Fastnacht 14

055

 間一髪で宮殿を脱出したダーフィトと銀月は、救出半分失敗の報を聞いて落胆した。
「そうか……」
「ごめんなさい。僕がもっとしっかりしていれば」
「いや、君のせいじゃない」
 つい先程までリューシャと一緒にいたというシェイの落ち込む様子に、ダーフィトは慌てて笑顔を作る。ラウズフィールが密かに想い続けたシェイ少年は、銀髪に銀の瞳の可愛らしい顔立ちだ。年齢もリューシャと近いので、弟のような年代に思える。さすがにこんな子どもを悲しませるのは忍びない。
「まぁ、そこはリューシャだし。セルマとウルリークが無事に宮殿入りを果たしたからなんとかなるだろう。ザッハールと軽く広間の状況も探ったんだが、どうやらなかなか上手く皇帝の心を掴んだらしい」
 今は帝都の最高級の宿の一室に集い、再び奪還作戦を練るための会議中である。これまでは手続きの気軽さから安宿を選んでいたが、帝都内でラウズフィールとシェイが手配されている可能性を考えると、客の情報が滅多なことでは漏れない高級宿の方が良い。
 いざ踏み込まれたとなっても、異国の貴人といった風情で顔の割れていないダーフィトが表に立てば誤魔化せるという考えだ。
 集まっているのはダーフィト、銀月、ラウズフィール、シェイの四人。セルマとウルリークはシャルカント宮殿に芸人として潜入中であり、辰砂はどこかに出かけた。
 リューシャとの因縁のことがある辰砂には、更に月の女神セーファとの繋がりもある。いちいち事態を説明してもらうのも逆に面倒だと、辰砂のことは半分放って置いている。
 これからはお互いに情報を交換しながら、セルマたちが戻ってきた時すぐ動けるように下準備を整えねばならない。
 宮殿から脱出し月女神の助力で何とか助け出されたシェイをラウズフィールが簡単に紹介し、一同はまた頭を突き合わせて奪還作戦を練る。
 シェイを助け終えてラウズフィールの目的は終わったが、ここまで手伝ってもらったからにはリューシャのことにも手を貸すと彼は約束した。何より助け出されたシェイ自身が、リューシャのことを救うまで意地でも帝国を離れないだろう。
 そのシェイはと言えば、お互いの簡単な紹介の際に何故か銀月を見て驚いたような顔をしていた。
 確かに美形だが、それを言ってしまえば彼自身だってダーフィトやラウズフィールだって似たようなものだ。三人は若干不思議に思ったが、シェイ自身がなんでもないとその時は言葉を濁したのでとりあえず脇に置いておくことにする。
 高級宿だけあって高価なテーブルの上に、一枚の紙を広げる。
 それはシャルカント宮殿内の簡単な図面だ。
 忍び込んだ宮殿でリューシャの姿を発見できなかったダーフィトは、その代わりに宮殿内の警備体制や要所らしき場所をいくつか調べてきた。転移術の使える銀月と共にいたので、一カ所をじっくり調べる代わりにあちこちを見て回ったのだ。
 おかげで宮殿内の大体の構造がわかった。彼らの見て回れなかった部分でシェイが知っている場所はそれも描き込んで情報を補足してもらう。
「というか何この城……ヤバくね?」
「えーと、殿下。どの辺がやばいのか俺たちにはよくわからないんだけど……」
「まず俺は王族じゃないから殿下じゃなくて……どうでもいいなその辺は。単にダーフィトと呼んでくれ。ヤバいってのは、普通の城仕えの人間が入れない不審な部屋があちこちにあるってこと」
 他三人はシャルカントのような大帝国の宮殿に縁はない。銀月もラウズフィールもベラルーダの王宮なら馴染みがあるが、シャルカントは初めてだ。慎ましやかで牧歌的な印象すら漂うベラルーダ王宮しか知らない二人はダーフィトに図面を示されてもまだピンとは来なかった。
「僕とリューシャが閉じ込められていた部屋もそのヤバい場所の一つってことですよね」
「二人一緒だったの?」
「客室みたいな部屋で、壁に扉がついていて廊下に出なくても行き来できるようになっていました」
「続き部屋か。単に来賓を招く客室としては普通だが、位置はおかしいよな。来賓用の客室区画はこっちに別にあるんだ」
 図面の一点を指しながらダーフィトが眉根を寄せる。自ら描き込んだその図を見ながらここはこうだからあれがこっちで、などと推測しては頭を捻る。
「ここまで大きい建物だと俺なんかは見ても何が必要で何がそうじゃないとかさっぱりわからないんだけど……ダーフィト閣下はなんでわかるわけ? あんた王族じゃないんだろ?」
「アレスヴァルドの宮殿はこんなにこじんまりとはしてないからな。貴族の屋敷でもこのぐらいはあるし。俺もこのぐらいの大きさの屋敷持ってるし」
 この場にリューシャがいれば、それはダーフィトが、王族を殺害した疑いをもたれても即位を許される程の大貴族ディアヌハーデ公爵の溺愛する一人息子で下手な国の王子王女以上の権力財産を好きに与えられているからだと突っ込みを入れてくれただろう。が、生憎不在なので異大陸人何名かが若干アレスヴァルドを勘違いしたまま話は進んでいく。
