062
宮殿内の空気が変わる。だがその変化に気づくのは僅かな者だけだ。大部分の者にとって、シャルカント帝国は有能なる支配者の下で今日も安寧の一日を終えるのだと疑うはずもなかった。
「剥製ですか?」
皇帝に呼び出されたヴェティエル商会の当主である少年レネシャは、可愛らしく小首を傾げた。
「今度は何の剥製を作るんですか? また異大陸の鳥ですか? え? ……人間?」
水色の目をぱちぱちと瞬いて案内を受ける。
通された部屋では、一人の少年が傷だらけの身体で鎖に拘束されていた。
「……皇帝陛下」
「なんだ、レネシャ」
「剥製にするなら傷が癒えてからの方がいいと思いますけど。このまま作ると頬の腫れとか切れた唇の端とか緩みきった性器とか全部そのままですよ」
「そうだな。顔の傷ぐらいは治させるか」
自分と似たような年頃の少年を剥製にしたいと皇帝から希望を告げられても、レネシャは動揺の一つも見せない。同じ空間に別の人間がいたらこの会話にすでに恐れをなして逃げ出していただろう。
「というかこれ、例のアレスヴァルドの王子ですか? ラウルフィカ様がご執心だという」
「そうだ。興味があるのか」
リューシャは天井からさがる鎖で両手首を吊られるようにして二人の前に全裸で拘束されている。隠す物もなく散々痛めつけられた裸体を凝視されて、二人を睨んでいた。
口枷を再び嵌められて言葉を出せない状態にされている。
「興味と言いますか、この人のせいでここ数日全然ラウルフィカ様に構ってもらえなかったんだなって」
「おや、珍しいな。レネシャ、お前が嫉妬など」
「何を仰いますか。僕はずっと昔からラウルフィカ陛下が好きなんですよ? だからスワド陛下に“あの時”御協力をお願いしたんじゃないですか」
レネシャがリューシャに歩み寄る。肉の薄い腹をつまむと、整えられた凶器のような爪で思い切り抓りあげた。
「ぎっ!」
「僕の方が、ずっとずっと、あの人を好きだったのに」
リューシャを見つめるレネシャの瞳は、暗い嫉妬に満ちている。
「別にリューシャはラウルフィカと恋仲というわけでもないだろう」
「でもムカつくんですよ」
「というか、お前が傷をつけるなよ」
「あ、そっか。でも大丈夫ですよ。どうせあちこち傷だらけじゃないですか。他のが治るのを待つついでにこれも治りますよ」
なんでもないことのように言い切り、にっこりと笑う。
これまでもレネシャという名前だけは皇帝やラウルフィカの口から聞いたことがあったリューシャだったが、実際に当人を目の前にして驚いた。その可憐な美しさと、毒のある性格に。
「でもいいんですか? こういう顔、陛下の好みではないんですか?」
「まぁ好きと言えば好きだがな」
「まぁ美形と言えば美形ですね」
スワドとレネシャはリューシャの容姿自体は美しいと思うものの、それに対する感慨は特にない。彼らは彼らでラウルフィカを見慣れているので、同じくらい美しいとされるリューシャに特別な興味はないのだ。
性質の違いもある。リューシャは人によっては見た目よりきつい性格に思われるものの、その容姿と性格は釣り合っている。彼は彼の性格に見合った容姿だと誰もが感じる。
ラウルフィカは当人の性格から考えれば、もっと地味で面白味のない顔立ちの方が幸せだっただろう。けれど本人の望みとはかけ離れた圧倒的なまでの美貌を持って生まれた。そのこと自体が巻き起こす不幸と苦悩に苛まれる表情が、更にその美貌に艶を増すのだ。スワドとレネシャはそういった美貌の方が好みである。
「剥製にするにはいろいろ手順がいるんですよ。下準備も必要ですしね。職人も呼び寄せないと」
「帝都の職人では駄目なのか?」
「ただの剥製職人ならいるでしょうけど、人間を剥製にするには口の固い者でないと」
「そういえばそうだったな」
二人の間でリューシャの扱いはもはや決まりきったことであるらしく、何の戸惑いも躊躇いも見られない。
