Fastnacht 21

082

 師に呆れられ、恋人に怒られ、それで改心するような男であれば白蝋はそこまで要注意人物認定を受けてはいない。
「ま、要はこっそりやればいいんだ。こっそり」
 懲りずに新たな手段を携えて、彼はオリゾンダスのとある宿屋の二階に忍び込む。
 そっと寝台に近づけば、穏やかな寝息を立てて眠るリューシャの姿があった。
 目を閉じていると一層幼さを感じるあどけない容姿を「可愛いなぁ」と思いつつ、その脇に屈みこんで懐を探る。無防備に眠る異国の王子の姿からは、かつて天界最強と謳われし神の威厳など何もない。
 だが、間違いなく彼こそが破壊神。この世で唯一、辰砂の孤独を癒せる可能性がある存在。
 よくよく考えてみれば、彼らの師である辰砂はそもそも自らの弱音を吐露したり、精神的な助けを求めるような性格ではない。そんな素直さが一欠けらでもあれば、いまだにあてつけのように少年の姿を維持し続けたりしないだろう。
 では、あの意地っ張りをどうするか。
 簡単だ。辰砂に働きかけることが難しければ、辰砂に働きかけるよう相手方の方を説得すればいいのだ。
 勿論説得と言っても、ただの説得ではない。初対面の相手に昔からの蟠りを抱えた相手と仲良くしてくれといきなり頼まれて頷けるほど、破壊神も単純ではないだろう。
 だから破壊神がその気になるよう、白蝋は彼の“魂”自体に細工をすることにした。
「ザッハール印の睡眠薬。効果のほどは折り紙つき」
 学生時代にシファに盛るためにこれくれって言ったらすげなく断られるどころか問答無用で下剤を飲まされたよなぁと余計なことまで思い出しながら、白蝋は薬の準備をする。
 睡眠薬を染み込ませた薄い手巾でリューシャの鼻と口元を覆うようにして嗅がせると、しばらくして呼吸の深さが変わった。睡眠の質が変化したのだ。
 さて、あとは魔術の準備をするだけだ、と術式の途中まで練りあげたところで、背後と扉の外の両方から気配を感じた。
「貴様……殿下に何を」
「うげっ」
 首筋に剣を突きつけられている。
「リューシャさん! セルマさん――?!」
 開け放たれた扉の外からはウルリークの声がした。その背後のダーフィトも剣を構えている。さすがに凄腕が揃っているだけあり、勘付くのが早い。
「ちょ、まっ」
 言い訳の一つもしたいが、今術を放棄すれば魔力が暴走する。白蝋は剣を突きつけられたまま、何とか最後の手順までは完成させた。
 白い光がリューシャの胸の中に吸い込まれていく。
「何を――……」
 ウルリークが咄嗟に飛び込み、リューシャの手を取る。
「あ」
「殿下!」
 背後から物凄い力で突き飛ばされる。セルマが白蝋を押しのけてリューシャの肩に触れた。
「やっば……」
 元から昏睡状態にあるリューシャだけでなく彼に触れた二人も即座に意識を失った。どさどさ、と力の抜けた体が床に倒れる音が重なる。
「白蝋?! お前……ッ!」
 もう黙って見てはいられないと、ダーフィトが一足飛びに白蝋へ掴みかかる。狭い室内では剣は邪魔だと判断し、情報を聞き出すためにも素手でその体を抑え込んだ。
「三人に何をした?! あいつらは今どうなってる?!」
「そ、それはその――」
 白蝋はリューシャへの術のかかり具合を確認した。余計な異分子が混ざった割に、その寝息は穏やかだ。彼の魔術は問題なく作動している。
「三人は今、リューシャ殿下の夢の中にいる」
「夢?」
 下手なことを言えば斬ると言わんばかりのダーフィトの視線に耐えながら、白蝋は正直に白状した。
「彼の前世の夢だ。あの人が破壊神と呼ばれていた時代のことを、完全に思い出してもらう」

