第3章 折れぬ翼
18.運命の交錯
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宮殿内を隅から隅まで見て回った。普段は人がいないようなところまで。スワドがラウルフィカとレネシャにしか知らせていないような隠し部屋まで。
執務室にも立ち寄った。重要書類はすでに文官たちが持ち出しているだろう。その中でも特に見られてはまずいようなものは普通の炎をつけて燃やし処分をした。
スワドもラウルフィカも死ぬのであれば、二人の間で交わされた密約などもう不要だ。それがベラルーダにとって不利なものなら尚更だ。ラウルフィカは数々の証拠を隠滅して回る。
やがて全てを無に帰し、なんとなく中庭へと足を向けた。建物内を走り回ったから外の空気を吸いたくなったのかもしれない。
おかしな話だ。もう屋内も屋外もないだろう。どうせ全てが崩れ落ち、自分は死ぬ。ここはラウルフィカの国ですらない。どこで死んだって同じだ。
ならばせめてベラルーダの銀の砂漠とその頭上に広がる青い夜空へと繋がる空の下へと、ラウルフィカは足を踏み出す。
だが、そこには予想外の姿があった。誰もいないはずの宮殿内に人の気配。
呆然と佇む、この国の気候にそぐわぬ外套姿の細身の影。
「リューシャ?!」
「ラウルフィカ……?」
樹木も花々も青い炎に包まれて幻想的に燃える中庭の開けた空間に、この現象を引き起こした本人であるはずのリューシャがいた。
瞳にいつもの光がある。ラウルフィカの名を呼んだのは、先程とは違ういつものリューシャだ。
「まだ中にいたのか? お前も早く避難しろ」
正気に戻っているのなら話は早いと、ラウルフィカはリューシャに避難を勧める。この青い炎は普通の火ではない。つけたリューシャ自身が燃えることはない。
だがリューシャはラウルフィカの言葉も耳に入っていないようで、近づいてきたラウルフィカに咄嗟にしがみついてきた。
「リューシャ」
「我がやったのか? これを」
近づいて初めて様子がわかる。
リューシャは泣いていた。大きな双眸からぼろぼろと涙を零し続けている。
リューシャのこんな姿をラウルフィカは初めて見る。彼は緋色の大陸で人身売買組織から助け出した時でさえ、こんな不安な姿を見せたことはない。
肉体的な苦痛に生理的な涙を流すことはあっても、自らを憐れみ感情的な理由で涙を零すことはありえなかった。
「頭の中で声が響く。知らない記憶が当然のように入り混じり、何度も何度も同じ場面を見る。何度も何度も――辰砂を殺す」
「リューシャ」
「我は……我のこの夢が意味するのは、前世の咎。我は――」
「“総てを滅ぼす破壊者”――破壊神よ」
しゃくりあげるリューシャの髪を柔らかく撫で、ラウルフィカは先んじてその正体を口にした。
「お前の夢はそういうことだったのだな。神の血を伝える国に生まれた、破壊神の生まれ変わり。お前が見た夢に出てくる銀髪の少年は間違いなく辰砂だろう」
「そうだ。我が殺した! 他でもない我が!」
血を吐くような叫びをリューシャは――破壊神は上げる。
「愛していたのに! 誰より愛していたのに! 神々に反逆し創造の女神にさえ牙を剥いた辰砂を我は滅ぼさないわけにはいかなかった。それが創造神の末子の務めだから!」
ラウルフィカは神話にそれほど詳しいわけではない。教養として通り一遍の知識しかない。
神話によると創造の魔術師辰砂は驕り高ぶる傲慢な人間。その傲慢さ故に自らの力が神にも通用すると戦争を仕掛けたという。
その神話の裏側で、もう誰も語らぬ真実があることなどわかるはずもない。天界最大の武力である破壊神と創造の魔術師の間に敵対関係以外の何があるのかも。
ただ、夢の話をしたリューシャの様子から、彼がどれほど辰砂という銀髪の少年に焦がれていたかを知っているだけだ。
「我、は……」
激情を火花のように迸らせたリューシャの瞳から一気に力が抜け、虚ろな硝子玉のように光を失う。
「我には、お前の気持ちはわからぬ。我は裏切られたことなんかない。裏切った。ただ裏切ったのだ。この世で最も愛している相手を」
ラウルフィカの背に腕を回して抱きついた。リューシャにとって今のラウルフィカは信用に足るはずもないというのに、それほど明らかになった真実に心が擦り切れていた。
あれだけ凌辱と拷問を受けても決して屈しなかったリューシャが――……。
先程は夢で見たことをもとに破壊神としての話をしていた。今の言葉はラウルフィカとのやりとりが発端の、リューシャ特有の記憶だ。
今のリューシャはどちらなのだろう。破壊神なのか、リューシャ=アレスヴァルドなのか。前世の人格と今生の人格。それはまったく同じもので、当然のように同一化できるものなのか?
少なくともリューシャの様子はそう見える。彼は破壊神であり、リューシャ=アレスヴァルドである。二つの人生に対し唯一の意識が己を顧みて過去を嘆く。過去は過去、今は今だと切り離すことはない。
リューシャと言う名の破壊神は、生まれ変わっても辰砂を愛しているから。
だが、辰砂は……?
