Fastnacht 17

066

 視界が青く霞がかっている。
 透き通る紗幕で遮られたような現実感のない光景。だがこれは他でもない自分が引き起こしていることなのだ。
 腕を振る。青い炎にも似た光の塊が生まれ、四方に飛び散り燃え移っていく。
 リューシャは自分ではない自分の意識が命ずるままにふわふわと足を進め、青い滅びをシャルカント宮殿中に広げて行った。
 幻の炎は城中に行きわたり、ゆっくりと燃え広がっていく。異変に気付いた人々があちこちで悲鳴を上げ騒いでいる。
(やめろ。やめてくれ)
 誰かが頭の中で嘆いた。
(壊したくない。私はもう殺したくないんだ)
 おかしな話だ。そろそろ目覚め、総てを滅ぼそうと言ったのはそちらではないのか。ではこの“破壊”は一体誰が行っているというのか。
 かつて“我”は姉神である秩序神セーファの言うままに創造の魔術師を殺した。
 望んで行ったことではない。だがやると決めたのは確かに自分だった。
 裏切り者、と呟かれた声が蘇る。そう、確かに自分は彼を裏切った。
 神であったあの時はわからなかった。今――人間になってようやくわかった。
 辰砂――お前を、裏切った。
 何故なら我が存在は、総てを壊し滅ぼすために作られたものだから……。
 青い炎が広がる。阿鼻叫喚と人々が逃げ惑う。
(やめてくれ)
 脳裏に声が響く。そう言うなら止めればいいだろう。かつて破壊の神と呼ばれた意識はそう呼びかける。
(もうやめてくれ、リューシャ)
 足を止めた。
「……我が?」
 この破壊はリューシャが行っているというのか? 何の力も持たないと言われ続けた、この無能なる自分が。

 ◆◆◆◆◆

 青い炎が辺りを包んでいく。実は炎でもないし燃えているわけでもない。それでもと言うべきか、だからこそと言うべきか、混乱は広がっていく。
「場外に出よ! この状況が落ち着くまで退避!」
 スヴァルは皇太子として、城内の使用人から賓客まで全ての人々の避難を指示していた。
 青い炎「のようなもの」の解析を魔術師たちに頼みつつ、兵士たちに人々の避難を誘導させる。宮殿住まいの人間の全てを一度に外に出しては混乱が大きくなるだけなので、帝都の広場や公園などで状況が収まるまで待機できるよう幾人かの集団ずつで行動させる。
「スヴァル殿下、殿下も早くお逃げください」
「私はまだ行けない。ある程度避難の目処が立ったら脱出する。悪いが何人かは私の護衛に残ってくれ」
「殿下! 陛下のお姿が見えません。避難した者たちの中にもいらっしゃらないのです! ……貴方は皇太子なのですよ!」
 帝国の支配者である現皇帝の姿が見えないのであれば、その次に守るべき命は皇太子である。兵士の説得に、スヴァルは首を横に振った。
「私の代わりになれる者などいくらでもいる。既にほかの皇子たちは逃げ出しているだろう。だがこの状況では、誰か避難の指示を出す責任者が必要だ。皇帝陛下のお姿が見えないのであれば尚更だ」
 他の皇子皇女は非常事態が明らかになった際我先にと逃げ出した。皇帝の姿が見つからず駄目元で御年七歳の皇太子スヴァルの指示を頼った騎士団長は、普段それほど注目されないスヴァルの聡明さに舌を巻いた。
 子どもらしくない、感情がない人形のようで不気味だ。そのような誹謗中傷が何になろう。
 今、歴戦の勇士たちも帝国の屋台骨である官僚たちも誰一人として事態を把握できず打開策も見つけられない中で、慌てるでもなく人々の避難と、原因の究明が先だと指示を出した。
 皇帝の姿が見えない。ならば次にこの帝国を背負って立つ自身がこの場の最高権力者であり指導者であることを自覚し行動する。これだけの才能も心構えも他の皇子にはないものだ。
「使用人の避難状況はどうなっている?」
