を見知っているリューシャは思わず叫んだ。
「セーファ?!」
 シェイたち“月の民”が信仰する女神イーシャ・ルー。月女神セーファだ。
 彼女は結わずに垂らした長い銀の髪を揺らして振り返り、リューシャににっこりと微笑みかけた。
 その微笑に男たちが一様に見惚れた瞬間、声を上げる暇もなくシェイとラウズフィールを連れた女神の姿が消え去る。
 後には、驚愕し呆然とする無力な人間ばかりが残されたのだった。