Fastnacht 18

072

 この世界で何のために生きるだとか、そういうことはどうでもいいんだ。
 ただ自分が生まれてきた理由だけを知っている。生まれる前からの欲に突き動かされていて、今の自分が見えない。
 他の者たちのように剣を持ち戦える力も、知略に富んだ思考も何も持っていない。
 本質たる魂でさえ扱いきれず持て余して、無力どころか足手まといだ。
 それでも生きようとする。魂の器でしかないと考えていたこの肉体は笑い、泣き、怒り――あなたに触れる。
 そうして初めて、自分がここに“生きている”ということを知った。
 前世も現世もない。過去も未来もない。
 ただ、今も昔も、姿や形を変えて“自分”という存在はある。
 何度拒絶されてでも、あなたにそれを示したい。
 だから――どうか。
 ――おいで、“******”。

 名前を呼んで。

 ◆◆◆◆◆

「リューシャ!」
 重い瞼をのろのろと開き、見上げた視界にダーフィトの泣き笑いの顔が映った。
「良かった……! ようやく目が覚めた……!」
 体重をかけないように抱きついてくる再従兄弟の様子で、ようやくリューシャは現状を把握する気になった。体が重くて喉が渇く。あちこちが痛い。ここはどこだ。今は一体何時だ。――何もわからない。
「ダーフィト、殿下にまず水だ」
「ああ、すまない」
 入れ替わって目の前に現れたセルマが言葉通り水の入った椀を盆の上に捧げ持っていた。ダーフィトはただ退くのではなく、リューシャの体を支えて助け起こしてやる。ふかふかとしたクッションが次々に背中に入れられた。
 二人の甲斐甲斐しい世話により、ようやくリューシャは人心地ついた。
 セルマが持ってきたのはただの水ではなく薬湯代わりだったらしい。薄く色がついた水は清々しい清涼な味と香りがする。
「この薬湯も、ザッハールがくれたものなんだよな……」
 何故かしみじみとダーフィトが言う。と言うかザッハールとは誰だ? 聞いたことのない名前のような気がするが、いや、どこかで聞き覚えも……駄目だ、頭がまるで働かない。
「そんなこと言ったら余計に混乱するだけですって。感慨にふけるのは後回しにして、今はリューシャさんにご飯でもあげたらどうです?」
「……ウルリーク、いたのかお前」
「おはようございますリューシャさん。相変わらずこの救出劇の立役者につれないお言葉をどうもありがとう。見事に喘ぎ掠れ声ですね。三日も寝込んでたんだから何か食べた方がいいですよ」
「三日?!」
 色々と聞き捨てならない単語を連発されて話についていくのも一苦労なのだが、まず気にするべきはそこだろう。
「三日って……え?」
「三日です。あなたが宮殿で何かやらかしたらしく辰砂さんがすげー不機嫌になり、宮殿は燃えカスとなり、シャルカント帝国は混乱しきってから三日」
「ちょ、待て! 一から順に話を……ごほっ、げほっ」
「だーからもうちょい落ち着きなさいと言うに」
「混乱させているのはお前だろうが!」
 ウルリークがセルマに殴られて部屋の入口へと引きずられていく。ダーフィトがリューシャの背をさすった。
 バタン、と騒がしく扉が閉じられる音を合図に、リューシャは傍らのダーフィトへ尋ねた。
「……どうなっているんだ?」
「俺たちの方も聞かせてほしい。リューシャ、お前宮殿で何があった? その身体は……」
「見たのか?」
「……手当はほとんどウルリークが。でも、話は聞かされた」
「大したことはない。やった相手とも和解済だ」
「でも!」
「その前に状況を教えてくれ。その内容次第では、抗議の必要すらどうせなくなる」
 暗にシャルカント宮殿内の上層部だと告げると、ダーフィトは押し黙った。
「宮殿が原因不明の火災に遭ったことは覚えているな?」
「ああ。その原因は我だ」
「何? いや、まぁいい。後で聞く。それで、シャルカント帝国の現状なんだが……」
 ダーフィトが一瞬口ごもる。彼にしては珍しく、歯切れの悪い切り出し方。それがすでに答を物語っていた。
「帝国の皇帝が亡くなったらしい。遺体はほとんど見つからなかったらしいが、燃え残った着衣があったと。それから出入りの商人と、関係国であるベラルーダの王も亡くなったと聞く」
 ――私はお前に会えて、良かった。
 リューシャの脳裏に青い瞳が過ぎり、消える。
「……そうか」
「死んだ人間はほとんどいないらしいが、その数人がよりによって皇帝と他国の王だからな。今シャルカント帝国は上から下への大騒ぎだ。皇太子もまだ幼いんだろう? 年の割にしっかりしているそうだが、他国とやりあうのも大変らしい」
「そうか。スヴァルがな……」
 スワド。レネシャ。スヴァル。ラウルフィカの口振りからすればスワドのことも生かしてはおかないだろうと当然考えられたが……。
「そう言えば、シェイは? というか、他にもいろいろな奴らと協力していたんだろう。その……辰砂とか」
「ああ。あいつら? 何か用事があるとかで、すぐに帝国を離れなきゃいけないとかって話でさ。結局お前に紹介しそびれたな」
 リューシャにとって辰砂という存在の重要性を知らないダーフィトはあっさりとそう言った。ではすぐに連絡をとることは叶わないのか、とリューシャは一人落ち込む。
「どうした?」
「……なんでもない」
 すぐにでも顔を見たい。合わせる顔がない。二つの気持ちが胸を引き裂く。こんなことは初めてだ。
 まさかあの時宮殿での険悪な再会が最後ではないよなと不安になるものの、ダーフィトは辰砂の連絡先など当然知らないらしい。
「なんだ? 会いたかったのか? 礼でも言う気か? お前にしては珍しい。あ、でもそう言えばシェイ君とは友達になったんだってな! 良かったなー、初めての友達だろ?」
「もういいダーフィト。頼むから少し黙ってくれ」
「なんで?!」
 確かにシェイにも会いたいが問題はそこではない。雛鳥の世話をするように見守っていたダーフィトがショックを受けた顔をするが構っていられるものか。
「……世界は広いな……」
「ああ。そうだな」
 リューシャたちが黄の大陸で過ごした波乱の日々が、これでようやく終わる。

