Fastnacht 19

075

 妙なる笛の音が響く。ここは天上。常春の楽園。
 神々とその眷属と、ただ一人、神の宿敵と言える人間が住まう場所。
 が、基本なのだが現在は諸事情によりそのどれでもない人間が相当な人数滞在していた。
 神々の反逆者でありながら力の強さ故に地上に留まる事能わず天界での暮らしを余儀なくされている創造の魔術師・辰砂。彼の弟子とその関係者が、過去最大規模で現在天界に居住している。
「まぁ僕たちはともかく、ラウルフィカ様はそろそろ身の振り方を決める頃だと思うんですよね」
「月女神の眷属としてここで暮らすか、名もなき一人の人間として再び地上に降りるか、ね。どちらにしても一定の苦労も幸せも確約されているだろう。あいつなら」
 普段は幼い少年の姿そのものの口調の紅焔は、師である辰砂の前では少しばかり行儀が良くなる。とはいえ彼も本来奔放なはぐれ魔術師の一人、白蝋や銀月など余計な茶々を入れる連中のからかいにあっさりと怒り狂って暴れることも少なくはない。
 今は銀月は先の事件のせいで療養中。白蝋は下界での仕事の最中。何もすることのない紅焔と辰砂は、こうして木陰でのんびり寛いでいる。
 天上に作った地上。神ではなく肉の器を持つその眷属たちのために作られた地面はちゃんと土からできていた。寝心地は人間界の地面と変わりない。
 下生えに横たわり紅焔の膝を枕にしている辰砂の姿は、午睡を満喫しているように見える。しかしその頭の中では、先日黄の大陸で起こった出来事が後を引いていた。
 破壊神の復活。
 正確には「まだ」だ。まだ彼は完全に全て取り戻したわけではない。破壊神の力の大部分は封じられたままだ。けれど彼はすでに己の記憶のほとんどを取り戻した。
 辰砂への想いを取り戻した。
「……辰砂」
 膝上にある絹糸のような白銀の髪を撫でながら、紅焔がそっと問いかける。
「また、破壊神様のことを考えているのですか」
「……まあね」
 気乗りのしない口調で辰砂は答えた。
「破壊神の復活は世界の終わりと同義だ。……と言ってもこのまま滅びてやるのも癪だし。どうせ僕がどうにかするんだろうなって」
 本来考えていたこととは少し違ったが、辰砂はそれもまた懸案事項の一つを口にした。
 リューシャはまだ完全に目覚めきってはいない。だが彼が真に神としての己を取り戻した時――均衡を失った世界は滅びると伝えられている。
 本来その不均衡を調整するべき存在である創造の女神は、かつて辰砂が名を奪い封印してしまった。破壊の神の力を抑えられる者がもうこの世界にはいない。
 辰砂以外には。
「世界を救うおつもりですか」
 質問とも断定ともつかぬ音で紅焔が言う。辰砂は鼻で笑った。
「救世主様? 柄じゃないねぇ。そんなのは僕の役目じゃないよ。物語で言えば僕は勇者より魔王だろ?」
「残念ながら、僕たちにとって一番身近な魔王の例がラウズフィールなのでわかりません」
 最近恋人と共に月神の眷属として天界に加わった青年の名を挙げる。人間としては才能豊かで実力もある好青年なのだが、魔王の生まれ変わりと言う前評判から言えば普通と容赦のない評価が下されているラウズフィール。
 彼は彼で、恋人であるシェイと共に天界に昇り月女神の眷属となったことで肩の荷が下りたような顔をしていた。シェイと無事に気持ちが通じ合ったことも大きいだろう。
 緋と黄の大陸を結ぶ人身売買問題とラウズフィールを巡る問題には、これで一応後腐れなく片が付いたと言える。
 今となってはむしろ成り行きで関わった辰砂の方が大問題を抱えているくらいだ。
「……神の眷属の話ですがね」
 物思いに耽っていると、紅焔が遠慮がちに切り出した。
「僕たちにも、セーファ様からお話がありました」
「は?」
 寝耳に水の話にさすがに辰砂も目を開ける。上体を起こし、紅焔と視線を合わせた。
「ラウルフィカ様が神々の眷属として不老不死を得るなら、ザッハールも一緒にどうかって。僕たちはまぁ、そのついでのようだったんですが……」
「ああ……なるほど」
 これまで辰砂の弟子について、神々の方から何かを言われたことはない。否、正確にはある。だがそれは天界に無関係な人間を連れ込むことへの文句や抗議であって、眷属への誘いなど一度もなかった。
 今だけ反応が違うのは、セーファが余程ラウルフィカを気に入っているということだろう。辰砂はそう考えた。
「やめておけ」
「お師様」
「不老不死なんてろくなもんじゃないよ。大昔の権力者の望むことの定番だけどね。実際に不老不死を得てみると大部分の人間はいつか気が狂う」
 人は人として、その定めの中で命を終え次の生を待つべきだ。
 辰砂自身はその枠組から少し外れるが、それが最良だという考えは変わらない。
 自分自身は何故その枠組から外れるのか?
