Fastnacht 16

064

 風に揺れる花のような声は告げる。
「苦しめばいいんです」
 レネシャはこの上なく美しい笑顔を浮かべていた。
「あなたなんか、苦しんで苦しんで死んじゃえばいいんです」

 ◆◆◆◆◆

 麻酔はリューシャの精神と肉体の両方に左右し、意識を混濁させた。
 人はよく、特に辛い時の状態に関し「死にそう」「死ぬほど」という形容をする。
 その程度で死にはしないとわかっている時でも、「死にそうだ」と表現するのだ。
 それだけならただの言葉選びの問題であり何の意味もない。だが「死にそう」と言う言葉は、本当に今にも命が危うい時にも使われる。
 人は脆い。簡単に命を危うくする。病気で、怪我で、精神的に追い詰められて。そして死に近づく。
 死とは何か。生とは何か。
 二つの概念は決してかけ離れたものではない。生きているものはやがて必ず死ぬ。それは位置的に対極に存在してはいても根底において繋がっているものであり、決して無関係ではない。
 生と死は繋がっており、人の生はやがて死に移行する。
 だが稀に、限界まで死に近づきながら生へと戻ってくる者がいる。
 そのような時は、生と死の状態はどうなっているのだろう。
 今のリューシャは、その答を知るともなしに知っていた。
 生と死が混在するのだ。

 ◆◆◆◆◆

 死にそうだ、とリューシャは思った。
 体中の血が一気に下がり、視界が明と暗に点滅を繰り返す。酷い風邪を引いた時のように全身を倦怠感が襲い、軽い頭痛と吐き気が延々と続く。
「う……」
 自らの二の腕を抱きしめてこの寒気をなんとかしたいと願うが、体が動かない。
 精神が汚染されていく。麻薬による浸食はこれまでリューシャが経験してきたいかなる苦痛とも違った。
 意識が混濁し朦朧とする。こめかみに湧く冷たい汗の感触がただ不快だ。
 こんなはずではない。こんな形で自我を奪われることは許さない。
 幻覚、妄想、不安、酩酊。あらゆるものがリューシャを惑わす。
 そして現実とも夢とも知れない光景が、脳裏に次々と広がった。

 ◆◆◆◆◆

 それは緋色の大陸の最東端に存在する隠れ里。
 今では流星海岸と呼ばれる場所。そこがまだ名もなき海辺であった頃。
 白い砂浜に青い波が打ち寄せる海辺には、快楽と背徳を司る神グラスヴェリアとその民が住んでいた。
(ああ、そうか。あの場所が流星海岸と呼ばれる理由は)
 ウルリークが教えてくれた。流星海岸とは、創造の魔術師の存在から名づけられたらしい。
 辰砂と言う名には辰――星という字が含まれる。その星が堕ちた海だからと……。

 竪琴の音が聴こえる。

『姉さん、あれ弾いてよあれ。そしたら俺この新衣装で踊るから』
『一曲だけよ。他のみんなも呼んで来ましょうよ』

 今がいつで、あれがいつのことだったのかよくわからない。
 何もかもが曖昧だ。

 見慣れた祭壇の場。見慣れない血染めの光景。
『父上?!』
 穢された聖域と変わり果てた父の姿。
 これは今年の託宣の儀の記憶だ。結局神託を聞くことは叶わず、後で月女神セーファから内容を教えられた。
(父上……)
 アレスヴァルド王エレアザル。ゲラーシムに殺された父。
 自分が彼の息子だったから彼はそのために死んだのか?
 それともこの未来が決まっていたから、自分は彼の息子に生まれたのか?

 過去が交錯する。未来などわからない。積み重なった過去だけが莫大な情報量となってリューシャに押し寄せる。

『なら我を殺すのを諦めろ。そして我のものになれ。ちょうど護衛騎士の枠が空いている』
『騎士……? 私が、ですか?』
『そうだ。――お前、名は?』
『セルマ』

『よ! リューシャ! なんだよ相変わらず仏頂面して』
『騒がしいぞダーフィト。たまには静かにしたらどうだ』
『ところでセルマって今どこにいる?』
『たまには下手な口実を作らず普通に会いに行け』

『でもそうかぁ……なんだか不思議だね。それこそまるで運命みたいだ』
『運命だと……?』

 懐かしい日々。
 人は一体どれくらい昔のことなら懐かしいと微笑みながら思い出せるのだろう。
 魂の奥底に記憶が眠っている。
 思い出したくもない感触。この世で誰より愛しいその相手を刺した記憶が、残っている。