 ◆◆◆◆◆

 その後のこの大陸に関しての話をすると。
 まずは南東砂漠地域を治める帝国の皇帝として、この直後七歳のスヴァル皇太子が正式に即位する。
 そして同じ頃、同じように王を失ったベラルーダ王国では、まだ一歳の幼君であり唯一の王位継承者であったラティーファ王女が女王として即位。宰相であり、義理の兄でもあるゾルタを摂政として国を動かしていくこととなる。
 明らかにこの世のものではない青い炎によるシャルカント宮殿消失事件は、「神の怒り」に触れたためと帝国内外で恐れられた。
 元より皇帝スワドは不遜にして奇行の目立つ気紛れな支配者であったため、何か手を出してはならぬものに触れてしまったのだろうと周囲を納得させるのは早かった。この裏側で幼帝スヴァルは様々な労苦を背負うが、見事な手腕によって父帝の時代より更に帝国を盛り立てていく。
 しかしかつて武力と勢いで周辺諸国を支配したような統率力は次第に失われ、帝国に併合された各国は次々に独立解放を果たすこととなる。スヴァル帝は滅多なことでは軍を動かさず、シャルカントの元々の支配地域の力を落とさぬまま、独立を望む地方にはそれを許した。
 彼が武力を用いたのはこれより十三年後。
 ベラルーダの若き女王ラティーファへの求婚時となる。
 ベラルーダ女王はシャルカント帝の求婚を断り、両国は以後何度かその時々の情勢も絡みつつ衝突を続けることとなる。
 決着がついたのは、更に二十年後。女王が三十四歳で、プグナの王子と結婚した時だ。
 この時のプグナの国王はベラルーダ女王の甥であり、夫である王子はその息子だ。
 そもそもプグナの国王はベラルーダ宰相ゾルタの息子である。これはゾルタの妻が元プグナ王女であることから発生した継承権であり、その王の二番目の息子である王子とベラルーダ女王の婚姻により二国の協力関係は確たるものとなった。
 女王の結婚を機に帝国はベラルーダ・プグナ連合と和解し、黄金の大陸に謳われし砂漠地域は平穏を取り戻してますます栄えていくこととなる。