「は。今現在四割と言ったところです。混乱が起きぬよう宥めながら、一定の人数で順番に避難するよう指示を徹底させています」
「来賓に関しては?」
「人数が少ないので人々の避難は終わりました。ただ持ち込んだ品物はどうなるのかと……」
「ごねられたか。後で皇帝または皇太子が直接声を掛けるとなんとか説得してくれ」
「は!」
 青い不可思議な炎にも動じずスヴァルの命をこなす兵たちのおかげで、宮殿内の避難は順調に進んでいた。
 だが、肝心な人々の姿が見えない。
「……ベラルーダ勢はどうなっている?」
「文官・武官の避難は大方完了しております。ですがベラルーダ王のお姿が見えないということで、カシム閣下の指示の下一部の兵が捜索を続けております」
「そうか……」
 スヴァルがそう騎士団員たちから報告を受け取ったその時だった。
「スヴァル殿下!」
「ラウルフィカ!」
 探していたその人である、ラウルフィカの声がスヴァルを呼んだ。
 彼を探しに行ったカシムたちと無事に合流できたのだろう。ベラルーダの兵士たちとも共にいる。
「ご無事でしたか」
 疑いようもない安堵の表情を向けてくるラウルフィカに縋りつく。きっと今ここで父皇帝と再会してもこれほど嬉しくはあるまい。ラウルフィカだからだ。
 幼子をあやすようにスヴァルを一度強く抱きしめたラウルフィカは、しかしすぐにその肩から手を離した。跪いてスヴァルに告げる。
「カシムと共に主な区画の避難状況を確認してまいりました。宮殿内は九割方完了しております。殿下もすぐにお逃げ下さい」
「……ラウルフィカは?」
 この口振りでは、まるでラウルフィカ本人はまだ避難しないようだ。
「私はまだやるべきことがあります」
 その時、ラウルフィカの服の胸元がまだ新しい血で濡れているのにスヴァルは気付いた。騎士の一人が問いかける。
「ベラルーダ王陛下、その血は――」
「なんでもない。皇帝陛下からヴェティエル商会に剥製づくりの命が下されていて、その見学の際についたものだ」
 人の手で掴んだ痕がついている返り血だ。誰もがそれは嘘だと感じたが、深く追求はできなかった。
 もともと彼には怪しい部分がある。だがそうさせているのが他でもない自分たちの主君であるシャルカント皇帝なのだということを皇族の傍近く仕え守る騎士たちは知っている。
「ラウルフィカ、父上は今どこに?」
「え? いらっしゃらないのですか?!」
「一緒じゃなかったの?」
「ええ。レネシャの言に寄れば、何か用があると夕刻には部屋を出たそうなのですが――」
 騎士たちの顔に緊張が走る。
 誰も知らなかった皇帝の行方に心当たりがあるとすれば、それは皇帝の寵愛深いベラルーダ王だと考えていたのだ。そのラウルフィカが知らないとなると、本当にお手上げだ。
「……ならば、私が皇帝陛下をお探ししましょう」
「ラウルフィカ」
 それは誰がどう見ても好意的な意味での探してくる、という言葉ではなかった。
「スヴァル殿下。あなたは生きなくてはなりません」
 告げてスヴァルの頭を撫で、ラウルフィカは笑った。
「この国に来て、あなたに会えたことが唯一の喜びでした。どうぞ御自分に自信を持って。素晴らしい皇帝にお成り下さい。あなたならばできます」
 これは遺言だ。
 ラウルフィカは自分が死ぬつもりで話をしている。だがそれを誰も止められなかった。
「いやだ……!」
 これまで見事に「皇太子」の役目を果たしていたスヴァルが年相応の子どもに戻りラウルフィカにしがみつく。
「一緒に行こうよラウルフィカ! まだいろんなことを、私に教えてよ!」
 本当の父親以上に父親らしく、ラウルフィカがスヴァルを抱きしめる。
「短い間でしたがお世話になりました。殿下、もしもいつかベラルーダにいる私の娘ラティーファに会うことがあったらよろしくお願いします」