破壊神に“殺された”。あるいは倒された、封印されたなどという伝説のある創造の魔術師、辰砂。
彼にとって、破壊神とはどういう存在なのだろう。そしてその過去を持つリューシャは……?
リューシャは辰砂を“裏切った”という。
ザッハールがラウルフィカを裏切るように裏切ったのだと。
「辰砂はお前を赦さないと思っているんだな。リューシャ」
腕の中の少年の体がびくりと震える。
『裏切った』側は決して『裏切られた』者の気持ちを理解することはできない。例えいつか自分自身が誰かに裏切られたとしても。
その恐れが、今までになくリューシャの足を竦ませている。
「我は……ずっと辰砂に会いたかった。だがどんな顔で会えばいい。会えばまた殺し合うかもしれないのに……」
無力な者は不幸だ。誰しもある程度力を持っている。単純な肉体的腕力や戦闘力であったり、知識や知恵だったり。何もできない人間などいない。それら全てを奪われてまったくの無力であるならば、それはやはり不幸だ。
けれど、力がありすぎるのもまた不幸でしかない。
リューシャは今まで、人が本来普通に生きていく上で手に入れる力を全て奪われ封じられてきた。大きな力の振るい方に慣れていない。
それが今になっていきなり世界をも滅ぼせる力を手に入れたのだ。動揺するなと言う方が無理である。
今、リューシャが辰砂と出会ったら。
「我はまた、辰砂を殺すのか?」
それとも今度こそ自分が殺されるのか?
わからない。総てを壊す神。どうしてそんなものが存在しているのか。
「もうわからないんだ! 何もかも……!」
リューシャの自暴自棄な言葉に反応するかのように、中庭の樹木の一つが足元から腐り音を立てて倒れた。
「!」
ラウルフィカは思わずリューシャを抱きしめて庇う。
「リューシャ。今はとにかくここから逃げろ。死ぬぞ」
「死ぬ?」
初めて聞く言葉だとでも言うように、リューシャが一瞬呆けた様子で鸚鵡返しをする。
だがすぐに理性の光が戻った。周囲を見回して状況を確認し、今はこんなことをしている場合ではないと自覚したようだ。
「そうだな。泣いて事態が好転した試はない。さっさとここを出るぞ。炎の少ない方に――」
頬から目元にかけて乱暴に拭い去ったリューシャが、中庭の出口であり回廊に向かう道を目指して足を踏み出そうとした。
動こうとしないラウルフィカの様子に気づいて振り返る。
「ラウルフィカ」
「行け。私はいい」
「……何を言っているんだ?」
死ぬぞ、と。先程自分がラウルフィカに言われたばかりの台詞をそっくりそのまま返す。
「ああ、そうだ」
ラウルフィカは頷き微笑みを返す。だから、残るのだと。
「何を……ラウルフィカ、お前何を考えている?!」
「リューシャこそ覚えていないのか? 私はレネシャを殺した。最初から、こうするつもりだったんだよ」
苦笑交じりのその言葉で、リューシャは今まであやふやだったここ数時間の記憶が一気に蘇ってきた。
麻酔と麻薬を打たれて危うく剥製にされるところだったリューシャは破壊神の記憶と力に目覚めた。――そんなことはどうでもいい。その後だ。
あの時、確かにリューシャが囚われレネシャが剥製作りの準備をしていた部屋にラウルフィカがやってきた。
そしてレネシャを刺した。殺したのだ。
ラウルフィカがあの時にそんなことをする理由は一つしかない。
「お前、まさか」
「……自惚れたことを考えないでくれよ? 私は最初からレネシャやスワド陛下に脅迫されていた。どうしてもあの二人を私自身のために排除する必要があった」
だがラウルフィカは、それができるのだったら今でなくともとっくにやっているだろう。そしてこれまでできなかったのだとしたら――何も今この時でなくともいい。ベラルーダ本国で大きな事件が起きたなどという話は聞いていない。
リューシャのせいだ。リューシャを助けるためにレネシャを殺したのだ。自惚れるなと言われても、そうだとしか思えない。
「もともと、潮時だったんだ。緋色の大陸に渡る前に宰相に御璽を預けて船に乗った。これからのベラルーダの未来には、私は必要ない」
「だ、めだ……駄目だ!」
リューシャはラウルフィカの腕を引こうとした。だが彼の力でラウルフィカを引きずるようなことはできない。
「リューシャ。私はこれでいいんだ」
「駄目だ! だってまだ生きているのに、生きられるのに、どうして……?!」
「お前にはわかっているんだろう、リューシャ。わからないはずがない。死の誘惑とその有用性。お前は生きるべきだが私は死ぬべきだ」
リューシャがぐっと言葉に詰まる。固く握られた手をラウルフィカはそっと解いていった。
「色々とすまなかった。リューシャ。とても謝って済むことではないが……。私はお前に会えて、良かった」
リューシャの瞳から涙が溢れる。
「我がお前を殺すのに? お前に死ぬ決意をさせたのに」
それでも良かったと、そう言うのかと。
ラウルフィカが軽くリューシャを抱きしめて、そっと離す。そして庭園の出口へと押し出した。
スヴァルが教えた抜け道はすでに迷路庭園全体が炎に包まれていて使えない。――リューシャならあるいは無事かもしれないが。
「さぁ、行け」
「すまない。ラウルフィカ」
リューシャは駆け出した。