Fastnacht 20

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 図書館は休業になったはずではなかったのか?
「……直ってますね」
「直ってるなぁ」
 セルマとダーフィトがぽかんと目の前の建物を見上げた。高い時計塔の足下に広がる巨大な図書館はつい数刻前に爆発の憂き目にあったはず。しかし今ではすっかりと元通りになっている。
「さすが最大の魔術師学校、もうなんでもアリですね」
「なんでもアリすぎるだろう。そして技術と魔力の無駄遣いじゃないのかこれ……」
 とはいえこれで建物に入ることへの躊躇はなくなった。戻ってきたのは良いものの煤だらけの館内に足を踏み入れると思えば気が滅入ったものだ。しかしすっかり新築のような輝きを取り戻した建物を見てみれば、その心配はしなくてよさそうだった。
 『本日は閉館しました』の札は入り口に提がったままで、リューシャたち以外の利用者はいない。たまにやってきた者も入り口の札を見て引き返していく。
 一応閉館の札を考慮して、四人は人目を盗みつつ図書館の中に入った。
 元通り綺麗にはなっているものの、がらんとした室内が彼らを出迎える。
「……誰も、いない?」
「ええ。気配はありません」
 人の姿はない。リューシャはセルマに確認するが、元暗殺者の彼女にも人の気配は感じられないと言う。
「まだ来ていないということか?」
 きょろきょろと辺りを見回すが、特に変わったところはない。
「でも伝言は“待つ”でしたよね」
「いや、普通に会話なら『俺あそこで待ってるぜ!』って言っても予定外のことで二、三分遅刻して『ごめんごめん急用でさ!』ってならないか?」
「そりゃあ俺たちが本当に面識のある気安い仲ならそれもあるかもしれませんが、誰一人そのフェルナーさんを知りませんよね? そんな状態で意味深な伝言を残される方が、遅刻なんかしますか……?」
 思案するが答は出るはずない。くだんの人物が目の前に現れるまでは。
「あれ……」
「どうしました? 殿下」
「あそこに本が一冊落ちていないか?」
「落ちてるって言うか、机の上に置いてありますね」
 閲覧室のど真ん中の机に一冊、ぽつんと何かの本が置いてある。
 リューシャたちは恐る恐る机に近づいた。魔族であるウルリークが代表してそれを手に取る。
 装丁を眺めて何もないことが不満そうに口をすぼめる。
「……普通の本ですね」
「いや、待て! その本、題が――!」
 リューシャは表題を指先で示した。
「“バベルの図書館”? ってことは、これ――」
 中身を開く。普通の文章だ。だが読めはしない。この世界の言語が統一化される前、辰砂と神々の神話すら生まれていない遥か昔の古語がずらりと書き連ねてある。
「えーと、えーと、確かこれが主語で動詞で……ってそこまでしかわからない!」
 人間にはない博識を誇るウルリークもこれだけ古い言語の解読は専門外だ。主語が一番初めに来る言語であること以外は何もわからない。
「あれ? でも文章部分は途中で終わってしまいますよ?」
「“バベルの図書館”は確かボルヘスって人の短編小説で、それほど長さがあるわけじゃ――あ」
 全員が目を瞠る。
「鍵穴だ……」
 小説部分らしき長文の終わりの頁をめくると、そこには鍵穴があった。残りの頁の白紙部分が全て鍵穴の形にくりぬかれているのだ。
「リューシャ」
「リューシャ様」
 視線を受けて、リューシャは懐から小さな鍵を取り出した。ゲルサが身分証明だと言って渡したそれは、リューシャの手の中で真鍮の頼りない重さを手に伝えている。
「まさかこれをその鍵穴に入れるなんてことはないよな?」
「やってみるだけやってみたらどうです?」
 ウルリークが本を開き縦に掲げる。リューシャは鍵をその穴に差し込んだ。
「うわっ!」
 瞬間、光が館内に溢れた。セルマとダーフィトが慌ててリューシャに飛びつくのと同時に、四人の姿がその場から煙のようにかき消える。
 誰もいなくなった館内では、パタン、と軽い音を立てて床に落ちた一冊の本が、静かにその表紙を閉じた。

