第4章 波音の向こう
19.愚者の叡智
073
船は滑るように波の合間を進んでいく。航海は順調だった。
「平和だな。なんと見事な晴天か」
「嵐にも凪にも海賊にも遭わなかったしな」
客船の甲板に立ち、リューシャとダーフィトは近づく島影を見つめていた。
馬車や宿程度ならばともかく、まだまだ事故や不測の事態も多い船旅で面倒が起きてはたまらない。路銀と相談してそれなりに良い船を選んだだけあって、航海は何事もなく終わろうとしている。
「さすがに船室の寝心地はベラルーダ王の船の方が上だったがな」
「それは貴重な体験をしたなぁ。王の船室なんて、滅多なことでは入れないぞ」
過ぎさった今だからこそ言えるがという形でリューシャはわずか半月前の体験を振り返る。波乱尽くめの黄の大陸での出来事は遠ざかり、次の舞台が眼前に迫っている。
「――あれが、藍色の大陸。時計の針とも呼ばれる、この世界の中央の大陸か」
白い海鳥が彼らの船より一足先に、その島影へと飛んで行った。
◆◆◆◆◆
黄の大陸でリューシャの意識が戻るのを待ってすぐ、彼らは中央大陸行きの船に乗った。
幸か不幸かシャルカントは黄の大陸最大の帝国、港の規模も大陸随一であり、移動手段には事欠かない。
元通りリューシャ、セルマ、ダーフィト、ウルリーク四人だけの気楽な旅へ戻ったと言えるが、その傷痕は未だに大きい。
混乱に陥るシャルカントを後にし、四人は一路、青の大陸アレスヴァルド神聖王国を目指す。
……その前に。
「今の内に情報を整理しておきたい」
しばらく三人と別行動状態だったリューシャが、部屋の中で寛ぎながらそう切り出した。
大陸間を渡る航路は早くても数日かかる。さすがに船の中ではリューシャも人攫いには遭わないだろうということで、四人は久々の平穏を味わいながら、一室でこれまでの状況を整理する。
リューシャが人攫いに遭い、シャルカント宮殿に連れて行かれ軟禁・監禁されていた間、セルマたちは救出方法を探っていた。
その際にたまたま行き会った同じ目的の男たちと協力していたのだが、その男というのがリューシャと同じようにシャルカントに囚われていたシェイの恋人、ラウズフィールのことである。
そして彼が手を組んでいた仲間は――。
「そうか……そういう繋がりか」
セルマたちは辰砂と手を組んだと言うよりも、ラウズフィールとまず知り合ってそこからラウズフィールを介して辰砂との繋がりができたらしい。
シェイはなんと言っていたのだったか。確か自分が追いかけている相手は、前世で“魔王”だった男だと。一瞬だけ顔を見ることのできたラウズフィールはただの人間に見えたが、前世で魔王だったというくらいならば、辰砂との繋がりがあってもおかしくはない……のか?
そもそもセルマやダーフィトは、辰砂がどうだろうがラウズフィールがどうだろうが、あまり気にしていないようだった。
「創造の魔術師ねぇ……深く考えたら体が動かなくなりそうだから追及しなかったが……やはり本人だったのか」
辰砂を辰砂と知って尚、スワドのように興味を示すことはなかったのはダーフィトがダーフィトたる由縁である。
ウルリークを始め複数人に何度も指摘された通り、アレスヴァルドという国はこの世界の全ての大陸における国家の中でも独特の存在だ。
神の血を伝えるという古王国。人々はその神の具体的な名こそ知らねど、偉大なる存在への畏怖は自然と染みついている。
ダーフィトは中でも更に特殊で、王家の血を引くが王族ではないという存在。神の血を引くと伝えられる王家がそれでもただの人間でしかないことを、最も近く、あるいは遠く見つめてきた立場である。
だから彼は、動じない。
「……お前が神の生まれ変わり?」
苦笑を浮かべる。生まれた時から知っている再従兄弟が実は神様だったんですと告げられた男の反応としては上々だ。
「……信じがたいな。色々な意味で」
「我もそう思う。だが事実だ。シャルカントの宮殿を燃やしたのは我だ」
今頃“神の怒り”に触れたとして大混乱の様相を呈しているだろうシャルカント。その宮殿を包んだ神の怒りこと青い炎は、リューシャがもたらしたものである。
正確にはそれは炎ではなく、純粋な破壊の力だった。
リューシャ=アレスヴァルド。それは、かつて人として生きることを望んだ神が地上に肉の器と共に再び蘇った姿。
