Fastnacht 20

079

 辰砂研究の授業はすでに定員が埋まっていた。リューシャたちは同じ時間に神話学の基礎知識を説明する別の授業を希望することにした。
 座学用の校舎に並ぶのは、どれも同じような教室ばかりだ。実技棟や実験棟と呼ばれるのは別の場所らしい。
 普通の学校で言えば講堂だという大きな教室の中、何列も並んだ一繋がりの机と椅子に奥から詰めて座るようになっている。
 淡い灰色にくすんだ壁。正面には大きな黒板。あれに白墨で文字を書くと、簡単に消せるのだという、何かの本で読んだ知識をリューシャは思い出した。生徒たちはそして手元の帳面に重要事項を記入していくのだ。
 部屋の隅には古地図や定規などの道具が無造作に詰め込まれた箱が置いてあった。その隣には古びた骨格標本が直立不動で立っている。
 室内に時計はない。授業時間は時計塔の鐘の音が教えてくれる。懐中時計を個人で持っている者はそれを取り出して今の時刻を確認していた。
 リューシャたちの他にも外部の受講生は大勢いるらしく、ちらほらと学生服以外の人間を見かける。老若男女入学に分け隔てはないというが、やはり学業に専念するのは若者が多いらしい。寮住まいで制服を着ている生徒は十代が多く、外部の人間は職業戦士らしい胸当てを身につけていたりする。
 おかげでダーフィトやセルマもそれほど目立たずに済んだ。むしろリューシャとウルリークの方が見た目から立場が推測できない謎の人物として注目されているような気がする。
 そんな教室のざわめきも、教授が登場するまでの話だった。
 今回の授業を受け持つのは、禿げ頭と対照的に長い山羊髭の老人だ。リューシャの隣ですでにウルリークが興味を失くしたような顔をしている。
「――さて、本日は神話学における辰砂研究の基礎知識について解説する。神話学はもともと世界の東西で著者の立場や思想によってその内容から信憑性までが左右される学問であり、研究をする際にはまず著者の経歴について一通り目を通すことが……」
 老人は壇上に立ってすぐに内容に入った。リューシャたちにとっては今回が初めてだが、何度もこの学院を利用している者たちにはもう幾度目かの授業だ。教師もまた同じことを何度も繰り返し説明しているのだろう、語り口はよどみない。
 リューシャは慌てて手元の筆記具を動かし始める。これもここの購買とやらで授業前に慌てて揃えたものだ。安い紙とペンだがその分気軽に使い倒すことができる。
「そんなに慌てて書かなくても、試験を受けるわけじゃないんだから大丈夫ですよ」
「重要なことを忘れたら困るだろうが」
「初めて聞くことならともかく、俺たちにとってはもうほとんど知っている話の復習なんですよ?」
「それでもだ」
 呆れ顔のウルリークは放って、リューシャは板書に精を出す。
「まず、世界中の教会が発行している公式の神話の梗概を地域別の傾向によって分類すると――」
 緋色の大陸、港町リマーニで辰砂は自ら竪琴を奏で歌っていた。
 後から考えればおかしな話だ。神話の悪役として今も語り継がれる伝説の魔術師本人が、自分が悪い魔法使いなので神様に倒されたと歌っているのだから。
 世界各地に伝わる辰砂の伝説。大概は他愛もない言い伝え。時には罪と恐怖の象徴。時には救国の英雄。時を超え姿を変え、歴史の裏側で暗躍する創造の魔術師――。
「このように創造の魔術師が助言をしてくれた、人々を救ってくれたという話の分類を、『辰砂救世譚』と呼ぶ。これらの出典は主に東側の三大陸に多く、一定の貴族や権力者が発表したものよりも、各地に伝わる民間伝承の方が信憑性が高い。一方で、辰砂は主に神々に盾突く悪役として伝えられている話が西側には多い。ただしそれらは大抵、当時の悪役を辰砂の生まれ変わり、辰砂の手先として無理矢理“神の敵”になぞらえてそれを退治する教会の威光の演出に使われているため……」
 本人を知っているのに不謹慎な話だが、リューシャは教授の話に自然と惹きこまれていた。淡々とした客観的な語り口は眠くも感じるが、それ以上に内容が興味深い。
「共通する要素は、これらの民話に登場する少年の容姿が白髪、あるいは銀髪。瞳の色が紫、あるいは色違いであったということ。西側の資料は当時の政敵を辰砂になぞらえるため黒髪や緑の瞳など雑多な要素が入り混じるが、民話に登場する辰砂は常に白髪の少年として語られる……」
 この辺りの知識はウルリークから教えてもらったものだ。フェルナーの研究書は読んだことがないということだったが、ウルリークはウルリークで彼独自に研究を重ねていたということか。
 横目で隣の淫魔を一瞥すると、彼は口元に薄らと笑みを佩いている。
「――以上、ここまでがヌルの時代までに世界各地の民話に見られる辰砂像の通説である。しかしこの後の時代になると、同じ世界共通神話を踏まえながらも“創造の魔術師こそ人類の解放者”と主張する宗教団体“睡蓮教”が現れるようになる。睡蓮教は辰砂が神々に反逆したというエピソードを事実としながらも、それは神々の傲慢より人類を救うためだと解釈し、既存の神々への信仰を否定して辰砂とその意志を受け継ぐ魔術師こそを崇めよと……」
