Fastnacht 18

071

 駆け去るリューシャの背を見送り、ラウルフィカは一人宮殿の中庭に佇んでいた。
 周囲を包む炎は本物の火ではなく、具現化した滅びそのもの。従って物理現象に厳密には従わず、ぱちぱちと薪が爆ぜるような音も聞こえない。
 いっそ耳が痛い程の静寂の中、神の力に触れたものはただ音もなく朽ちていく。何十年、何百年の時を経てやってくるはずの風化が一瞬で訪れ、跡形もなく消えていく。
 風に飛ばされ消えてゆく一瞬、それらを包む青い光は火の粉として花のように舞った。
 神秘的で美しい光景。
 最後に目にするものがこれならば、むしろ恵まれた方だろう。今まで自分がやってきたことを振り返り、両手を血に染め続けてきた己が身には過ぎた終わりだと苦笑する。
 未練はある。後悔はある。
 だから死を選ぶ。
 思い残すことが何もないならばむしろ生存のための道筋を探しただろう。だがその必要はない。
 周囲を埋め尽くす炎がついに自分の身体を痛みもなく焼き始めたのを感じながら、ラウルフィカは目を閉じる。
 今は亡き妻のことを考えた。彼女が遺した忘れ形見である娘のことを考えた。
 宰相や大貴族、軍人に商人といった、かつてこの身を弄んだ男たちのことを考えた。傍若無人だが抗えない魅力のある皇帝と、誰より狡猾でそれ故に憐れな商人の少年のことを考えた。
 自分を裏切りながら最後まで忠実だった矛盾する高潔な騎士と、賢明すぎていつも寂しそうな皇子のことを考えた。残してきた国に生きる臣下や民のことを考えた。
 そしてここ一月ほどの付き合いがあった少年たち、銀の太陽と破壊の神のことを考えた。
 死者の過去と生者の未来に思いを馳せながら、終わりを待った。
「ああ、間に合った」
 その中で唯一考えることを避けたはずの声が聞こえた。
「いやー、俺の力じゃこれだけ神の力が強い中で人間の気配を探るのって難しいんですよ。事前にお師様に確認しといて良かったです」
「……ザッハール?」
 ラウルフィカは半信半疑で問いかけながら目を開ける。
 青い炎に染まる銀の髪と青い瞳。口元に浮かべた穏やかすぎて何事か企んでいるかのような微笑み。
 そこにいたのは紛れもなく、三年前に致死の傷を負ったまま自分の前から姿を消した男だった。
 三年ぶりだというのに、まるでつい先程も会って会話をしたその続きのような軽い語り口で話しかけてくる。
 そのことが何より雄弁に、彼が彼であることを示していた。
 ラウルフィカが求め続けた――“銀の月”。
「本当に、本物、なのか……どうして……」
「生憎と俺の偽物騒ぎってのは聞いたことありませんね」
 三年前から姿の変わらない青年は周囲の状況が目に入っていないかのように、にこにこと笑いながら言った。
 今この瞬間も青い炎が彼の衣服の裾に移り焦がすように風化させていくというのに、気にした様子もない。
「どうして、ここにいる!」
「ラウルフィカ様がいるからに決まっているじゃないですか」
 事もなげに言い放つ様子にラウルフィカは目を瞠る。
「言ったじゃないですか、昔。あなたが、俺があなたを愛することを許す限り、俺はあなたの味方になると――」
「そんなのはもう無効だ! 私は……」
「そうですか? いいえ。あなたは知っているはずだ。俺がまだ、あなたを愛していることを」
 ザッハールが一歩足を踏み出す。彼の爪先から青い炎は燃え広がり、足元の憐れな草花を風化させていく。
 その歩みは、滅びへの道だ。
 ラウルフィカは縫いとめられたように動けなかった。
「来るな」
 唯一動く口だけを動かして告げる――懇願する。
「来ないでくれ」
 ザッハールは足を止めない。
 ラウルフィカは再び目を瞑り頭を振って叫ぶ。
