058
たまに枷を外されることがある。繋ぎっぱなしで死なれても困るし、緩急をつけることでこれまでの行為に慣れさせない意味もあるのだろう。
僅かな睡眠を与えられては、細切れで時間軸のおかしな夢を見る。
内容はいつも同じとも、違うとも言える。
夢の中の風景や光景は違っても、出てくる人物は大体数人に絞られるからだ。
そしてもちろん――彼がリューシャの夢の中から消えることはない。
星の輝きに似た光を散らす白銀の髪。
紅と青の色違いの瞳。
アスティ? それとも辰砂? 名を呼びたいのに、夢の中ではそれができない。
ただ一方的に、知らないはずの光景を見せられるだけだ。
◆◆◆◆◆
陽光に透けるように輝く若葉の茂る木々の足下、川のせせらぎに身を浸して倒れていた。
その時、自分は怪我をしていたのだ。移動が辛く一休みしようと川に辿り着いたところで意識を失った。
木漏れ日の落ちる森の中には、微かな歌声が聴こえていた。
とても綺麗な声だった。いつまでも聞いていたくなるような歌。竪琴の音。けれど意識が保てない。瞼を閉じ、ゆっくりと闇に落ちていく。
始まりはそう、その時の自分を、彼が助けてくれたこと。
目を醒ました時、視界に映ったのは色違いの瞳を持つ美しい少年。
『気が付いた?』
『ここは……』
それは――終わりの始まり。
『あれ? また来たのか?』
彼は海辺の村の住人。紅と青の色違いの瞳を持つ少年。
左右で目の色が違う者は異相と呼ばれ畏れられ忌み嫌われると聞いたような気がするのだが、その村では彼は平然と瞳をさらけ出していた。
それもそのはず、海辺の村の住人は誰もが皆“普通ではない”。
身体的な異常があるもの、人界で背徳や禁忌と呼ばれる行為をした者、そう言った異端者たちがその村には集まり、平和に暮らしていた。
彼らの神は快楽と背徳の神グラスヴェリア。邪神と名高い放埓な神。
グラスヴェリアの外見は黒髪に紫と橙の色違いの瞳だ。それを知っている村人たちは、白銀髪の少年のことも忌み嫌うはずがなかった。彼らの神と同じ容姿だからだ。
その時代はまだ魔術師と呼ばれる者が少なく、少年は村の役にも立った。
外の世界では、異相の少年が忌み嫌われた理由の一端に魔術師としての力のこともあったという。
魔術師の数が少なければ少ない程それは異端とされる。だから彼は外見だけではなく、その魔術故に居場所を追われていった。
けれど少年自身が魔術を捨てることはなく、虐げられれば虐げられる程魔術を学ぶ。
初めて自分を受け入れてくれた海辺の村で、その力で役に立てるのは少年自身にもとても嬉しいことだったに違いない。彼はいつだって魔術の研究や修練に熱心だった。
『僕はこれから魔導書を読むんだ。お前に構ってる暇は……っておい』
顔を見に行くたび書物を抱えているような少年。彼に無理矢理ついて行き、真面目に勉強するその傍でただひたすら彼を見つめる。
向こうも慣れたのか、何度も押しかけるとそのうち自分のことは諦めて放置するようになった。都合も知らずまとわりついてくる犬猫をあやすように、傍にいたいだけいさせて少年自身は好きなことをする。そのような形だ。
(我は、そんな姿を見ているのが好きだった)
過去の記憶と“今”のリューシャの意識が混じり合い、曖昧になっていく。
“我”とは一体誰なのか。こんな光景リューシャ=アレスヴァルド本人は見たこともないのに。
木漏れ日の落ちる森の中で本を読む少年。
白い肌に白い髪。鮮やか色の瞳に落ちる睫毛でさえ霜のようにきらきらと輝く白銀。
こんなにも鮮やかな純白なのに、純白を身に纏うからこそ少年は異端だ。自然界には純粋な白というのは存在しない。
だからこそ鮮やかで美しく、誰の目も惹きつけてやまない。
『我は**が好きだ』
『はいはい、僕も僕も』
『我は本当にお前が好きなのだ』
真剣な気持ちだったのだが、あまり真面目には聞いてもらえなかったな。いつものようにあやされてむくれる。そんな日々を繰り返す。
『あら、来たのね』
訪れた粗末な小屋の中、艶やかな美貌を持った漆黒の髪の少女が笑う。
『ごめんなさい。今日は二人ともいないのよ』
馴染みの姿を探す自分に、少女は笑って言った。銀髪の少年の不在に落胆する自分のために、彼女は竪琴を取り出してみせる。
小屋を出ていつもの海岸の岩まで歩いていくと、振り返って告げた。
『特別よ。今日はあなたの好きな曲を聴かせてあげる』
少女はこの村で、巫覡と呼ばれる存在の片割れだ。背徳神グラスヴェリアを奉じる神官の役目を持つ。
少女の名はアディス。彼女の片割れである双子の弟はディソスと言う。
なんでも銀髪の少年がこの海辺の村に流れ着いた時命を救ったのがこの双子らしい。より正確に言うなら、弟のディソスだ。だから少年はディソスと仲が良く、彼を愛していた。自分が少年に向けるような気持ちを、少年はディソスに向けていた。
自分はディソスも好きだが姉のアディスの方がより親しかったようにも思う。村近くの森、少年に救われたあの時に聞こえていた歌声は彼女のものだったのだ。それがずっと刻み込まれていたと言ってもいいのかもしれない。
グラスヴェリアの巫覡たる黒髪の双子は二人で一人。姉のアディスが奏で歌い、弟のディソスが舞う。
それは天上の舞楽。誰をも魅了する至高の芸術。まさしく神に捧げる舞。
