Fastnacht 17

067

 シャルカント宮殿が青く燃えている。
「なんだ、あれは……」
 ダーフィトたちは宿から出てその光景を呆然と見つめた。
 彼らだけではない。あちこちの建物から無数の野次馬が顔を出している。大通りは人でごった返していた。
 そのうちの一人を捕まえる。
「おい、どうしたんだ! あれは!」
「知るかよ! 突然宮殿が出火したんだ! 今みんな避難してきてんだよ!」
 まだ若い男だった。どうやら宮殿の方からやってきたらしい。他にも道を険しい顔つきで逆走する人々が、宮殿から避難してきたという者たちだろう。
 退避誘導のため、憲兵とは違う兵士の制服を着た男たちの姿もあちこちに見られる。
 だが肝心の、今宮殿で何が起きているのかがさっぱりわからない。
「あれは炎じゃない」
 つい先程ウルリークと共に宮殿を辞してここまで戻ってきたばかりのセルマが口を開く。
「セルマ?」
「あれだけの規模の火事が起きたら普通もっと熱風や灰がやってくるはずだ。空の色だってもっと変わる」
 ここは宮殿に一番近い帝都内の高級宿だ。普通の火事だったら十二分に熱風の範囲内である。しかし熱さも灰も何もここまでやってこない。
「あの青い炎、普通じゃありません!」
 壮麗な宮殿を包んでいるのは、神秘的な青い炎だった。炎のようなゆらめきを持つ光だが、どうやら火ではないようだ。
 熱さを感じず、水で消えることもなく、灰も出さない。どうやら普通の炎と燃え方も違うようだが、ここからでは詳しくはわからない。
「あの光はなんだ? あれに包まれるとどうなる」
「そんなのここでうだうだ言っててもわかるはずありませんよ。兵士の皆さんも答えてくれる様子はなさそうですし」
 混乱極まる城下の様子を眺めながらウルリークが続けた。
「でも、これってチャンスですよね。今ならリューシャさんを取戻しに宮殿に乗り込んでもバレませんよ。きっと」
「あの炎が何かもわからないのに飛び込むのか?」
「『虎穴に入らずんば虎児を得ず』ですよ」
 決まってからは早かった。ダーフィトもセルマもシェイも即座に自分の分の装備を整える。彼らの気が変わる様子がないので、ラウズフィールも慎重論を崩す気はないものの手早く支度を済ませた。
「辰砂さんや銀月さんも動きましたしね。ここが勝負どころでしょう」
 ウルリークが炎から目を離さないまま呟いた。