 ◆◆◆◆◆

 さて、話は“今”へと戻る。
『ああ。あいつら? 何か用事があるとかで、すぐに帝国を離れなきゃいけないとかって話でさ。結局お前に紹介しそびれたな』
 リューシャはダーフィトに対しこの台詞を深く確認しなかったが、リューシャが思い浮かべた人数よりも、ダーフィトが口にした“あいつら”は恐らく多い。

 ◆◆◆◆◆

 そこはぽかぽかとした陽気の、常に常春の空間だ。
「う……」
 一人の青年が、寝台の中で外の騒がしさに不快感を覚えていた。ああ、騒がしい。
「てめぇえええええ!! 結局僕を騙すのはこれで二度目だぞ! もう我慢ならない! いっそ死ね! 死んで事実と世間的認識を一致させろ! 僕が引導渡してやらぁ!」
「わー! 待って待ってシファ! ちょ、今俺怪我してるから! 本気で死にかけたところだから! 今シファに喧嘩売られたら死んじゃう死んじゃう! 洒落じゃなく本当に死ぬって!」
「落ち着いてシファ! いくら三年前と今回と二度も心配したからって、照れ隠しにも程が――」
「誰がこんなバカ心配するかぁあああ!!」
「「ぎゃー!!」」
 本当に騒がしい。
「紅焔さんって命がけのツンデレですね」
「命かけてんのはバカ二人の方だけどね」
 どうしてこんな能天気な会話と共に激しい爆発音がはっきりと聞こえてくるのか。城の警備は一体何をしているのか。いや、でももし何か危険があれば、カシムが起こしに来るはず……。
 そこまで考えたところで、ラウルフィカはぱちりと目を開けた。
「あ、気が付きました?! 良かった! ラウルフィカ陛下――。皆さん! 陛下がお目覚めですよ!」
「シェイ?」
 太陽と見紛う明るい笑みを浮かべた銀髪の少年が傍にいた。シェイだ。一度はシャルカント宮殿から逃げたはずの彼が、どうしてここに――。
 違う。そもそもここが宮殿ではないのだ。
「ど……どこだここは? 私は、どうして……?」
 見覚えのない室内と団子状になって飛び込んできた顔触れ。見知った男の顔を見つけて、ラウルフィカは思わずその名を呼ぶ。
「ザッハール……」
「ラウルフィカ様、御目覚めに――ひてててててて! はにふんでふか!」
 ぎゅむりと思い切り両頬を抓られて、銀月ことザッハールは涙目になりながらも抗議した。
 彼だってつい先程目覚めたばっかりなのにシファこと紅焔に照れ隠しの魔術で吹っ飛ばされるは、いきなりラウルフィカに頬を抓られるは、ろくなことがない。
「夢では、ないのか」
「普通それって御自分の御顔で確認しませんか?!」
 真っ赤になった自らの頬を労わりながら、ザッハールがついつい突っ込みを入れる。
「夢ではありませんよ」
 くすくすと笑い交じりの鈴を転がす声音がした。入り口から入ってきた様子でもないのに、いつのまにか室内に美しい銀髪の少女の姿がある。
「あなたと銀月は、私がシャルカント宮殿から回収しました。ここは天界。神々とその眷属の住まう場所です」
「天界……」
 ラウルフィカは呆然とした。何が、というよりも、何もかもが信じられない。まだ夢の中にいるようだ。
「私は、死んだはずでは――いや、死んだのか? 天界と言うことは」
「死んでないって。死んでたら女神も回収とかそういう言い方しない。あんたたちは間一髪のところで救われてここまで連れて来られて懇切丁寧に治療までしてもらったの」
 気だるげな口調でラウルフィカの誤解を正したのは、紅と青の色違いの瞳を持つ少年だ。
「創造の魔術師……?」
「あたりー。ああもう、ベラルーダ王さぁ、あんた無茶しすぎなんだけど。あんたのせいでそこのバカは使えないし、おかげで僕の仕事が増えちゃって増えちゃって」
 ふわぁと大あくびをする辰砂は眠そうだ。駄目ー、もう寝るー、ともぐもぐ呟きながらラウルフィカが半身を起こした寝台の隙間に潜り込んでくる。
 まるで意味がわからない。
「……どういうことだ?」