グラスヴェリアは特にアディスの歌声を愛していた。否、彼女自身を愛していた。背徳の神の愛情は他の神々が定義するものとはかけ離れていたかもしれないが、間違いなく愛していた。
アディスが竪琴を弾き歌う。ディソスが舞い踊る。
村人たちは集まりそれを見ている。舞を捧げられるグラスヴェリアも、村人たちとなんら変わらず共に砂浜に座ってそれを見ている。
平和な村。平和な日々。
けれど、何事にも終わりはやってくる。総てを滅ぼし終焉をもたらす者。その存在がいる限り。
◆◆◆◆◆
「ラウルフィカ陛下」
廊下を歩く途中で遠慮がちな声がかかった。
「なんだ? カシム」
通り過ぎる誰かに呼び止められたのではない。話しかけてきたのは、常に傍にいる護衛だ。三年前からラウルフィカの騎士であるカシム。
騎士とは言うものの、カシムは事務的な用件以外は滅多なことでは話しかけて来ない。ここ三年間一番近くにいながら、私的なやりとりはほとんどないと言っていい。
それはカシムが、ラウルフィカを裏切ったからだ。
元々ラウルフィカ自身もカシムを利用して近づいたのは確かだが、カシムはそれ以上にラウルフィカを裏切った。スワドとレネシャと共犯して、主君であるはずのラウルフィカを犯した。
本来主君として仰ぎ奉るべきラウルフィカに、カシムはいつの間にか男としての欲望を抱いていたのだ。
だが彼自身の性格はあくまでも高潔で清廉な騎士そのものであり、許されない想いに身を焦がしながらもスワドたちのように権力や暴力で無理矢理言うことを聞かせようと言うことはない。彼はいつも肉欲と罪悪感の狭間で苛まれながら、熱を帯びた視線でラウルフィカを見るばかりだ。
「その……本当にこれで良いのですか」
「何がだ」
ラウルフィカは今、リューシャを監禁している部屋に向かうところだ。人通りのない区画。歩きながら話をしていても誰かに聞かれる心配はほとんどない。
「アレスヴァルドの王子のことです」
その一言にラウルフィカは足を止めた。
「何の真似だ。カシム」
余計な口を挟むなと睨み付ける主君に、カシムは躊躇いながらも進言をやめない。
「今のなさりようは、陛下の普段のお人柄からはあまりにもかけ離れているように感じます。取り返しがつかなくなって後悔する前に、王子を解放し――」
乾いた音が立ち、言葉は途切れた。カシムの頬が数瞬遅れて赤く染まる。
「差し出口だ」
「申し訳ありません。ですが――陛下、御璽を宰相閣下にお預けになられたのでしょう?」
「……ゾルタが話したか」
「……はい。私は宰相閣下から、陛下が早まった真似をなさらないよう見張るように申し付けられました」
ラウルフィカは舌打ちする。当然と言えば当然か。王が死ねば玉座に着けるなどと単純なことをゾルタが考えるはずもない。
スワドやレネシャの共犯者であるカシムの立場は、実質的にはゾルタと敵対する。しかし両者ともその基準にラウルフィカの存在があるのは変わらず、王が身を危険に晒す可能性があればこうして情報も交わすようだ。
「ふん。国を支える者同士、仲が良くて結構なことだな」
辛辣な皮肉にカシムが項垂れる。だが意見そのものを取り下げる気はないようだった。
「失礼ですが、近頃の陛下は迷っているように感じます。スヴァル皇子の成長に、リューシャ王子やシェイ殿の存在などが、陛下の価値観を揺らがせているのかと」
「お前の気のせいだ」
「いいえ……いいえ!」
カシムは思わずラウルフィカの肩を掴んだ。力強い男の指の感触にラウルフィカがびくりと身を震わせる。
リューシャやレネシャのように華奢な少年相手では大人の男であるラウルフィカの方が力で勝る。けれどラウルフィカ自身だって、軍人であるカシムやそうでなくとも体格で勝るスワドに押さえつけられたら敵わない。
「ならばどうして今もそんな、不安なお顔をなされているのです?!」
「わ、たしが……?」
不安な顔。そんなつもりはなかった。
ラウルフィカはリューシャに苦痛を与える側だ。自分自身が傷つくわけがない。
「陛下、人間には二種類おります。人を傷つけて喜べる者と、人を傷つけると自らも傷つく者。どちらが良いとは申しませんが、陛下は後者です。必要もない限り誰かを……あなたにとって大切な相手を傷つける必要はないのです」
カシムはいつだって真摯だ。例えば不正を行う時も人を裏切る時も欲望以外の理由がある。だから行いは卑劣でも根底にある感情自体はなんとなく理解ができてしまう。スワドやレネシャよりもラウルフィカ自身の価値観に近いため、余計そう思う。
だが、次に彼の口から飛び出した名前にラウルフィカは再び心を凍らせる。
「ザッハール殿の時だって――」
「離せ」
カシムが目を瞠り、肩口に食い込む指先から力を抜いて頭を垂れた。
「申し訳ございません」
どんな正論も合理的な思考も感情的な訴えも、その名を出されたらもうラウルフィカには届かない。
失敗を悟ってカシムはますます項垂れる。何も言わず歩き出したラウルフィカについていくことしかできない。神経は護衛に集中しているがふとした瞬間の物思いは止められない。
思い出すのは銀髪の魔術師。
彼が今ここにいてくれたならば、総てが変わるだろうに。
考えても詮無いことを考えながら、カシムはラウルフィカの後について歩く。
王と護衛騎士の重苦しい行程は、更に重苦しい調教部屋へ辿り着くまで続くのだった。