Fastnacht 16

063

 砂漠地域一の商人は、さすがに皇帝の要望に応えるのが早かった。「今からでは準備大変ですよ」と言いながらも、できるだけの用意をしてリューシャの監禁されている部屋に戻ってくる。
「さて、こんなものか。どれぐらいの人に手伝ってもらおうかなぁ」
 レネシャは荷物を部屋の前まで運ぶことは商会の使用人を使ったが、そこから先は自らの手で行った。
 今回剥製にするように命じられたのは、異大陸の美しき王子。それも明らかな拷問と凌辱の痕が残っているような状態だ。この姿を目撃する人間はできるだけ少ない方がいい。
 この口の固さ、汚い仕事であればあるほど真実を知らせる人間の数を減らすのがヴェティエル商会の発展の原則でもあった。
 人間が己の目で見たことと事実を証明できる客観的な証拠を示せるもの以外は公的には事実ではなく「噂」として扱われる。あの商会は人をも商品として売るらしいという噂が立つのと、それが事実として語られるのは大違いだ。
 普通の感覚から言えば、そのような噂が立つ時点で大問題。しかし身分があり後ろ暗い取引をする連中にとっては、取引相手の商人が決してその証拠を掴ませないというのは重要である。
 他でもないシャルカント皇帝の依頼だ。彼の権力の及ぶ範囲は大きい。だが事情を知らせる者はやはり厳選すべきとレネシャは考えた。
 何度か部屋の外と中を行ったり来たりして、レネシャは道具を次々と運び込んだ。剥製職人を呼ぶのには時間がかかっても、剥製作りの道具自体は品を把握していればすぐに揃えられる。帝都に存在する支店でも取り扱っている。
 準備が整ったところで、レネシャは更に下準備をしておくかと考えた。
 リューシャを拘束する手枷を一部外し、自分はその傍らに立つ。
 運び込んだばかりの荷物から、薬品のアンプルと注射器を取り出した。
「んぐっ……!」
「手錠の痕も傷として残りますからね」
 さっさと死体にしてしまえば簡単なんですけどね、と恐ろしいことを呟きながら、リューシャの腕に針を刺し、薬を打つ。
「顔や身体の傷を治しても手錠の痕が残ってたら台無しですからねぇ。だから少し動けなくなってもらうことにしました」
 打たれたのは体の動きを封じる麻酔だ。リューシャは自分の手足が先程よりも言うことを効かなくなっていくことを感じる。手錠や足枷の拘束は外からの力が加わって身動きを封じるものだったが、薬は中からリューシャを蝕んでいく。
 薬がある程度回った頃、レネシャは残った全ての拘束を外した。手錠も足枷も首輪も口枷も。けれど呻き声の一つすら発することができない。
「人間の剥製なんて、大抵は病死した妻の姿をそのまま留めて欲しいとかそういうことなんで、傷を負った体を一度直してから剥製になんて無茶振りはさすがに僕も初めてです」
 やはりこれまでに「人間を剥製にする」という依頼を受けたことが明らかな口振りに、リューシャはますますこの人物への警戒心を強くする。
 リューシャの目から見たレネシャは自分と同じような年頃の美しい少年であった。そして同時に、どこか得体の知れない相手でもある。淡い色の花を思わせる可憐な容貌に、毒のある雰囲気。
 ――その全身から、リューシャに対する敵意を発しているような相手だ。
 視線に気づいたレネシャがわざとらしくにっこりと笑う。
「何故僕がこんな風にぺらぺら、あなたに喋っているのが不思議ですか?」
 それもおかしなことの一つだった。これから殺す相手に懇切丁寧に状況を説明してやる必要などない。
「それはね、皇帝陛下から依頼を受けたからですよ。あなたが死ぬまで、たっぷり恐怖させて欲しいって。うふふ。あの寛大なスワド帝に、よくもそこまで嫌われたものですね」
 寛大? あの男のどこが? と思ったが、確かにまぁ相手に自分への礼儀を強要したりしないところは、平民相手に気さくな主君と言えるのかもしれない。だがそれは――。
「あの男、は、自分に従う、者には、甘い、だけだろう」
 スワドが相手に求めるのが、見せかけの礼儀やそれに対する努力ではなく心からの服従だからだ。だから彼は自分に心の底から服従し隷属している相手であれば礼儀や作法は問わない。
 普通の王族は逆だ。礼儀に煩く作法に厳しいのは、それが表面的な敬意を計る方法だからだ。だからその方法さえ間違っていなければ、心の中で思う自由くらいは許している。スワドはそれを許さないだけだ。