かつて、天界最強の闘神と呼ばれた神――破壊神。
「ってことは、俺たちが長い間信仰し続けたのはお前なのか?」
「それは少し違う。アレスヴァルドに神託を出していた神は主神の妻たる月女神セーファだ。我は王家に伝わる“血”の源だ」
古い神話の中、神々に反逆した創造の魔術師・辰砂と相討ちになったと伝えられている破壊の神。しかし彼は実際には、その時の辰砂の命を奪うことに成功している。そこだけ見れば破壊神が勝ったと言っていい。
だが元より辰砂と親交のあった破壊神はそのことに悲しみと虚しさを覚えた。彼は地上に人間として生まれ変わることを希望し、神々は創造の女神を失って崩れた世界の均衡を保つためにもその願いを聞き入れた。
リューシャが思い出したところによれば、そこで神々は少し細工をしたのだ。強大な力を持つ破壊神をそのまま無力な人間に転生させるのは難しく、下手をすれば力の暴走を招く。
神々はまず、人の血筋から当時最も信仰深かった一族を選び、破壊神の血を馴染ませた。その血が伝えられ国内で血統を重ねる度に魔力的に強力な器となり、神の魂をも受け入れられるようになる。実際、リューシャは緋の大陸で出会ったウルリークが驚いたくらい、魔力だけならば持っている。
けれどそれだけでは、リューシャはただ神の血を継いだ肉体と神の魂を持つだけの人間でしかない。“総てを滅ぼす者”としての力はまだ封じられている。
魔力は肉体にも影響するが、その最高位の力は魂を通して第八感から引き出すものだ。リューシャが破壊神として力を振るうためには、何よりもまず神としての自覚が必要であった。
転生のために魂の奥深くに沈み込んだ前世の記憶。それによって自然と封じられた強大な力。何代も神託を聞き血を受け継ぐことによって神の魂を受け入れる程に強化された――けれど本質的には脆弱な肉の塊でしかない肉体という器。
今のリューシャには、最強と最弱が同居する。
「俺たちがお前とシェイ君の奪還計画を練っている時、お前の神託の話になったんだ。その内容を聞いた瞬間、辰砂の態度が急変した。あれは――そういう意味だったのか」
ダーフィトがしみじみと言う。
神々との戦争の折、創造の魔術師・辰砂を殺したのは破壊神。
辰砂は破壊神を恨んでいる。生まれたばかりの未熟な神であった彼を可愛がっていた分尚更。
戦いの後、破壊神はそのようにして永い永い時間をかけて転生を待った。世界から彼の姿は消えた。
辰砂は破壊神に殺されたが、その後また人間として生まれ変わる。リューシャがかつての破壊神そのものではないように、辰砂の転生も辰砂そのものとはならない。――そのはずだった。
だが神の手により総てを奪われた魔術師の嘆きは深く、その傷は今も癒えていない。
辰砂は――“辰砂”で在り続けることを選んだ。転生など関係ないと言わんばかりに辰砂としての振る舞いを続け、その伝説を各地に残す。
姿を消した破壊神と蘇った辰砂。神話で破壊神が勝ったのではなく両者相討ちとされるのはこのためだ。否、結果的にはそうだと言っていいのだろう。辰砂を殺した時に破壊神もまた神としての己の存在をこの世から一時的とはいえ消し去ることを選んだのだから。
「……リューシャ、それで、これからどうする?」
ダーフィトの問いに、リューシャはハッと顔を上げる。
「俺はお前の話を信じるよ。腑に落ちない点もあるけど、もともと言ってしまえばうちの王家は胡散臭いからな。けど、お前の言うことは本当なんだと思う。でも」
この十六年間、ずっと傍にあった水色の瞳が告げた。
「それでもお前は“リューシャ”なんだろう? 例え神の生まれ変わりであったとしても、これまでの十六年を捨ててしまったわけではない。なら俺はそれで十分だ。お前は神であり、リューシャである。それでいいじゃないか」
リューシャがどのように言えば伝わるのかと悩み続けたことを、ダーフィトはあっさりすぎるくらいあっさりと受け止める。
「ま、神託を授ける神様とは別だってのも大きいけどな。さすがに自分で自分に神託を出してたらお前は一体いつ生まれた何者なんだ? って混乱するよ。でもそうじゃないんだろ? 今までのお前に嘘はなかった。だから――これからも嘘をつかないでくれ」
「ああ、約束する」