 簡単な話だ。――辰砂はもう狂っている。
「銀月に関しては最終的にラウルフィカの選択によるだろうけど、少なくともお前たちはやめておいた方がいい。どうしても不老不死が欲しかったら自分の力でその術式でも秘薬でも開発しな。信仰心もないのに神の力で眷属としての不老不死を得ても虚しいだけだ」
 銀月もそうだが、紅焔や白蝋も自ら不老不死など望むような人間ではない。これまで考えたこともなかっただろう。
 ただ、ラウルフィカのことがある。銀月が眷属となった彼と共に生きていきたいと言うのであれば、それに関しては辰砂は許すつもりでいる。まぁもともと個人の信仰や生き方に対して口出しする気はないのだが。
 辰砂の弟子はあくまでも弟子であり、辰砂ではないのだ。辰砂が彼らに教えるのは単なる魔術の知識や技術だけであり、それは下界で他の高名な師に習っても同じこと。だからこそ天界にいながら弟子をとることを許されているとも言える。
 辰砂に教わり魔術師としての力をつけたかつての弟子たちは皆、そうしていずれ地上に帰っていった。彼らは自ら辰砂との関わりを公言することはなく、魔術師として大成したり、そのまま魔術と関わることなく生きたりと様々だった。
 そう――。
 選ぶのはいつだって辰砂ではなくその弟子自身だ。
 引き留める権利はなく資格もなく、引き留めたいわけでもなくて。
 ただ、いつも辰砂は見送る側だ。自分よりずっと幼い子どもの頃に拾った相手だって数年で辰砂の外見年齢を飛び越して青年になり、大人になり、年老いて死んでいく。
 今までどれだけの墓標に花を手向けてきたかわからない。
 中には師である辰砂を本気で心配し、神々への恨みを捨て人としての生を全うするよう諭し懇願してくる者もいた。
 その時には、辰砂は相手の中の自分に関わる記憶を丁寧に消して地上へ返した。その後、その弟子は幸せな一生を終えた。
 わかっている。彼らの意見の方が正しいことくらい。
 だが辰砂は今更人としての幸福など望まない。恨みと憎しみをこれからも抱えていく。
 弟子たちの生き方に口は出さない。だから自分の生き方にも口を出すなと。
 誰より自分自身がそう思っているから、止められるはずもないのだ。
「辰砂は……」
「何?」
「……いえ。すみません。なんでもありません」
 紅焔が何かを言いかけて取りやめた。続きは気になるが、追及はしない。
「あっそ」
 ごろりとまた横になる。だが今度は弟子の膝を枕にするのはやめた。月神の宮殿の方から歩いてくる、もう一人の弟子の姿が見えたからだ。
「辰砂、シファ」
「アリオス」
「どうした、白蝋」
 紅焔の恋人である青年、白蝋ことアリオスだ。恋人である紅焔よりも寝そべったまま声をかける辰砂に視線を寄越したということは、何か用があるのか。
「破壊神様ご一行が中央大陸に来るようですよ。正確には、その更に中央都市オリゾンダスに」
「お前の庭じゃないか」
 白蝋は良いところの坊ちゃんのくせに紅焔好きの余りに家を出てきてしまった大馬鹿者だ。当然血統を保つのが命の貴族が同性愛を許すはずもなく、実家には帰れないからという理由で辰砂にとっては珍しい押しかけ弟子と化した。