 眼下に森が見える。
『ふふふふふ、はははははっ、あっははははははははは!!』
 ローブの裾を靡かせて宙に浮いた白銀髪の少年が腹を抱えて笑う。何がそんなにおかしいのか。声を上げて笑っていた。
『やはりそうか! お前も僕の敵に回るんだな!』
 彼はその二色の瞳できつくこちらを睨んできた。
『だから僕も殺すのか。総てを滅ぼす破壊者よ』
 戦いは長く続き、そしてついに決着した。
 突き出した大剣が少年の華奢な体に食い込むのを誰よりも間近で見た。
 小さな笑いが囁くような吐息に変わり、少年は最後の命の輝きを言葉に変えて吐き出す。
『憎むぞ』
 涙交じりの瞳を覚えている。彼と過ごした全ての時間を覚えている。
 なのに、それが失われる。
『会いに行ってやるさ、必ず』
 彼は微笑んでいた。
『何度死んでも、何度生まれ変わっても』
 その時は、また敵として。
『この憎しみと絶望を携えて――!!』
 引きつった笑みが急に力を失い、二色の瞳からすぅっと光が消えていく。
 力尽きて自然と閉じられる瞼。ずるりと血が滑り、剣の切っ先からその身体が抜け落ち、遥か地上へと落下していく。
 反射的に手を伸ばした。
 だけど、届かない。
 何物にも染まらぬ白き翼で宙に留まり続ける限り、この手は堕ちていく魔術師にどうしても、届かない。だから――。
『我は待ち続ける、いつまでも』
 頬を滑り落ちる透明な滴だけが、彼の後を追って行った。

(ああ、そうか)
(我は)

『戦いなさい。殺しなさい。滅ぼしなさい』
 青い髪の女が目の前に立ち、傲岸と命じる。
『それがあなたの役目。あなたの存在意義』

 神々に反逆した魔術師を殺した者。
 この世の全てを殺す者。

『この者はいずれ、総てを滅ぼす破壊者となる』

(ずっと人間になりたかったのだ)

「だが、そろそろ起きよう。いつまでも微睡んではいられない」
 自分と重なる程に近しい誰かが囁いた。

 ◆◆◆◆◆

 血液中を巡る薬の成分。それはこの肉体にとって有害なものだ。
 だから“壊そう”。その薬の成分を。
 緋色の大陸で人身売買組織に打たれた睡眠薬の成分を浄化したあの時のように。
 または、馬車から逃げ出すためにシェイの枷を壊した時のように。
 あるいは、この宮殿から逃げ出すために庭園の門の鍵を壊した時のように。
 壊そう。我が破壊の力の前に抗えるものはこの世に存在しない。
「え?」
 起き上がった彼を見てレネシャが化け物でも見たような顔になる。
「そんな! まだ麻酔も麻薬も切れるような時間じゃないのに?!」
 驚きはしたものの、その後のレネシャの判断は早かった。とにかくリューシャの意識を奪おうと、手近な場所にあった鞭を振り上げる。
 しかしその足掻きは彼には通用しなかった。ぴしりと空気を打ち慣らして飛んできた鞭は、彼の肉体に触れる前に空中で消滅する。
「ええっ?!」
 呪文もない道具もない、もちろん素手で払ったわけでもない。不可思議な現象にレネシャが驚愕する。
 界律師であればそうした動作を省略して魔術を使うこともできると言うが、レネシャの知る限りリューシャ=アレスヴァルドは界律師どころか魔術師ですらないはず。
「な、何故……ぐっ!」
 彼は腕を振り払う仕草だけで、レネシャを何か視えない力によって弾き飛ばす。
「一体何が……」
 目の前にいるのは本当に先程までと同じ少年なのか。レネシャにはわからなかった。

 ◆◆◆◆◆

 生と死が混在する場所。それを何と呼ぶのか。
 呼び名は無数に存在する。生命の書とも魂の記録とも、虚空とも、第八感とも呼ぶ。
 人は総てそこから生まれそこへ還る。魂の行き着く先だ。
 人だけではない。魔族も他の生命体も、総てがそこから生まれそこへと還る。
 ――そう、神でさえも。

 銀の月女神が脳裏で優しく笑いかけた。

「おはよう。私たちの弟、総てを滅ぼす者、神々の末子にして最強の闘神、そして――かつて創造の魔術師・辰砂と渡り合い彼を殺した者――“破壊神”よ」

 そして総てを滅ぼす者。神託の王子は帝国を破滅へと導く。