「来ないでくれ! どうして来たんだ! 生きていたなら、そのまま何もかも忘れて自由に暮らせば良かっただろう! どうしてこんな時に――」
 殺したはずだったのだ。確かに死ぬように刺したのだ。
 今のラウルフィカにとって、この男は亡霊に過ぎない。今もまだ生きているなんて悪夢でしかない。
 生きていたくせに、今この時になってまさか自分と共に死のうとするなんて。
 そんなの、悪夢でしかないじゃないか。
「こんな時、だからですよ」
 すぐ傍で聞こえた声に思わず顔を上げると、もう目の前にその姿があった。
「あなたが喜ぶ時幸せな時、そこに俺がいる必要はない。でもあなたが悲しみ、苦しむならば――その時は、傍にいます」
 どこかで聞いたような台詞だ。
 ――お前が僕から離れても幸せになれるって言うならきっと後を追わなかった。でもお前がそうして一人で不幸になる道を選ぶなら地の果てまでも追いかける。
 ああ、そうか。シェイの台詞と似ているのだ。宮殿の外に逃げた彼らを追った時、聞こえてしまった告白と。
 愛しているから。相手が幸せになる時そこに自分がいなくても構わない。
 でも不幸になるのは見過ごせない。その時は何もできなくても、ただ傍にいると――。
 それが真実の愛だと言うのなら、ラウルフィカは。
「思い上がりも甚だしいぞ、ザッハール」
 抱きしめようと伸びたザッハールの手を振り払い、その瞳を睨みあげながら告げる。
 青い瞳の縁に涙が盛り上がっていた。
「私はお前を愛してなどいない」
 相手の幸せを願う? ラウルフィカはそんなこと考えたことはない。
 妻であるアラーネアや娘のラティーファのことはそうして愛している。彼女たちの幸せを真っ先に考えた。だがザッハールに対して同じように考えたことはない。
「私は三年前にお前を殺そうとした! お前がいつか私を裏切る前に、私の方からお前を死という鎖で縛ろうとした! 私はお前を愛してなどいない――!」
 相手のことを思い遣りいつまでもその幸福を願うことが愛だというのなら、ラウルフィカはザッハールのことを愛してはいない。
 だが、ザッハールはくすりと笑うと、ラウルフィカを抱きしめた。咄嗟に逃げようとするのも許さず、強引に腕の中に閉じ込めてしまう。
「相変わらず細かい方ですねぇ。いいんですよ、そんなのは」
「なっ……!」
 人によって愛し方は違う。そんなの当たり前だと。
「あなたは王、俺はそのしもべ。いつだって命じてくれればいい。あなたのために死ねとでも、あなたと一緒に死ねとでも」
 ラウルフィカの身体が強張る。強引に抱きしめられたため不安定な自らの身体を支えるように、しがみついたその腕に力がこもった。
 愛しているから、相手を傷つけないように遠く離れる。
 それは裏を返せば、近く居れば必ず傷つけ合うしかないということだ。
 掴んだ腕は骨を折ってまでも絡み合い、触れた指先は鋭い爪で皮膚が血を流す程に抉る。
 それでも――離れられない。
「馬鹿だ……! お前は馬鹿だ……ザッハール!」
 ラウルフィカは伸ばした腕をザッハールの背に回す。息も出来ぬほどにきつく抱きしめた。
 けたたましく笑いながら、ザッハールもますます強くその身を抱きしめ返す。
「そんなの、今更じゃないですか! 俺はとっくに狂っているんですよ。あなたを愛したその時から、あなたに狂ってる」
 青い炎が総てを燃やしていく。
「愛しているラウルフィカ。あなたはいつまでも俺のものにはならないけれど、俺はとっくにあなたのものだ」
 三年前、ラウルフィカに殺されるはずだったその時から姿の変わらない男はそう言った。
 滅びが二人を包む。何人も死からは逃れること叶わない。