 ダーフィトの勘違いはさておき、アレスヴァルドは歴史ある大国だ。シャルカントは確かに黄大陸の中では最大の帝国であるが、それでもまだ青の大陸アレスヴァルド古王国と比べれば最近できたばかりの小国という扱いになる。
 気候風土が違うので若干のずれはあるが、ダーフィトは宮殿の規模から王宮として最低限の機能を持たせるための部分を抜き出す。するとどうしても見取り図上に不明な点が浮かび上がるのだ。
 シェイが気付いた通り彼らが閉じ込められていた部屋もその一つである。普通の使用人は近寄らない特別区画の一つ。ラウルフィカやレネシャも行き来するこの辺りは賓客以外の要人のための施設だろうとダーフィトは当たりをつける。
「逆に言えば、その他の場所は用途が明らかなまともな施設っていうことですよね。厨房にしろ広間にしろ練兵場や謁見の間にしろ。ならばこれだけの人数にセルマさんたちも合流するのですし、また手分けしてそれぞれを探せばいいのでは?」
「でも一度脱走失敗してるし、見張りが厳しくなってるかも。それに……僕が逃げたことで、ラウルフィカ様が凄く怒ってたし……」
「……」
 ラウズフィールが提案するが、シェイの表情が暗くなる。一番の不確定要素はそこだった。シェイが逃げ出したことで、リューシャの扱いが変わるかもしれない。
 しばしの沈黙の末に、銀月が口を開く。
「まぁ、いざとなれば、最悪の事態になる前にお師様が動くでしょうよ。それに、二人の前にセーファ様がお姿を現して直々に大丈夫って言ってくれたんでしょ? なら、まぁ。死ぬことはないよ」
「――生きていてくれれば、それだけで十分だ」
 ダーフィトがぽつりと呟いた。
 彼らとてリューシャの安否に関してそれほど楽観しているわけではない。だが、少なくともすぐに殺されることはないだろう。それだけが救いだった。
 もともとリューシャはその複雑な立場故に何度も危ない淵に立たされていた。この先国に滅びをもたらし、人に嫌悪され続けて生きるのは本人にとっても苦痛ではないのか? ならばいっそ殺してしまった方が楽だろうという意見を、リューシャの実父エレアザル王も再従兄弟のダーフィトも反対し続けてきた。
 生きていてくれるなら、もうそれだけで構わないからと。
「イーシャ様が仰ったんです。あの子には力があるから大丈夫って」
「リューシャに力? そんなもんあったかな」
 リューシャが生まれた時から知っているダーフィトでさえも首を捻る。だが女神がそんな嘘をつくはずもないし、辰砂もリューシャに関しては妙な反応を見せている。ここは信用するしかない。
「それと……」
 僅かに躊躇う様子を見せてから、シェイは最終的に覚悟を決めて、銀月へと話しかけた。
「ザッハールさん」
「えーと、シェイ君。何かな?」
「あなたはラウルフィカ王が言っていた“銀の月”ではないですか?」
 シェイがひたりとザッハールを見据える。二人は髪の色こそ似ているものの、兄弟にも見えなければ同族にすら見えない程似ていない見た目だ。
 銀月の瞳は夜闇に似た深い青。
 だが彼の姿を見た時、シェイはラウルフィカがかつて船の中で“銀の月”が欲しかったと告白したことを思い出したのだ。同じ髪色をしていても、真昼の銀砂漠の輝かしさを思わせる月の民のシェイの容姿とはまるで正反対の、静かな夜に浮かぶ銀の月を思わせる男――。
 ザッハール、と真名で呼ばれた銀月は苦く笑う。界律師であることを誤魔化すためとはいえ、咄嗟に本名を名乗ってしまったため、こうして真正面から誠実に力を込めて話しかけると逆らえないのだ。
「少なくとも俺は、陛下に“銀の月”と呼ばれたことは一度もないよ。だからそういう意味では、君の質問の答は否だ」
 銀月がかつてベラルーダの宮廷魔術師長であったことを知らないダーフィトと、それもラウルフィカの存在も知っているが彼らの間の因縁について知らないラウズフィールがきょとんとしている。それでも二人は事情がわからないなりに何か深刻なものがあるのだろうと、シェイと銀月のやりとりを静かに見守った。
「けれど三年前に陛下に不敬を働いた行方不明の元宮廷魔術師長をお探しなら……それは俺のことだね」
 自分の存在が今もラウルフィカの心に残っていたのかと、銀月は複雑な喜びと悲しみを同時に味わう。
「ラウルフィカ様は、今でもあなたのことを想っています」
「何故そんなことが言える」
「聞いたからです。“銀の月が欲しかった”と」
 ――その月が欲しかった。銀の月が欲しかったんだ。
 緋色の大陸から黄の大陸に来るまでの船の中で何気なく語り合った恋愛話。でもあの時、ただの暇つぶしだと知りながら誰もが本気だった。
