070
回廊を駆け抜ける。
広い宮殿だ。一度も通っていない場所もあるし、一度しか通っていない場所も多い。ここまでやってきたということはその逆の道を辿れば元の部屋までは辿り着けるはずだが、生憎その辺りの記憶は途切れている。
宮殿の出入り口付近には連れて来られた時しか足を踏み入れていないということもあり、どこを通ればいいのかもよくわからない。
せめてこれが他の大陸であれば建築様式がアレスヴァルド流に近いものもあろうが、砂漠地域では気候が違いすぎて法則性を読むのは難しかった。通路だと思ったら風通し用の扉が備え付けられた室内だったということもあるくらいだ。
迷い、惑い、リューシャは迷路を進むように、よろめきながらもなんとか歩ける道を探り出す。
「くそっ……!」
焦る思考は鈍りゆく。考えても詮無いことを、考える。
――さぁ、行け。
こちらを促し微笑んだ青い瞳が、脳裏から離れてくれない。
「ラウルフィカ……」
砂漠の国の王。結局彼の国に行くことはなかった。彼の事情を言葉の上でしか知らない。
自分は勝手なことを言い捨て、向こうは向こうで妙な押し付けをしてきて……でも決して憎んではいなかった。
わかっている。あれは彼の望み。彼の意志。リューシャがあの場に残りどんな説得をしたところで、ラウルフィカが決断を変えることはないだろう。
彼を救えるのはまだ見ぬ“銀の月”だけだ。わかっている。でも……!
この大陸に来て、たくさんの人に出会った。
シェイ、スヴァル、ラウルフィカ、スワド。短い付き合いで知り合いとすら言えないがレネシャや、シェイを迎えに来たラウズフィールなども顔を見るだけは見た。
アレスヴァルドにいた時とは違い、ここではリューシャの神託はさほどの効力を持たない。だからどんな人々の反応も新鮮だった。
故国にいた頃もお忍びで街に降りたことはあれど、今ほど自由ではなかったのだ。リューシャの本当の立場を知らないうちは優しくしてくれる人に対しても、どうしても疑念が拭えない。忌まわしい神託について知られれば、誰もが掌を返すのではないかと。
この宮殿に来て、驚かれたり面白がられたり憐れまれたり、それぞれの反応があった。対岸の火事という扱いかもしれないが、神託の内容だけで一様に忌み嫌われたわけではない。そのことは、リューシャの持つ世界を広げてくれた。
そして、アスティと名乗っていた少年――辰砂。
彼に出会えて、何かが動き出した。終わりへと続く、けれど今この瞬間もそこに存在している何かが。
そうだ。その正体を突き止めるまでは死ねない。
リューシャは崩れ落ちそうな膝下にもう一度力を入れて駆けだす。
その足が、ある通路の入り口で止まった。
向こう側の出口の前に人影がある。
真っ白で華奢な、少年の――。
「あ……」
静寂が落ちた。
音もなく朽ちていく城の中で時が止まる。
全てを包む劫火の中。紅玉と瑠璃の眼差しが静かに見つめてくる。
まるでこの世の終わりを眺める悟りきった賢者のように。
「思い出したの? 全部」
それは恨み? それとも憐れみ?
何とも形容しがたいさやけき水面のような表情で、創造の魔術師はリューシャへと問いかけた。
「思い……出した」
一度止まったリューシャの時は再び動き出す。通路を途中まで歩き少年へと近づいた。
「思い出したぞ。……辰砂」
「そう」
懐かしい。何もかも懐かしい姿が目の前にある。何度も夢の中で見た少年が今ここにいる。
あれは前世の記憶であり、ある意味今生での現実でもあった。創造の魔術師は今でも世界各地に名を残し、不老不死として密かに生き続けているという逸話まで存在する。
辰砂は確かにこの世界に、この時代に生きていた。リューシャがまだリューシャとして生まれる前の時代に見た姿そのままに。
「懐かしいね、“破壊神”」
辰砂が頬を緩める。淡い色の唇を持ち上げてにっこりと笑った。
「それで、どうするの? 今度こそ僕を殺すの?」
リューシャは再び凍りつく。
青い火の粉が舞い落ちる花のように散った。
夜を照らすその光が周りの風景をこの世のものではないように見せている。けれどこの光景は紛れもない現実だ。
愛しい愛しいその人の唇から紡ぎだされる容赦のない言葉も。
「お前が何のために一度人間界に降りたのかなんて知らない。だがお前がそうしてまで僕の邪魔をすると言うなら、僕の敵だ」
「……辰砂は今何かしているのか? また神々に対し何か仕掛けようと――」
「――仕掛けるだって?」
先走った宣告に対し先走った勘違いと質問が重なる。ずれていく会話が誤解と不和を呼んでいく。
リューシャはいつも以上に不安を感じ、辰砂は彼の弟子には見せないような攻撃性を見せる。お互い相手の表情や態度からその裏を深く穿ちすぎて、余計に真実から遠ざかった。
「僕から何かを仕掛けたことなんて、今までだって一度もない! 手出しをしてくるのは、いつだって神の方じゃないか!」
激昂して辰砂が叫び、リューシャはその剣幕に彼らしくもなく怯えた。
赤い血に染まった白い砂浜が脳裏を過ぎる。そうだ。辰砂が神々に反逆にしたその理由は、大切な人たちを秩序神によって殺されたから。