「……よくその状態で喋れますね。顔の筋肉も麻痺するはずの薬なんですが」
 レネシャの顔からすっと表情が抜け落ちる。
「顔だけかと思っていましたが、どうやらただ陛下の寵を拒んだからというだけの理由で殺されるわけではないと。――ふうん」
 水色の瞳がまじまじとリューシャを見つめる。だがすぐに興味を失くしたようにまた冷めた目付きとそれにそぐわない笑みを口元に浮かべた。
「でもね、リューシャ王子。あなたがどんな人であろうと、どんな理由で殺されるのであろうと――死んでしまえば、みんな同じなんですよ?」
 リューシャはぞっとした。駄目だ。この少年はスワドともラウルフィカとも人種が違いすぎる。
 恐らく真正面からやり合っても、リューシャが彼を精神的に屈服させることは不可能だろう。あまりにも価値観が違いすぎる。彼の目に映る世界は歪んでいるのだろうが、彼はそれを知った上でその世界に満足している。
 ラウルフィカのように様々な感情の狭間で傷つき狂っていくのとは違う。最初からただ“おかしい”。
「あなたに陛下が惹かれた理由もなんとなくわかる気がしますよ。僕とスワド帝の言いなりになって手を汚してきたものの、陛下は本来高潔なお人柄ですから」
 こちらの陛下はラウルフィカのことだろう。ああまったく、陛下と殿下が溢れていてややこしい。どうでもいいことを考えるリューシャは、己の身体にレネシャの手が伸びるのに気付くのが遅れた。
「でもね……あの人を好きだったのは、僕の方がずっとずっと先なんですよ」
「ぎっ!」
 腫れた乳首を思い切り抓られる。動かないはずの口が思わず悲鳴を発するほど。
「ずっとずっと好きだったんです。その身も心も、傲慢で冷酷になりきれない不器用さも、傷つきやすい生き方も。なのに、なんで……なんであなたのように、今頃現れたこの国の事情とまったく関係ないような人が、あの方の心を掴むんだ!」
 スワドと一緒になり異国の珍しい容姿と運命を持つ王子を、玩具として弄んでいるうちは良かった。だがラウルフィカはいつの間にかリューシャに対して本気になっていた。
 恋ではない。そういう感情ではない。それはレネシャもろくに知らないが、“銀の月”のものだとわかっている。
 ただラウルフィカは、リューシャと本気で向き合っていた。どれほど犯され穢されようと屈しないリューシャに諦めでも憐れみでもない感情を抱き、自らに屈服させたがった。
 レネシャはそれだけの感情をラウルフィカに向けられたことはない。彼は最初から、ラウルフィカの視界に入れてもらえていなかった。
 レネシャの父である商会前当主のパルシャが、ラウルフィカを裏切り凌辱した五人の男のうちの一人だから、その息子として認識されていただけだ。
 パルシャの息子ではない『レネシャ』という個人をようやく見てもらえたのは、彼自身がスワドとカシムと共謀してラウルフィカを裏切った時。
 だからリューシャが憎い。羨ましい。
「スワド陛下に言われなくたって、僕はあなたを楽に死なせる気はこれっぽっちもありませんよ」
 レネシャたちがあらゆる努力の果てにようやく掴んだ――支配と言う形でだが――ラウルフィカの心を、あっさりと持って行った少年。
 どうあっても赦すことはできない。
「とはいえ、体に余計な傷を残すとスワド陛下に怒られてしまいますからね。どうせあなたの服なんてほとんど肌の露出なんかないのに」
 レネシャは部屋の中に設置されたテーブルの上を一瞥する。
 そこには、リューシャがこれまで身につけていた服の一式が用意されていた。元の服はラウルフィカがぼろぼろにしてしまったので、新しく同じ形で作らせたもの。
 今のリューシャに着せるのではなく、その剥製が完成した時身につけるものだ。リューシャの容姿にはこの服装が一番似合う。
「だから少しばかり趣向を変えて、もっと精神的に苦しんでもらうことにしましょうか」
 先程と同じようなアンプルと注射器をレネシャが取り出す。液体の色も透明で先程と同じように見えるが、なんだか嫌な予感がした。
「さっきのは麻酔。でもこっちは、麻薬です」
「!」
「肉体に傷をつけることができないならば、その精神に消えない傷を。大丈夫ですよ、死ぬまで苦しむとは言っても、あなたが死ぬまでの時間なんてそう長くはありませんから」
 レネシャは本当に嬉しそうに、花のように笑う。
「さぁ、狂いましょう。もう誰もあなたの言葉など聞かないように」