 ラウルフィカはスヴァルを抱き上げて立ち上がると、その体を自らの護衛騎士であるカシムに預けた。
「カシム。お前たちもスヴァル殿下と共に行け」
「陛下、あなたは――」
「私にはやるべきことがある」
「私がやります。それならば私が行きます。ですから――」
「カシム」
 スヴァルに言い含める時よりもむしろ困ったような顔で、ラウルフィカは自らの護衛騎士に告げた。
「ラティーファを頼む」
「お帰りにならないのですか? ラティーファ姫の待つベラルーダに」
 銀の光輝く砂漠を抱き、青く清い命のオアシスを抱く王国ベラルーダ。
 砂漠地域では一番の大国。だがそれもこの南東帝国に組み込まれてしまえば広大な領土の一地方でしかない。
 文化的に洗練された面もあれば同時に牧歌的な雰囲気も残す、良くも悪くも特色の強い国。そこで過ごした日々の記憶。
「……アラーネア様は私にラティーファを遺してくださった。ご自分がいなくなった後も私が独りになることがないようにと」
 歳の離れた王妃は夫であるラウルフィカを母のように姉のように甘やかしてくれた。ラウルフィカにとっては彼女の存在も隣国プグナをを併呑するための駒の一つにすぎないと、わかっていたにも関わらず。
 復讐を終えてまた終わりなき隷属の螺旋に囚われ日に日に絶望していく年下の夫の支えになろうと、娘を遺した。
 だから。
「私は帰らない。帰れない」
「陛下」
「国に帰れば、私は救われてしまう。だから帰れない」
 愛しい娘。守るべき民。
 このままベラルーダに帰れば、ラウルフィカは救われてしまう。どれほどの人を不幸にして、犠牲にして、それで自分だけ救われる。
「……リューシャをこの国に連れてきたのは私、留めたのは皇帝陛下。その責任はとらねばならない」
 それでもまだ何か言いたげなカシムにラウルフィカはこう告げた。
「カシム。お前は新たな主を探せ。願わくは、私の娘のことも少しだけ気にかけてくれると嬉しい」
「私は陛下の騎士です……」
「だが本当の私はお前の主君に値する王ではない。私がわざとお前に思い描かせた国王像は、本来の私とは違う。そうだろう?」
 三年前、軍部にて着々と地位を上げていくミレアスの頭を抑えたかったラウルフィカは、その対抗馬として対立派閥で最も将来有望な実力者であったカシムを利用した。彼の求める国王像を演じ、自らの護衛騎士になることをカシム自身が望むよう画策したのだ。
 そんな切欠だったから、ラウルフィカがひとたび演技を辞めてしまえばカシムの理想と現実はずれていく。それが二人の関係の綻びの始まりだった。
「あの日の呪縛からもう自由になるべきだ。お前も。私も」
「ラウルフィカ様……」
 カシムが足下に跪く。ラウルフィカの腕をとり手の甲を押し抱くようにして額につけ、告白した。
「お慕いしております。ラウルフィカ・ベラルーダ。永遠に」
 確かにラウルフィカは、カシムの望んだような高潔で清廉潔白な王ではなかったかもしれない。そうした人間を演じてカシムを騙したのかもしれない。
 けれど限られた力しか使えぬ場面でその状況を打開しようと痛々しい程に自らを投げ出して画策するようなラウルフィカを、カシムは騎士として主君を仰ぐのではなく、男として愛してしまっていた。
「――ありがとう。だがもう行け。私ももう行かなければ……常闇の牢獄で、レネシャが待っている」
 そしてベラルーダ王は踵を返す。スヴァルもカシムも、シャルカントの騎士もベラルーダの兵士たちも誰もがそれを止めることなどできなかった。
 皆が終わりを予感する。
「私たちは、神の怒りに触れてしまったのだ。見よ、この世ならざる青いこの炎を――」
 そして神の怒りを鎮められるのもまた選ばれた者だけだ。スヴァルの落とした呟きが、人々の心を代弁していた。