 なのに二人は幸せだった。多くのものを裏切り傷つけ、その手を血に染めて罪を重ねたのに、それでも救われている。
 破壊の力が奪い去り、滅ぼしてゆくこの腕、この体温。それは今この時のためにさえあったのだと。
 もう離れない。
 青い火の粉が舞う。それは彼らにとっては祝福の花弁だ。万雷の拍手にも似た耳鳴りが止まない。体から力が抜けていく。
 幸せだった。
 意識が途切れるその瞬間でさえも相手の温もりを感じていられる。ただそれだけで――。
 滅びが親しげな友のように肩口に触れる。
 銀の光が二人を包み込んだ。

 ◆◆◆◆◆

「準備はいい?」
 創造の魔術師は二人の弟子に問いかけた。
「辰砂、ザッハールは……」
「あのバカはもう放って置くしかないよ」
 今まで世話になりました。そう言って先程自分のもとを去って行った弟子の一人のことを思い出し、辰砂はぶすくれた顔で紅焔の問いに返事をする。
 今ここにいる二人の弟子とは、紅焔ことシファと白蝋ことアリオス。銀月ことザッハールはいない。
 一度は人の世を捨てたはずの男は、結局自分自身の想いを裏切ることはできなかったようだ。彼は別に呼ばれてもいないのに、眼下の宮殿でただ一人死を待つ王のところへ駆けつけた。かつて自分を刺し殺そうとした者のために永遠を捨てた。まったく、呆れる程の一途さだ。
 こんなことなら最初から助けるのではなかったと、苛立たしげに辰砂は考える。神々に反逆した時さえ後悔していなかったというのに、何故今こんな時に後悔をしているのだろうか。
 更に苛立たしいのは、そのザッハールが去り際辰砂にかけていった台詞の数々だ。
 ――お師様もそろそろ素直になればいいのに。
 ――何の話だよ。
 ――破壊神様のことですよ。本当はもう、憎んでなんかいないんでしょう。裏切り者である俺を拾ったくらいなんですから。
 ――お前は別に僕を裏切ったわけじゃないだろうが。それとこれとは別だよ。
 ――いいえ、同じことです。
 無理矢理意識を眼下から切り離し、辰砂は自分と同じように中空に佇む二人へと視線を移した。
「手筈はわかってるね」
「はい。一応。私たち二人でどこまでできるかわかりませんが」
 白蝋が緊張を浮かべながら頷いた。
 制御のできない神の力を放ったリューシャではこの事態を収拾できない。だが自分一人でも手に余ると判断し、辰砂は残る二人の弟子をわざわざ別大陸からここまで呼び寄せた。
 シャルカントの宮殿を包む滅びの力。自然の炎とは違うあの青い炎を消さねばならない。
「まったく、生まれ変わってまで僕に尻拭いさせるなんて、破壊神のやつ……」
 ぐちぐちと呟きながらも辰砂は魔術の補助となる杖を振るい結界を張る。
 炎とは違う青い光が伸びていく。宮殿の敷地内全体を包み込むように光の睡蓮の花が咲いた。
 滅亡を意味する睡蓮の花は、背徳の神グラスヴェリアの象徴だ。未来に繋がることのない刹那の禁断の恋を意味し、それ以外の絆を断ち切る。
 創造の女神からその力を奪ったにも関わらず、結局自分は破壊とか禁忌とか裏切りとか破滅とか、そう言ったものから離れることができないのかもしれない。
「まぁ、いいさ。別に目的のある人生でもないしね」
 より良く生きるだとか理性的に日々を過ごすだとか、そう言った観念と辰砂は無縁の存在である。
 だから、わざわざ三年前に助けた弟子が恋のために死のうとするのも止められなかった。それが――人としての限界だ。
 別に構わない。ザッハールを止めることはできずとも、この宮殿を包む神の炎を消滅させることはできる。その程度の力さえあればいい。それで十分だと。
 伝説的魔術師の知られざる奇跡は、こうしてひっそりと始まって終わった。