Fastnacht 19

074

 船の中では四人で二部屋とったのだ。部屋割はリューシャとセルマ、ダーフィトとウルリーク。今はリューシャたちの部屋にウルリークを連れてきた形となる。
 どうでもいいが、この部屋割を決める際にも一悶着あったものだ。他三人は誰と組んでも良いが、リューシャを誰と組ませるのにも不安があると。結局無難にリューシャと護衛役のセルマに対し残り二人といういつもの組み合わせに決まったが、それはそれでウルリークがダーフィトに変なちょっかいをかけはしないかとリューシャは気が気でない。
 それは置いといて。
 リューシャは狭い部屋の中、ウルリークと久々に一対一で向き合う。
「それで、何のお話なんです? リューシャさん」
 ウルリークはいつものように含んだもののあるにやにや笑いを浮かべている。だが今はその様子に、別の少年の面影が重なった。
「ウルリーク=ノア」
「はい」

「――お前、“ディソス”だろ」

「そうですよ」
 ウルリークは三つ編みにした長い髪を軽やかに払う。短髪の黒髪だった頃には見た事のない仕草だ。
 否。ここにいるのはウルリークだ。ディソスの魂を持つ者ではあるが、ディソスではない。
「本当に……」
「おや、自分で言ったくせに信じていなかったんですか?」
「お前は海辺の夢の話をしていたから、もしやと思ったのだ。出会った時に竪琴を弾いていたから最初はアディスの方かとも思ったのだが……」
 むかしむかし、かつてまだ、神々が地上で人間と共に暮らしていた頃。
 緋色の大陸の東、今で言う流星海岸に小さな村があった。
 背徳と快楽の神グラスヴェリアと共に暮らし彼を崇める村。――辰砂が辿り着いた村。
 その村には、背徳神の巫覡たる双子の姉弟がいた。
 姉は竪琴を奏でて神を讃え、弟は舞を神に捧ぐ巫と覡。
 歌姫たる姉の名を“アディス”、舞手たる弟の名を“ディソス”と言った。
「お前は我らと出会ったあの海辺でこう言ったな」
 ――波打ち際の浅瀬に一つだけ突き出した岩で、黒い髪の少女が一人竪琴を弾きながら歌っているんです。俺はそれを大抵すぐ近くで眺めている。
 歌姫たる少女を眺めている。それは彼女の弟でその音に合わせて踊るディソスの視点だ。
「そういうことですよ、リューシャさん。――よく気づいたな。辰砂でさえ気づかなかったのに」
 口調が変わる。いつものこちらを馬鹿にするような意地の悪い慇懃無礼ではなく、外見年齢相応の少年らしさが加わる。
「ずっと我を謀っていたのか?」
「人聞きが悪い。違うよ。俺も今回の旅に出るまで、自分が何者であの夢が何なのかなんて知らなかったんだ。辰砂に出会って初めて思い出したんだよ」
 辰砂は出会った時から創造の魔術師だと明かしていたわけではなく、「アスティ」という偽名を使っていた。ウルリークは辰砂の容姿を見てリューシャと同じく夢の中に登場する少年だと気づいた。元より世界中の神話を調べて辰砂と夢の中の少年の類似性に気づいていたウルリークは、すぐにアスティが辰砂であることがわかったという。
「俺はこう見えてこの姿ですでに千年以上生きていますからね。前世の儚い人間の生を取り戻すのは早かったですよ」
 ウルリークの意外な年齢に驚きつつも、リューシャは別のことが気になった。
「辰砂は気付かなかったって……お前の方から言わなかったのか? 自分はディソスだって」
「言うわけないじゃありませんか」
「何故だ? 言えばいいじゃないか」
「自分で気づいてもらう方が面白いじゃないですか」
 こけた。リューシャは揺れる床に手を突きながら脱力感と共にウルリークを見上げる。
「お、お前」
「だからぁ、俺はそう言う奴なんだって、もともと。お前だって知ってんだろ?」
 ディソスの口調で言いながらウルリークはくすくすと笑う。
 ああ、そうだ。そうだった。こいつはこういう奴だったとリューシャは頭を抱える。
「そうだな……色々と思い出した。お前は昔から大層悪戯好きの困った奴だった」
「俺は皆を楽しくさせる悪戯しかしないからいいの。笑いをとるのに命かけてるだけ」
「我はお前に『どーん!』とか川に突き飛ばされた記憶があるのだが」
「あれはレクリエーションの一種だろ? みんな笑ってたじゃん? 辰砂もな」
「お返しに我の方でも後ろから忍び寄って押そうとしたらあっさり避けられてその反動で我が再び川に落ちたし」
「あー、あれは吃驚したな。最強の闘神、鈍くせぇ! って大爆笑の嵐だった」
 ウルリークは今もけらけら笑う。容姿こそ違うが、その性格は人間“ディソス”として生きていた時とまったく変わらない。
 懐かしい日々が鮮やかに脳裏に蘇る。
 それはもはや遠く過ぎ去り、決して取り返すことのできない時間だ。
「――本当のことを言え、ウルリーク」
 リューシャの真剣な声音にウルリークもぴたりと笑い止み、紅い瞳を向けてきた。
「辰砂に名乗り出ないのか? お前だって辰砂に会いたがっていた。だから流星海岸にいたのだろう?」
「でも俺はディソスじゃない。ウルリークです」
 淫魔の少年はいつもの誘うような蠱惑的な笑みではなく、透明な硝子のようにただただ綺麗な笑みを浮かべた。