「頼むぞレネシャ、煩いことを言わず、この美貌だけを永遠に留めさせてくれ」
「折角ですから腕によりをかけて、世界一美しい剥製にしてみましょう」
聞いているだけで震えが走るような会話を終え、二人はその部屋を出て行った。
◆◆◆◆◆
透かし彫りの装飾があちこちに施されている廊下を歩く。まるで雲を踏んでいるようだ。まるで現実感がなかった。
乗り気になったスワドとレネシャを止めることは、ラウルフィカの力では無理だ。ふらつく足取りで宮殿内に与えられている自室へと戻った。
「陛下」
リューシャを監禁していたあの部屋に入った時と出てきた時で様子がまったく違う主君の様子に、カシムがまたしても気遣わしげな声をかけてくる。けれど今回はその部屋にスワドが入っていくのをカシムも止められなかったためか、声に力がない。
「リューシャ」
ぽつりと名を呟く。使用人も誰もいない室内に虚しく響く。
スワドはリューシャを殺すつもりだ。ラウルフィカは皇帝が冗談でそんなことを言わないことをよく知っている。
万が一それがリューシャを従順にさせるための脅迫だったとしても、リューシャは絶対に脅しに屈して望まぬ相手に頭を垂れることはないだろう。
だからどちらにしろリューシャは殺される。
ラウルフィカは自分の体を抱きしめた。腕が震えて、止められない。
怖い。だが何が怖いというのだろう。リューシャを死ぬような目に遭わせたのは自分も同じだ。その時自分は、リューシャを殺しても構わないと考えていたのではなかったか?
そう、あの細い首をこの両腕で絞めた時。あれは一歩間違えば、本当に死なせてしまったかもしれない。
それなのに今更、両の手の震えが少しもおさまらない。
「リューシャ、私は……!」
ラウルフィカは頭を抱える。叱責に怯えて蹲る子どものように。
どんどん事態が取り返しのつかないことになっていく。どうして。最初はこんなこと誰も望んでいなかったはず。どうしてこんなことになってしまったのか。
その原因は他でもない、リューシャ=アレスヴァルドの存在。
この南東地域全てを傘下に治め支配する絶対の皇帝にさえ逆らい、自らの矜持を譲らず意志を掲げた本物の王族。
彼の存在とその生き様は、この巨大に膨らみ過ぎた帝国で停滞した安寧を貪るスワドやラウルフィカの人生に罅を入れた。
背信を反逆を抵抗を許さず、全てを切り捨ててきた彼らにはもはや自分に逆らう存在などいなかった。だから――。
否、違う。これはあくまでも、表面的な理由だ。
ラウルフィカは目を逸らし続けてきた己の心と向き合う。
スワドの心など知らない。ラウルフィカは彼ではない。他人の心などどれ程推し量ろうとその真実を重なるように理解できるわけではない。
自分にわかるのは、自分の心でしかない。
「私、は……」
思い出す。出会った最初の時から。
「私は――……羨ましかった」
リューシャが、シェイが。未来のある彼らが。
どちらも平凡な人生とは言えぬ。何せラウルフィカが出会った時点で人身売買組織に奴隷として売り払われるはずだった少年たちだ。
しかし彼らはその結末をよしとせず、脱出のための手段を講じようとしていた。――諦めて、いなかった。
若々しく輝かしい彼らの様子に奥底で燻っていた劣等感が刺激されたのは確かだ。でもまだ普通だった。憎しみより好意が勝っていた。
シェイがラウズフィールと心を許し合い、幸せになるまでは。
立場こそ逆だが黒髪と銀髪の二人に「誰か」を重ねなかったと言えば嘘になる。それだけでなく、ラウルフィカはすでにシェイの事情を聞いていた。
ラウズフィールという男は、彼に向き合おうとしたシェイの気持ちを踏みにじり一人で逃げ出した。それはシェイの愛情に対する裏切りだ。少なくともラウルフィカにはそうとしか思えない。
なのに何故――そんな簡単に赦すことができる? 赦されることができるのだ!