 ◆◆◆◆◆

「やぁやぁお久しぶりっすね皇帝陛下ぁ。そんなわけでちょっと俺とお話ししません?」
 どう考えても一国の皇帝に話しかけていい態度ではない。不敬罪で斬首ものだという語り口で声をかけてきた男は、ある意味すでにこの世のものではなかった。
「お前……」
「どうやら最近うちの陛下とかその他諸々色んな人がお世話になっているようなので、俺も旧知の人々に一応ご挨拶しておこうかと思いましてー」
 妙なる銀髪と青い瞳。どれほど光を弾いてもそれは夜に浮かぶ月を思わせる涼しげな容姿の、美しい青年。
 だが、その態度は常に見た目の端麗さを裏切る軽さだ。軽快と言えば聞こえはいいが、単に軽薄な男。
「仮にも宮廷勤めの経験があるなら、もう少しマシな言葉遣いができぬか? 元ベラルーダ宮廷魔術師長ザッハール」
「お久しぶりですね。シャルカント皇帝スワド陛下」
 ベラルーダ王に不敬を働いて返り討ちにされ、生死も定かではないまま行方不明とされたその男。
 人気のない回廊の途中に突然現れたその男を連れ、スワドは宮殿の中枢から離れた一画へと向かう。
 いつもはスワドがこの辺りに足を踏み入れるのは珍しいのだが、さすがにこの男の姿を誰かに見られるのはまずい。かといっていつものお遊びのための部屋を選ぶと、ラウルフィカの行動圏内とも被るので更にまずいことになる。
 賓客のための画廊。国中の名画と宝物、それから歴代の皇帝の肖像画が飾られているその場所にスワドはやってきた。正確には画廊傍の休憩室だ。
 ゆっくりと美術品を鑑賞するための長椅子に腰かけてザッハールに問いかける。
「それで、何の用だ?」
「単刀直入に言いますが、そろそろうちの陛下から手を引いてくれません?」
 にっこりと笑いながら、銀の月の魔術師は来訪の意図を告げる。
「私とラウルフィカのことを他人にとやかく言われたくはないものだな。お前があれと恋人同士だとでもいうのならまだしも」
 ラウルフィカがザッハールのことを想っていたことなど、彼に近しい者は誰だって知っている。その上で、結局彼らはラウルフィカの潔癖さ故に壊れていったのだということも。
 わかりやすい皮肉にもザッハールはまったく動じなかった。つまらないことだ。ここで少しでも動揺する可愛げあれば、今のカシムのようにまだラウルフィカの傍にいられただろうに。
 スワドは三年ぶりに会った男の顔をじっくりと見て、あることに気づいた。
「お前……容姿が変わっていないな」
 もともと十代の少年ならまだしも二十代も後半の男の容色など、三年程度で変化と言う程の変化はないかもしれない。
 だがそれにしても、今のザッハールはとても三十間近の男には見えなかった。出会った時と変わらぬ飄々とした態度の青年だ。
「そりゃあ今の俺は、幽霊のようなものですから。皇帝陛下も御存知でしょう。ベラルーダの元宮廷魔術師長は、辰砂に連れて行かれたのだと」
 ラウルフィカは確かに刺したと言った。
 あの傷で生きているはずがない、とも。だがしかし現にザッハールの遺体は国中探しても見つからなかった。
「あの噂が真実だと? お前は創造の魔術師に助けられたのか?」
「その通りです」
「冗談だろう?」
「本当ですよ」
 ザッハールが冗談を言っているのかどうか、スワドにも見極めがつかなかった。もともと常にへらへらとして、本心を掴ませなかった男だ。
 今も微笑みながらこんなことを告げてくる。
「あなたはラウルフィカ様を追い詰めすぎた。それであなたが刺されるくらいならまぁまだマシだったんでしょうけど、今回はちょっとやりすぎですよ」
「やりすぎ? お前が言っているのはラウルフィカのことか? それとも――」
「俺の協力者はアレスヴァルドの王子殿下を非常に気にかけていまして」
「ほぉ……」
 スワドは口の端を吊り上げ、愉しげに笑った。
「その協力者とは、やはり創造の魔術師か?」
「何故そう思うんで?」
「リューシャが気にしていたからだ。創造の魔術師のことを」
 告げた瞬間、ザッハールが驚いたように表情を崩した。しかしすぐに何かに納得した表情となる。
「へぇ、なるほど。お師様の勘違いってわけでもなさそうだ」
「どういう意味だ?」
「さすがにこれ以上言ったら俺がぶっ殺されるんで無理ですー」
「相変わらずふざけた態度の男だ」
 おちゃらけた態度のザッハールににやにやと笑うスワド。二人とも表情は明るいがどう見ても友好的な関係とは見えないその間に、ここにいない幾人かの人々の存在を挟んでいる。
 スワドはラウルフィカを通してザッハールという魔術師のことをよく調べたし話も聞いたが、こうして一対一で話をした機会は少ない。
「創造の魔術師か。ぜひとも会ってみたいものだな」
「おや、皇帝陛下はうちのお師様にご興味が?」
「当然だ。かつて神へも反逆した伝説の魔術師。神話上では破壊神に負けたとされているが、不老不死となって今も生きているなどというお伽噺がある。それも、お前の様子を見る限りあながち迷信とも言い切れないようだな」
 今いる画廊に並べられた美術品など比べ物にならない程人々の興味を引く伝説的存在。
 人でありながら人を超えた存在。神にさえ匹敵する力を持つ最強の魔術師。
 邪悪な魂を滅ぼされたと伝えられる一方で、あらゆる時代の世界中様々な地域に『辰砂が現れた』という言い伝えを残す。
「人間なら一度は会ってみたいと思うのが当然だろう?」
「そうかなぁ? 普通の人間は普段からそんなこと考えちゃいませんよ。辰砂なんて世間では悪い子を食べにくる妖怪程度の扱いですもん」
 俺はただの一般市民ですから、と一時は一国の魔術師の最高位にまで昇りつめたはずの男はあっさりと言う。
「権力者が創造の魔術師を望み始めたら、それは悪い兆候だ。世の中思い通りにならないものは何もないとまで権力を極めた支配者の行き着く先は大概が不老不死だそうですね」
「私は別に不老不死を望むわけではないぞ」
「知ってますよ。人を超えて神になりたいんでしょう。――馬鹿らしい」
 青い瞳がすっと酷薄な色を宿す。ようやく本性を見せる気になったかと、スワドは半ば楽しみながらザッハールの変貌を見守った。
「あなたには神への階梯なんて絶対に昇れやしない
 ――神を気取り悦に浸る者よ! 貴様にその資格はない!
 ザッハールの言葉と、先日リューシャに言われた言葉がどこか重なる。だが目の前の男の言葉は、先日異国の王子にそう告げられた時ほどにはスワドの胸に響かなかった。
 逆に言えば何故先日はあれほどリューシャの言葉を不快に感じたのか? スワドはそこまで考えない。
「それで?」
 余裕が消えたわけではない。だが胸の内側のどこかにちりちりとした不快感を抱えながら、スワドは表向き顔色を変えずにザッハールの話を促す。
「お前は私に何をさせたいんだ? ラウルフィカから手を引けと言うからには、私を殺しでもするか?」
「いいえ。俺は特に何もしませんよ。俺はね」
 ザッハールがそう口にした瞬間だった。
 恐ろしい速度で廊下を舐めるように伝ってきた青い炎が両脇の壁を包み込んだ。
「何?!」
「始まりましたか」
「これはどういうことだ?!」
「最初に言ったでしょう。今回はやりすぎですって。ラウルフィカ様のことはいいんですよ。いや俺としてはよくありませんけど。でもあの人はあくまでも人間だから。今回あなたが喧嘩を売った相手は誰だと思います?」
 にんまりと悪戯な猫のように意地悪げに笑いながらザッハールは教えた。
「アレスヴァルドは神の血を伝える国。言い伝えってのは馬鹿にできないもんですね」
「貴様……」
「ああ、それと。一応訂正しておきますと、うちのラウルフィカ様は俺の手助けを求めるような弱い人ではありませんから、そこのところはお間違いなく。――さて、これで俺の役目は終わりです。時間稼ぎはもう十分でしょう。御機嫌よう、陛下」
 スワドが更に情報を聞き出そうとその服の裾を捕らえようとした瞬間、ザッハールの姿はまるで何もなかったかのように宙へと掻き消えた。
「一体何だと言うのだ、これは」
 周囲を取り囲む青い炎を手に取る。その瞬間、触れた場所からぼろりと自らの体が崩れ去った。
 ――アレスヴァルドは神の血を伝える国。
「リューシャ、貴様の仕業か……!」
 忌々しげに呟くと、皇帝はぎりりと唇を噛みしめた。