「……背徳神を説得できないのか?」
 いまだに悲しみ苦しみ続ける神、常闇の牢獄と呼ばれる場所で反逆の罪を贖い続けるグラスヴェリアを想いリューシャは言う。だが。
「できませんよ。言ったでしょう? 俺はウルリークだと。この姿で出て行ったところで、背徳神様の嘆きを深くするだけです」
 かつて神を慰撫する巫覡だったアディスとディソス。もはや彼らの言葉ですらグラスヴェリアには届かない。
「あなただってわかっているでしょう? 破壊神。いえ、リューシャ。前世の記憶を取り戻したところで、今の人生を捨てられはしない。俺にだって千年以上淫魔ウルリークとして生きてきた歴史と矜持があるんです」
 過去に戻れはしない。人は時の流れの中、ただ人生を積み重ねていくだけだ。過去に囚われ嘆き続ける神にその姿を見せたところで、改めて彼が大切にしていた人間がこの世にもういないことを見せつけることにしかならない。
「ディソスは死んだんです。アディスも、他の皆も。破壊神、あなたでさえ。俺たちは辰砂じゃない。時の中に自らの意志と姿を留めることはしなかった」
 魂は転生する。だが稀に、こうしてリューシャたちのように前世の記憶と呼ばれるものを取り戻す者たちがいる。シェイが話してくれた魔王の生まれ変わりことラウズフィールなどもそうだろう。
 彼らは前世の人格を有していても前世とはあくまで別の人間だ。神として人間とは異なるやり方で転生したリューシャさえ、破壊神の意識とリューシャの意識には僅かなずれがある。
 だが、辰砂は違う。
 創造の魔術師、背徳神と共に神々へ反逆した少年は転生に関してさえただの人間とは一線を画していた。
 彼は何度生まれ変わっても彼だ。創造の魔術師・辰砂。それは不老不死などという存在ではない。
 平凡な家庭の子ども、烙印を押された罪人、不幸な娼婦、名君と謳われし王。辰砂も他の人間と同じく人として無数に死んでは生まれ変わった。
 そしてそのたびに、それら新しい人格を封印し、魂の奥底から辰砂の記憶と力を呼び出し、魔術で姿を「辰砂」へと変えてしまう。
 不幸な生はもちろん何一つ不自由のない幸福な人生でさえ捨てて、反逆の魔術師辰砂で在り続けることを選ぶ。
 彼はそうしてグラスヴェリアと同じ神話の時代に留まり続ける存在となった。そこまでしなければ過去を取り戻すことができないと言うのであれば、彼の他には誰一人彼と同じ時間を生きる者はいない。
 辰砂だけが、背徳神グラスヴェリアの最後の民。
「今を生きましょうよ、リューシャさん。決して過去には戻れません。起こってしまったできごとを、なかったことにはできないんです。背徳神様のことはともかく、少なくとも辰砂の止まった時を動かせるのはあなただけです」
「何故だ。我は、かつて辰砂を殺した。奴の最大の敵なのに」
「辰砂はそんな風には思っちゃいませんよ」
 妙に断言する言葉に、リューシャはウルリークを睨み付けた。
「お前はいつも、誰よりも辰砂を理解している。ディソス。――辰砂はお前を愛していた。お前の言葉こそが、辰砂を救うのではないか?」
「いいえ」
 ウルリークは淡い紫の髪を散らすようにそっと首を横に振る。
「俺が辰砂に影響力を持っているのは、海を漂流したあいつを助けたから。でも、俺は辰砂を選ばなかった」
 目の前に立つのがどちらなのかわからない。ディソスか、それともウルリークか。そう考えている時点で、もうこの人物はそれら全てをひっくるめた存在でしかない。
「辰砂が俺に見ていたものは、楽園の象徴。俺を、あの村を通して辰砂はようやく居場所を手に入れた。しかしそれは、秩序神の手によって、無残に奪われた。破壊神、俺はね」
 泣き出しそうな笑みだと思った。
 いつか夕暮れの海岸で見た表情だ。双子の巫覡は誰より村のことに詳しく皆の事情をよく知っていた。辰砂の想いも知っていたはずの彼に、応えてやらないのかと問いかけた破壊神にディソスは言った。
「それでも幸せだったんだよ」
 リューシャは声も失ってただ目を瞠る。
「俺では、辰砂の気持ちをわかってやることはできない」
 ――俺じゃ駄目だよ。俺は辰砂の気持ちをわかってやれないから。
「俺にはもともと辰砂程の力はないからね。そもそも神に反逆してまで己を貫く意志なんてものはないし、何より俺の人生は幸せだった。最期こそ神の無慈悲に命を刈り取られたけれど、そんなの天災みたいなもので仕方がないじゃないか。それでも辰砂や他の皆が俺たちの死を惜しんでくれた。恨みも悔いもない」
 だからこそ。
「幸せなまま死んだ俺たちには、村を滅ぼされてまた居場所を失い、絶望した辰砂を理解することはできないんだ」
 二人の距離は遠く隔たれた。
 死者と生者の隔絶は永遠だ。どんなに魂は近くあっても、こうして生まれ変わって再会することができたとしても。
 それでもあの瞬間、命の終焉と共に確かに辰者とディソスの絆は断たれたのだ。
「だからリューシャ、俺には辰砂を救えない」
 箱の中にただ一つ残された希望を見るかのような目で、ウルリークはリューシャを見据えた。
「それができるのは、この世界でお前だけなんだよ」