 しかも辰砂の弟子だからと言って天界に常駐するのでもなく、実家があるのとは別大陸で普段は魔術師として働いている。辰砂の弟子として天界で様々な都合をつけてもらっておきながら、自分のやりたいことは譲らないというちゃっかりとした性格だ。
 才能と言う点では特化型の紅焔・銀月に及ばないが、魔術師としての総合的な実力では銀月よりも上である。だがそれ以上に性格的な意味で辰砂にとっても今までにない珍しい弟子だ。
 その白蝋の、地上での勤め先が中央都市オリゾンダスの「ジグラード学院」。
「調べ物……というか、やっぱり辰砂のことだよな……」
「たぶんね」
 彼らにもなんとなくリューシャたちの目的がわかった。
「というかお前はなんでそんな話を知ったんだ?」
「ザッハールが地上を覗き見していたんですよ。暇だからって」
「あいつ……」
 シャルカントで少しとはいえ関わった者たちの動向が気になるのは当然かも知れないが、覗きとは良い趣味をしているじゃないか。と、思ったのだが。
「ラウルフィカ様が」
「早速こき使われてるのか」
 どうやらラウルフィカの希望だったらしい。シェイもリューシャたちの先行きを心配していたというし、それでちょっくら様子を見てみようとなったのだ。
 まぁ別に銀月が好んで「辰砂の弟子」と「ラウルフィカの下僕」という二足のわらじを履く分には構わないのだが。
「で、お前はどうしてそれを僕に話しに来た?」
「次は僕が行っていいですか? 学院に来るのなら、ぜひ歓迎しませんと」
 白蝋はにっこりと人の好さそうな笑みを浮かべた。あくまでも人の好さ「そうな」であり、人が好いわけではない。
「……いや、好きにしなよ。なんで僕の許可がいるのさ」
「えー。だって辰砂の想い人に勝手に手出しなんかしたら怒るでしょう?」
「誰が誰の想い人だって?!」
「あて!」
 白蝋の顔面に水晶玉をぶつける。どこから取り出したのかというのは界律師にとっては野暮なツッコミというものだ。隣で紅焔が小さく「バカ……」と呟いている。
「ま、そんなわけですから。ちょっと殿下たちと遊んできますよ~」
 言いたいだけ言って白蝋はすっとその場から姿を消した。気配が完全に天界から消え去る。地上に降りたのだ。
「あいつ……」
 辰砂は眉間に皺を寄せる。
「お師様、いいんですか? あれ放って置いて」
「別に僕が破壊神を今生でまで面倒見てやる義理なんか」
「いえ、そうではなく。アリオスがわざわざ宣言付きで動き出す時はお墨付きと言う名分で本当に好き勝手しますよ」
 紅焔、白蝋、銀月の付き合いは長い。彼らはまだ十代の頃に魔術師の養成機関エトラ学院にて知り合った。男子校で誰の目を憚ることもなく暴れまくっていた頃の白蝋を紅焔はよく知っている。
 あの頃は白蝋が紅焔をからかって暴れさせては銀月に毒薬や毒ガスで制止され、白蝋と銀月が二人で悪巧みをしては紅焔が二人まとめて爆発させ……。とにかくとんでもない悪ガキ時代だった。特筆するものはなくとも騒動の中心にいるのはいつも白蝋だった気がする。
 彼らからその手の話を聞いたことのある辰砂も、今更ながら嫌な予感を覚えた。
「僕たちも地上に行くぞ! 紅焔!」
「はいよ」
 そして天界の木陰から創造の魔術師とその弟子の姿が消え、後にはさわさわと可愛らしい花々が揺れるのみである。