 ◆◆◆◆◆

 落ちていく。どこまでも。
「わぁああああ!」
 闇の中に吸い込まれるように落ちていく。しかししばらくして、がくん、といきなり重力が消えたように落下が止まった。
 浮遊感と共に恐る恐る足元を確かめる。相変わらず何もない。地面に辿り着いたわけでもない。否、辿り着いていたらこんなことになるはずはないのだ。あの落下感の後で硬い地面に激突すればただではすまないはず。
 強いて言うならこの不安定な浮遊感は、まるで水の中にいるようだった。体が濡れたような感触もなければ水面に辿り着いたわけでもない。けれどふわふわと中空を漂っている。
「えーと、今何が起きているんです? 直接戦闘以外は私の専門外なんですが」
「四人しか人員がいないのにセルマさんの担当範囲狭すぎですよ。では魔術専門淫魔代表ウルリークが申し上げます。ここはどう見ても現実ではないどこか別の空間、恐らく――」
「あの本の中、か?」
「半分正解、半分は外れってところですね」
 俄かに飛び込んできた声に、リューシャたちは振り返――ろうとした。
「うわわわわ」
「落ち着け、リューシャ。何一回転してるんだ」
「誰もが精神で思い描く通りに肉体を動かせると思うなよ!」
 空中遊泳によって不安定な動きをするリューシャを、近くにいたダーフィトが支える。それでようやく、リューシャは先程の声の主に視線を合わせることができた。
「お前が――」
「あれ? 白蝋?」
 フェルナーかと問いただす前に、気の抜けたダーフィトの声が被さる。
「お久しぶりですね、ダーフィトさん。久しぶりというか、数日振りですが。その節はどーも。無事に王子殿下と合流できたようで何よりです」
「ああ、こちらこそ世話になった。こうしてリューシャも元気で……じゃなくて、どうしてあんたがここに?」
 どうやらリューシャ以外の三人はすでにこの“白蝋”なる男と面識があるらしく、緊張を完全に解かぬまでも多少気の抜けた顔をしていた。
「単純。それはこの僕こそが、アリオス・フェルナーだからですよ。白蝋は界律名、アリオスが本名です」
 そう言えば界律名ばかりが有名で本名を知られていない辰砂のことが念頭にあったため、普通の人間は生まれ持った名があり界律名を得た際にそれを捨てるという原則を忘れていた。本名で研究書を出版している目の前の男が、自分のかつての名を捨てているようにも思えないが。
「ここ数日で我が知らぬ間にダーフィトたちと面識があるということは、お前はもしかして……」
「御明察。そうですよ。僕は辰砂の弟子が一人、白蝋。破壊神様、黄の大陸ではあなたのしでかした事の後始末に少しばかり尽力させていただきました」
「それに関してはえーと、その、すまなかった。手間をかけた……な……?」
 どうにもこの白蝋という男と話していると会話のテンポを奪われる。その台詞の数々に色々と突っ込みたいものがありすぎて結局無難な言葉しか返せない。
「白蝋。アリオス・フェルナーが本名か。お前が我らをここに呼び出したのだな」
「その通り」
 白蝋が両手を広げると、何もない黒一色の虚無に包まれていた空間が一瞬で変化した。
「ここ――ジグラード学院の中枢にして、この世界そのものでもある大いなる記録――バベルの図書館へ」
 相変わらず床はない。だが壁ができた。否、壁ではない。
 白蝋の背後と、彼と向かい合うリューシャたちの背後に、上下に延々と連なる長い長い本棚が現れたのだ。床や天井という概念がなさそうな非現実的な空間で底も果ても知れず、ただ延々と上下に続く壁の如く本棚が聳え立っている。
 ぎっしりと詰まった無数の本。古めかしい装丁が漂わせる歴史の匂い。その題の多くは判別ができなかった。彼らに読めない文字で書かれたものがほとんどだ。
「な、何なんだよこの空間は」
 アレスヴァルド出身者が多い彼らは魔術が介在する超常的な現象に弱い。神としての記憶を取戻し青い炎を操ったことのあるリューシャはともかく、ダーフィトとセルマは目を丸くしている。
「これはこの場所の持つ意味をわかりやすく視覚化したものですよ。バベルの図書館というのは――一から説明すると長くなるので割愛しますが」
「そこを端折るのかよ!」
 確かに大いなる魔術の叡智を魔術師としての訓練を全く積んでいない彼らが聞いても理解できるとは思えないが、そこを素通りしてこの先円滑に話が進むのだろうか。
「疑似アカシックレコードというシステムを図書館の名を借りて視覚的に現出させることによって集合的無意識というデータベースから情報を引き出しやすくしたものです。バベルの図書館と言う名はこの世界がまだフローミア・フェーディアーダという名を持たなかった遥か昔、アルゼンチンという国の作家、ボルヘスの短編小説『バベルの図書館』から……って言ってもどうせわかりませんよね? まぁつまり、あらゆる存在の魂の奥底は、この世界と繋がっているんですよ」
「さっぱりわからん」
「割愛しましょう、やっぱり」
「そうしてくれ、話が進まん」
 白蝋はダーフィトへの説明を諦めた。彼とセルマはもう放っておこう。要はリューシャにさえ話が通じれば言いのだ。
「お前は我らがここに来るのを知って先回りしたのか?」
「と、言うよりも僕は元々辰砂の弟子の白蝋兼、ジグラード学院のアリオス先生なんですよ。あなたたちがこの大陸へ渡り、オリゾンダスへ来ることがわかったので声をかけた次第です」
 ジグラード学院は総ての叡智が集う場所であり、魔術師にとっての聖地だ。西で生まれた魔術師は自らが魔術師として生きるために、東で生まれた者も自らの力を高めるために、機会があらばオリゾンダスへと集う。
 だから高位の魔術師――界律師である白蝋がここにいてもおかしくはない――のか?
「……どうでもいいが、お前、辰砂の弟子のくせに辰砂研究って――」
「それはそれ、これはこれです。それに、お役に立ったでしょう? 僕の研究書は。――ねぇ」
 白蝋が濃い色の瞳を猫のように眇める。
「かつてお師様、辰砂を殺した破壊神様。あなただって、今更何も知らぬような顔で辰砂について一から調べているじゃありませんか」
 その表情は、眩しい程の笑顔だ。笑顔と言う名の仮面だ。
 リューシャは息を呑む。
「あなた方がこの学院にやってきた目的は辰砂のことでしょう? やり方にもよりますがまぁ、この学院で知ることのできない情報はない。けれど――それでも聞きます。一体何をしに来たんです? あなたは」
 あなた方ではない。あなた。白蝋の視線はリューシャだけを真っ直ぐに見つめている。
 鋭い視線に含まれるものは間違えようのない敵意だ。
「前世でお師様を殺しただけでは飽き足らず、今生でまで一体あの人に何をする気なんですか? その答によっては、あなた方をここから帰すわけには行きませんね」