 シェイは前世の恋人の生まれ変わりであるラウズフィールとの運命の話を、リューシャは夢で見た銀髪の少年――アスティこと辰砂との宿命の話を。
 そしてラウルフィカは、かつて銀の月を欲し、手に入れられなかったという過去の話をした。
「欲しかったっていうことは、それはもう過去だよ。俺があの人を裏切ったその時に断ち切られた、存在しない絆だ」
 “銀月”という界律名をザッハールに与えたのは師である辰砂。わかりやすくていいだろうと笑っていた。初対面のシェイが一目で気づくぐらい、ザッハールの容姿は青い夜空に浮かぶ銀色の月を思わせる。
 もしもラウルフィカがザッハールを銀の月と普段から呼びかけていたのなら、ザッハールは“銀月”の名をもらうことを拒否したに違いない。
 辰砂には感謝している。だがあくまでもザッハールという男の人生の基準は、ベラルーダ王ラウルフィカなのだ。彼にとって永遠の主君。
「いいえ。いいえ。そんなことありません。手に入れることを諦めることと、その人を想い続けていることは違います!」
 ラウルフィカとザッハールの因縁についてリューシャ程詳しくは聞かされていないシェイだが、彼もベラルーダ国民である以上三年前に起きた事件のことは知っている。元宮廷魔術師長が陛下に不敬を働き返り討ちにされた。死体を見た者がおらず、姿が消えたためその男は行方不明という扱いになっている。
 二人の関係と間にある感情が複雑だということはわかっている。それでも。
「お願いです。ザッハールさん、ラウルフィカ陛下を説得してください」
「リューシャ王子を解放するようにって?」
「そうです。リューシャを解放できるのもラウルフィカ陛下を救えるのもあなただけです」
 昔々のことわざに、『自分に恋の傷を負わせた相手でないと、その傷を癒すことはできない。』という言葉がある。
 ラウルフィカが今でも愛しているのはザッハール。だから彼にしかラウルフィカを救うことはできない。
 だが、シェイの説得も虚しくザッハールはかぶりを振り続ける。
「無理だよ。俺にはできない」
「そんなこと……!」
「後の騒ぎを考えずにリューシャ王子を攫うだけならできるだろうね。でもね、俺では陛下を説得することも、救うこともできないよ。あの人が王であり、俺が王であるあの人を愛する限り」
 シェイが求める穏便な方法は現実味がない。彼はラウルフィカがスワド帝やレネシャに脅迫されている事情を知らないから当然だ。
 正しき道を正しく歩む。もうその方法ではラウルフィカは救われない。ザッハールが誰よりもそれを知っている。
「あの人の立場は、君やラウズフィール君とは違う。簡単に捨てられないものが多すぎる。それを捨てることをあの人自身が望まない。そして俺がその傍にいれば、余計にあの人の苦しみを長引かせることになる」
「そんな……」
 事情は中途半端にしか知らないが、思ったよりも物事が複雑に絡み合っていることを察したのだろう。シェイの口調から勢いがなくなる」
「君が陛下のことを案じてくれるのは俺も嬉しいけどね」
 八方塞の未来。このまま生きていても、ラウルフィカがスワドやレネシャに隷属している立場は容易には変えられない。
 もしもザッハールがラウルフィカを本当に救いたいと思うなら、総てを壊す程の覚悟がいるだろう。そして重要なのは、ラウルフィカ自身にもそれを望んでもらわないといけないということだ。
 そんな風に今更心を通わせられるなんて、都合のいい想像はできない。ラウルフィカはベラルーダに最愛の妻の忘れ形見となる娘を残している。ザッハールがのこのこ赴いたところでもう一度刺殺されるだけだろう。
 どうすればいい。どうすれば彼を救える。
「救うとか救えないとかさぁ、たかだか人間の分際でそんなことで頭悩ませなくていいんじゃないの?」
 突然高い少年の声がして、一同はぎょっとした。
「辰砂!」
「お師様!」
「なんていうかみんな考えすぎだよね。もっと人生楽しく生きればいいのに」
「そんな背徳神の使徒すぎて神に反逆した人の基準で語られても……お師様、何しに来たんですか?」
「来たってか戻ってきたの。何、僕の手がいらないわけ?」
「要ります、要ります。そう不機嫌にならないでくださいよ」
 前触れもなく現れた辰砂の第一声に緊迫した雰囲気を破られ全員が気が抜けた。なんとはなしに皆の視線が窓枠に座る辰砂へと集まる。
「誰かを救うなんて、そういう話は人間より一段上の存在にでも任せておけばいいの。“総てを滅ぼす者”とかにね」
「辰砂、それって」
「聞かれても今は答えられないよ」
 当然の質問を無情な程ざっくりと封じ、最強の魔術師は一方的に告げる。
「もうしばらく待て。あいつ自身が行動を起こせば――総てを壊して道を開く機会が必ず来る」
 それは何の根拠もない言葉にも関わらず、有無を言わせず彼らを従わせるだけの力があった。