「えーと、まぁ詳しく話せば長くなるんですけど。というか辰砂さん、いくら寝台少ないからってここで寝なくても」
 この中では唯一落ち着いて話ができそうなシェイとラウズフィールの組み合わせに改めて声をかけた。銀髪の少女はまたもやいつの間にか姿を消しているし、お師様ずるいと叫んでうるさいザッハールは赤毛の少年と白髪の青年に部屋の外へと引きずられていった。
 邪魔者がいなくなったところでようやくまともな話が聞ける。
「リューシャ……破壊神の力に触れて死ぬところだったあなた方を、月女神イーシャ様が間一髪のところで助け出して天界に連れてきたんです。あなた方にはまだやることがあるからって。ラウルフィカ様には、よければこのまま天界でイーシャ様の眷属にならないかって誘いも来ています」
 ザッハールと赤毛の少年シファ、白髪の青年アリオスは辰砂の弟子として、地上で行き場を失くしたシェイとラウズフィールは月女神の眷属としてこの天界に住んでいると言う。
 そう言えば先程姿を見せた銀髪の少女は、シェイとラウズフィールをベラルーダ兵の目の前から一瞬で連れ去ったあの時の少女だ。まさか女神本人だったとは。
 シェイの説明は簡潔で無駄がないが、それ故に理解が追い付かない。神の存在さえ信じていなかったラウルフィカに、いきなり天界だのなんだの言われても信じるのは難しい。
「待……ってくれ。少し、頭を整理する時間が欲しい」
「はい。お疲れでしょうし、もう少し休んでください」
 ラウルフィカの動揺を汲み取り、シェイとラウズフィールが席を立つ。すっかり平穏な寝息を立てている辰砂はもうこのまま放置だ。揺すっても引っぱたいても起きそうにない。
「シェイ」
「はい?」
「その……色々と、すまなかった」
 一瞬きょとんと目を丸くしたシェイが、すぐに笑顔になる。
「いいえ! 謝罪には及びません。確かに色々ありましたけど、そのおかげでこうしてラウズフィールと再会できましたから! それと――ラウルフィカ様も、おめでとうございます。これで今度からザッハールさんと一緒にいられますね」
 思いがけない台詞にラウルフィカがぴしりと固まる。シェイとラウズフィールは仲良く顔を見合わせると、笑いながら部屋を出て行った。
「何が……どうして……こんなことに」
「んー、終わりよければすべてよしってことじゃないの?」
 てっきり寝ていると思った辰砂が口を開いたことにぎょっとする。思いがけずはっきりとした視線を彼はこちらに向けていた。
「ま、明日のことは明日考えれば? もうあんた地上では死んだことになってるし」
「…………そうだな」
 元より死ぬつもりだったし国には戻れそうにない。考えても仕方のないことは確かにある。それにやはり体力も限界だ。
 どこに行けばいいのかもわからなければ、そもそも動くのが億劫なので、ラウルフィカはそのまま辰砂の隣に身を横たえる。
 目の前にさらりと散った白銀の髪からは微かな鈴蘭の香りが漂った。これは……。
「リューシャの匂いだな」
 知った香りについつい記憶を口に出すと、辰砂が横になったまま不機嫌そうに眉根を寄せた。
「それも全部、明日だ。明日になったら考える」
「そうだな……」
 明日が来る。もう二度と来ないと思った明日が。このまま眠っても命は終わらず続いていく。生きている。
 だから全て――また明日、考えればいい。
「おやすみ、ラウルフィカ」
 陛下でもベラルーダ王でもなく、名前だけをこんな風に気安く呼ばれる経験は滅多にない。スワドのからかい交じりのなれなれしさとも違い、懐かしさと新鮮さがある。そうだ、リューシャもこんな風に自分を呼んだのだ。
「……おやすみ、辰砂」
 ラウルフィカも辰砂にならい目を閉じる。室内はすぐに、穏やかな二つの寝息で満たされた。
 明日になったら、また生と言う名の戦いが始まるから。
 今はただひととき、心行くまで安らぎ微睡もう――。

 第3章 了.