そしてかつて破壊神が辰砂と戦ったのは、秩序神に辰砂の討伐を命じられたからだ。
元々闘神ではない背徳神グラスヴェリアは他の神々でも対処できたが、辰砂は強すぎた。人の身でありながら神をも凌駕する力により、幾柱の神を虐殺した最強にして最凶の魔術師。
けれどもとより戦いや争いを好む性格ではなく、彼が動くのは大概、誰かのためを想う時だ。
「ちがっ……そういうつもりでは!」
「――だろうね。ったく。お前がどういう仕組みで人間に転生なんて荒業を行ったのかは知らないけど、何千年経っても言葉選びの下手な奴だ」
感情の爆発に自分で呆れるかのように辰砂が溜息をつき、リューシャを見据える。
不思議な瞳だった。美しく神秘的なその色違いの双眸は、それぞれの色にまったく逆の心を灯しているかのようだ。
周囲で燃える滅びの青い炎さえ辰砂には触れることができない。破壊神の力を知っている辰砂が影響を完全に遮断する結界を張っているからだ。
彼を滅ぼすことなどできるはずがない。殺すことはできるだろう。だが、それだけだ。
そして今は――殺せもしない。
「辰砂……」
「なんだよ。というか聞いてる暇ないよ。なんでもいいからとっとと行くぞ。お前を連れて帰るって一応約束してるんだから」
辰砂は手を差し伸べる。リューシャは目を瞠った。
「行くぞ」
二人の間に残った距離を詰めるようにリューシャが駆け出す。伸ばされた手を取るのではなく、そのまま辰砂の首に齧りついた。
「好きだ」
辰砂が驚いて硬直する。
「好きだ。大好きだ。生まれ変わる前からずっとずっと……!」
十六歳の肉体をしている自分より更に頼りない十四歳の少年の身体を抱きしめながら告げる。
昔は――人間でなかった時は、肉体や外見の年齢など関係がなかったから、こんなこと気にしたことなかった。
こんなに細く華奢で頼りない身体だったのか。
こんなに幼くあどけない顔立ちだったのか。
破壊神にとっての辰砂は、外見がどうであろうと自分より年上の偉大な魔術師だった。彼を憧れて見上げることはあっても、見た目上の話でさえ頼りないなんて思ったことはない。
今ならわかる。この“永遠の少年”の姿にどれだけ辰砂の想いと決意が隠されているのか。
不自然で痛々しく、人工的で退廃的。けれど、目を離せない。
「好きなんだ……」
こみ上げる想いに声が震えた。これ以上の言葉が出て来ない。飾り気の欠片もなく愚劣で率直なただの真実だけ。
次の瞬間、リューシャは思い切り突き飛ばされた。
「しん、しゃ」
「今更……今更どの口でそれを……!!」
先とは違い、神々ではなく破壊神であるリューシャ個人に明確な憤怒が向けられる。
「お前が僕にしたことを忘れはしない。和解も赦しもありえないね! ましてやお前を愛するなど!」
再び時が止まる。辰砂の敵意がリューシャの全身を針のように縫い付けた。
どうせならその針でこの心臓も串刺しにしてくれればいいのに。
「リューシャ!」
通路の向こう側から聞き覚えのある声が聞こえてきた。急速に戻ってきた現実感がはち切れそうな心を引き留める。
「殿下?! いらっしゃいませんか?!」
「セルマ! ダーフィト!」
辰砂のように主に破壊神の記憶として知っているものではない、リューシャ=アレスヴァルドとして十六年生きた肉体で覚え込んだ声が名を呼んでいる。
生まれた時から知っている再従兄弟と、自分の意志で選んだ騎士。今生でリューシャが手を取り合う道を決めた相手。
「いた!! リューシャ――!」
「殿下、良かった! 御無事で……!」
二人が駆け込んでくる。その後から一人のんびりとウルリークが歩いてきた。
「だから言ったでしょうが。リューシャさんはどんな時でも無事ですって」
通路から飛び込んできたダーフィトとセルマに早速抱きつかれているリューシャにウルリークが手を振る。そして先の二人は素通りしたが位置的に不自然な場所に立っている辰砂の様子を見て、大体の経緯も理解したようだ。
「ああ、まぁ。そういう感じになりますよねぇ。でも辰砂さん、お気持ちはわかりますけどここは一度抑えてくれませんか?」
「わかるだって? あんたに何がわかるんだよ、ウルリーク」
「わかりますって。あなたこそ、そろそろ気づいてもいいんじゃないですか?」
辰砂はウルリークの紅い瞳に視線を移す。相変わらずその瞳に見覚えはない。だが彼が無根拠で無責任にその言葉を口にしているわけではないということだけは伝わり、ばつの悪い顔をしながら杖を振る。
「……とにかく、一度ここを出るべきだ。この後始末もしなきゃいけないしね」
青い炎はまだ燃えている。破壊神の記憶を取り戻したとはいえ、今のリューシャにはまだこの力は制御しきれない。
ならばそれを止められるのは、かつて最強の闘神とも競った伝説の魔術師しかいないだろう。
「辰砂」
リューシャはなおも魔術師の背に呼びかけたが、辰砂は応えない。
その手が杖を一振りした瞬間、彼らの姿は滅び朽ちていく宮殿内から一瞬にして消え去ったのだった。