こみ上げる熱いものを堪えながら、リューシャは頷いた。
これまで無力に生きてきた分、リューシャはいくらだって嘘やはったりを口にして乗り切ってきた。だがそれは、相手がこちらに害意を持っている「敵」だった場合だ。
ダーフィトは今までずっと、リューシャの敵にはならなかった。立場上王国内では最もリューシャと対立する人間でありながら、いつだって親しい再従兄弟として接してくれた。今だってこうして父親を裏切ってまで傍にいてくれる。
だからリューシャは、元からダーフィトに嘘をつく必要なんてないのだ。
「セルマだってそうだろ?」
ダーフィトが隣を振り向き確認する。じっと話を聞いていたセルマも、笑顔で頷いた。
「殿下が人間でも神でも、私を救ってくださったことに変わりはありません。殿下が私を必要としなくなるまで、いつまでもお仕えいたします」
元より細かいことを気にしない性格のセルマは、リューシャの正体が何であろうと変わらずに受け入れる。
彼女の答は裏を返せば、それが例え人間だろうと神だろうと彼女にとって意味のない存在であれば斬ると同義だ。だからこそリューシャにとっては心地良い。セルマは人の価値を生まれではなく、生き方によって決定する。
「その上で改めて聞きたい。リューシャ、お前これからどうする? 神様として生きていくのか? アレスヴァルドに戻るのか? それに、神託の意味はお前が“破壊神”だということで全てか? アレスヴァルドにいた時はお前が国を滅ぼす引き金となるんじゃないかって皆気にしていたが……」
「――それなんだが、神託に関しては我もまだよくわからぬ部分がある。というより」
「“破壊神が眠りから目覚める時、世界が終わる”」
ふいに、これまで一言も口を利かなかったウルリークが割り込んだ。
「っていう言い伝えありますよね。あれって本当なんでしょうか。だとしたらリューシャさんが滅ぼす“総て”って世界のことですよね」
「だが神託は毎年変わるのが基本で、リューシャは大筋では変化はないものの、たまに“この国を滅ぼす破壊者”と言われていたぞ?」
「世界総て滅びるならアレスヴァルド入っているじゃないですか」
「まぁそれはそうなんだが」
「つまり、神託の意味はまだ確定的ではないと?」
セルマの一言に、四人は溜息をついた。
「一応我――と言うより破壊神が辰砂に言われたのは“総てを滅ぼす破壊者”という言葉なのだが……それと破壊神と世界の均衡については別問題かもしれんしな」
「うーん。何となくまだ腑に落ちない感じですよねぇ」
一同揃って首を捻る。全体像が見えてきて各々思うところはあるのだが、あまりに壮大な話になりすぎて現実感がない。神々の世界と自分たちの生きる地上を結ぶ糸の幾つかが欠けている。
「我はもっと辰砂や神々に関する知識を得た方がいいと思う。一応破壊神時代の記憶はあるが、彼奴は神々の末子として生まれたためにそれほど物を知らないのだ」
「だったら、いい場所がありますよ」
ウルリークが指を立てた。船室の中から船の進行方向を指差す。
「中央大陸中央都市、オリゾンダス。その中央に存在する時計の針こと、ジグラード学院」
「ジグラード?」
「あ、それってもしかして、世界最大の図書館があるっていう……」
ダーフィトの呟きに、ウルリークが頷く。
「そうです。世界中から学問を志す人間がやってくる最大の学院と図書館があります。そこなら誰でもこの地上に存在する全ての書物を閲覧できますよ」
「全ての書物だと? そんなことが可能なのか?」
「さぁどうでしょう? ま、あそこは学者と魔術師の聖地ですからねぇ」
どちらにしろ次の目的地は中央大陸だ。青の大陸に渡る船が出ている港まで大分距離があり、大陸をまっすぐ突っ切るよりは中心地であるオリゾンダスを経由する方が交通の便は良いと言う。
どうせここまで黄の大陸でばたばたやっていたので、今更二、三日寄り道したところで変わらないだろうと、次の目的地はオリゾンダスのジグラード学院に決まった。
「ところで――ウルリーク」
「はい、なんでしょう」
話が一段落したところで、リューシャは徐ろにその名を呼んだ。
「お前と二人きりで男同士の話がしたい」
「いいでしょう。受けて立ちますよ」
「?!」
思わず飲み物に噎せるダーフィトを放置して、二人はひとまず隣の船室へと移った。