ラウルフィカにはわからない。自分は赦せなかった。自分を裏切りながらも命だけ救い、余計な感情を教えて消えたあの男を。
どうしていつまでも死んでくれない。結局死体を見ることのなかったためか、確かにこの手で刺したはずなのにどうしても現実感が湧かない。
今でも夢の中にその変わらない笑みを求めてしまう。あっけらと軽い笑顔ばかり周囲に見せていたはずなのに、時折自分にだけ見せた、痛みを堪えるような静かな笑みが脳裏から消え去ってくれない。
赦せない。何一つ赦せない。こんなにも憎いのに、忘れさせてくれないあの男が!
そうしてラウルフィカは今も苦しむのに、シェイたちはあっさりと幸せになった。
どうして。
運命は否定された。絆は途切れた。裏切りの鋏は赤い糸を切り離す。
けれどそんなもの、何度でもつなぎ直せばいいとばかりにシェイはラウズフィールの手を取った。
ラウルフィカは、その関係に嫉妬したのだ。
そして怒りの矛先は、自分と同じような立場でありながら決してわかりあえないリューシャへと向いた。
話に聞くリューシャの運命は過酷だ。生れ落ちたその瞬間から神にも自国の全ての人間にも裏切られているようなものだ。
実際、身体的な経験で言えばシェイよりもリューシャの方が自分に近い。犯され慣れた体のリューシャからは、ラウルフィカと同じ苦痛の匂いがする。
しかしそのリューシャも、本質的にはラウルフィカとはまったく重ならなかった。
彼は運命を受け入れている。自分と違って。
せっかく故国から遠く離れた国へやってきたのに、スワドの問いに迷わず故郷に帰ると答えた。リューシャにとっては荊の檻でしかないその場所へ。
何故、そんな風に揺らがず強く意志を保ち続けることができるのか。
ラウルフィカにはわからない。赦せないと断罪して銀の月を堕としたにも関わらず、自分にはまだあの男を望む気持ちが残っている。
自分はこんなにも弱い。人とは皆そういうものだろう。そう思っていた。思いたかったのだ。自分一人が薄汚いわけではないと。
だが、リューシャはいくら痛めつけられ穢されようと己の意志を裏切らなかった。
リューシャの形にはできないその強さを認めてしまえば、自分の弱さも認めなければならない。だからラウルフィカは己の心を守るためだけにリューシャを嬲った。
その日々はより一層リューシャ=アレスヴァルドの器を証明するだけだったが。
「私は、リューシャには勝てないし、シェイのようにはなれない」
もう、それを認めた。認めよう。総てを。
ラウルフィカが何故「一度裏切った者は何度でも裏切る」と言えるのか。それは知っているからだ。
裏切ったのだ。
ラウルフィカ自身が、己の心を。
“銀の月”を欲した自分の心を裏切り、憎悪によって刺した。
迷走も甚だしい。自分を見失ったくせに、自分を守るためだけに多くの人を傷つけた――。
「いや……まだだ。まだ間に合う」
過去は戻らない。だが今、この瞬間の出来事にはまだ決着はついていない。
リューシャはすぐには殺されない。剥製を作るなどと言っていたスワドの悪趣味が今は良い時間稼ぎになる。
「……すまない、皆」
ラウルフィカは静かに呟いた。
自分はベラルーダの王。軽々しく動いて良い身分ではない。わかっている。
王という身分は大切だ。だが、それはいつまでもラウルフィカが所持すべきものか?
後継者ならすでに娘がいる。御璽もゾルタに預けてある。ベラルーダは心配ない。ゾルタはラウルフィカにとっては天敵だが、自らが玉座に着く野望はないためラティーファが年頃になるまで外戚として摂政の役割を見事果たしてくれるだろう。
元より、スワドとの歪な関係はどこかで断ち切らねばならないと考えていた。その時がようやく来ただけだ。
「さよなら。私のベラルーダ」
窓の外、総てを残して来た自国の存在する方角へ向かい、ラウルフィカは決意と共にそう告げた。