 この辺りになってくるとリューシャにも訳がわからない。睡蓮教の名前は時折聞くが、その実態をこの目にしたことはない。西では辰砂の名前すら忌まれるのだ。ましてや神々ではなく辰砂を救済者とする宗教組織は完全に異端である。
 神に対する見解が人によってことなるのは当然かつ自然なことだと思うが、睡蓮教の教えは少し極端だろうとリューシャは以前から思っていた。
 神々と一口に言ってもどの神にも人間と同じように個性があり、その全てが辰砂と敵対していたわけではない。子ども向け絵本の中ですら主神である太陽神フィドラン、その妻月女神セーファ、自由を司る風神に気紛れな恋の女神、慈悲深い大地神や海神などなど、神々は皆一人一人違う性格だ。
 辰砂だってそもそも“たまに人助けする妖怪”程度ならまだしも、“人類の救済者”などという御大層な存在になりたいわけではないだろう。
 つまりこれは。
「この“睡蓮教”に関しては、純粋に神話の神々に対して批判精神を持ちその粛清に抗う辰砂に聖性を見出す宗教学的な側面と、かつて強大な力を持つ魔術師は多くの地域で忌み嫌われ迫害されたため、辰砂の名の下に団結して社会的評価の変革を望んだという歴史的な問題が絡んでくる」
 ……と、言うことだろう。
 忌み嫌われ迫害される魔術師のくだりで、リューシャは辰砂の半生を思い返した。
 異相の辰砂。左右で色の違う瞳に強大な魔力。人々は彼のその姿と力を恐れ、嫌った。
 辰砂を受け入れたのは海辺の小さな村だけ。背徳の神グラスヴェリアを信仰する民の、異端の村。彼らは異端であるが故に、同じように異端である辰砂を恐れることはなかった。
 神としての記憶を取り返し、リューシャという人生を通して人間の感覚を理解した今なら、辰砂の痛みが以前よりもわかる。
 憐れな辰砂。孤独な辰砂。
 彼への迫害は酸鼻を極めた。破壊神が聞いたところに寄れば、辰砂は本来、常人であれば何度も死ぬような目に遭っている。
 旅の途中仮宿を求めた村で何事かの凶事が起きれば、それは総て辰砂のせい。不吉な、忌まわしい子だと。大地神への生贄だと生き埋めにされ、海神の怒りを解くためだと海に放り込まれ――。
 けれど強大な魔力を持つ辰砂は、そのたびに生き残った。限りなく死に近づきながらも此岸に踏みとどまったのだ。
 数々の悲劇を経て、ようやく辿り着いたのが背徳神の村。
 そこで初めて、人に受け入れられる心地良さを知った。グラスヴェリアの民は辰砂を只人となんら変わらぬ新しき隣人として歓迎した。
 けれどその平和は、突然無残に引き裂かれた。辰砂はまた還る場所を失った。――独りになった。
 そして自分も……破壊神も、辰砂を孤独にさせた者の一人なのだ。
 時間的にそろそろ授業時間も終わりに近づく。懐中時計を確認した教授はまとめの話題に入った。
「創造の魔術師の特異性、それは言うまでもなく、人の身でありながら唯一、神と対等の実力を持つ者として神話の中に名を残したことである。現存する“今”の神話の中に、神の御手によって救われる者として以外の人間が登場するのは辰砂以外にない。彼は神話の神々と張り合う程の人間であり、そして神話の時代から“人間”であった。その認識なくして辰砂研究は完成しえない」
 創造の魔術師・辰砂は人間であるが故に、時には“睡蓮教”のような存在を生みだす程に神聖視された。人の可能性と限界、そして尊厳をかけて神にさえ立ち向かう不屈の意志の象徴。
 けれど本物の辰砂は、自分がそのように崇められることを望んだのか。
 否、違う。辰砂、彼の本当の望みは――。
 時計塔の鐘が鳴った。授業終了の合図を告げる。
「これにて本日の授業を終了する」
 教授の言葉に、室内の人々が一斉に緊張を解いた。次の授業の用意をする者、教室を移動する者、教授に質問に行く者、それぞれの行動を開始する。
「ああ、君たち」
 そんな中、数人の生徒から質問を受けていた教授がリューシャたちの方を向いた。
「俺たちですか?」
 視線は確かにこちらを向いているが、彼に個人的に声をかけられるようなことをしでかした覚えはない。しかし教授は枯れ木のような腕で四人を手招く。
「本日限りの特別受講生だね? フェルナー先生と面識があるのだろう。伝言を頼まれていたんだ」
「面識?」
 目立つ四人組ですぐわかると言われたけれど本当だね、と教授はいかにもお人好しに笑う。一方リューシャたちは顔を見合わせて首を傾げた。
 確かに例の辰砂研究書の著者には会いたいと思っていたが、本人との面識などない。だがそれをこの教授に伝えても困るだけだろう。戸惑っているうちに、伝言を聞かされる。
「“青の大陸ご一行様へ。バベルの図書館にて待ちます。”だそうだ。確かに伝えたよ」
 それだけ告げると、教授は他の生徒からの疑問や質問に答えるのに戻ってしまう。授業と授業の間の短い休み時間を煩わせるわけにも行かず、リューシャたちはとりあえず教室の外に出た。
 四人の足は自然と一方向に向いている。
「……どうする?」
「と言ったって」
 行き先はすでに決まっているようなものだった。
「行ってみるしかないでしょうね。フェルナー先生とやらの待つ、“バベルの図書館”に」