 ◆◆◆◆◆

 ……水の感触がする。
 どこからか歌声と竪琴の音が聴こえてくる。
 さらさらと小川の流れが頬を撫でて行った。今は半身が川に浸かっている状態だ。
 あちこちが痛い。目を開けると紅い血のついた白い羽が草の上に散らばっている。
 これは。この記憶は。
「あれ……?」
 意識がかすむ。最後に聞こえた声に顔を上げようとして途中で力尽きた。
 だが、その声だけでこれがいつの記憶なのかわかった。
 そうだ。たぶん、この時すでに恋をしたのだ。薄らと開いた視界に映る色違いの瞳。
「天使……じゃないね? これは……まさか神の……」
 全ての始まりは、この時。
 神々の末子である破壊神が、後に創造の魔術師と呼ばれることになる界律師、辰砂に助けられた。
 それが終わりの始まり。

 ◆◆◆◆◆

 リューシャは破壊神の記憶の中にいた。
 これまで見た夢とは比べ物にならない程鮮明なその光景に驚愕する。まるで今自分が本当にこの時この場所に生きているかのように、時の流れの感じ方すらそのままに破壊神の記憶を見ている。
 魔物との戦いで傷を負って倒れていたところを救われた出会い。それから何度も何度も、彼に会いに地上に降りるようになった。
 海辺の小さなその村は、兄神である邪神を崇める村。人懐こい神と村人たちは、辰砂に会いに来る破壊神を当然のような顔で受け入れる。
「おーい辰砂、また破壊神様が来たぞー」
 恒例となったやりとりと辰砂の苦笑。笑顔と光溢れる村の光景。
 破壊神はたびたびその村を訪れる。
 辰砂に会いたかった。彼の傍にいたかった。
 彼を――愛していた。
「辰砂」
「んー?」
「我は辰砂が好きだ」
「はいはい、僕も僕も」
 木陰で魔導書を読む辰砂に告白する。あまりに明瞭で堂々とした言葉。だが、それ故に辰砂には本気にされなかった。
 頭を撫でてくる手は優しい。だが辰砂の視線は魔導書の小難しい文言に固定されたままだ。
「我は本当にお前が好きなのだ」
 破壊神が拗ねるようにその肩口に頭をすり寄せたところで、ようやく想い人は振り返った。ぱたりと本を閉じ、視線をこちらに向ける。
「僕もちゃんとお前が好きだって」
 苦笑しながら告げる言葉は、兄が弟妹に向けるようなもの。破壊神の言いたいそれとは違う。頭を撫でる手は、まるで幼子の扱い。
 伝わるようで伝わっていない、もどかしい想い。生まれたばかりの神である破壊神は、それを助けたこともある辰砂にとっては弟のような存在でしかない。
 記憶の持ち主である破壊神の“中”でその光景を見ているリューシャは歯がゆい気持ちを覚えた。
 この時の破壊神はまだ生まれて数年。見た目こそ今のリューシャと同じくらいに育っていても、神々の末子である彼は生まれたばかりの幼子も同然だった。
 だから彼は、自分自身ですら知らない。その想いの意味するところを。
 生まれたばかりの無垢な神。肉の器を持たず魔力で仮初の姿形を得ただけの存在はただただ純粋な想いだけを辰砂に伝える。
 だが、同じ立場でそれを見ている今の“リューシャ”は違う。人として生まれ変わった神はその本質的な想いが辿り着く行為を――その愛が受け入れられる瞬間を夢見ずにはいられない。
(どうして)
 そんなに好きなら、どうして足下に跪き縋りついて、奴隷のように愛を乞うてしまわないのか。
 あるいは魔王のように攫って閉じ込めて、自分だけのものにしてしまわないのか。
 馬鹿な考えだと一笑に付すことはできない。破壊神が辰砂に向ける想いはそれだけ強い。
 身体が熱い。身の内を焦がすこの熱を、そのまま辰砂にぶつけてしまいたい。即物的で俗物的な願いが心を狂わせる。
(違う)
 暴走寸前の自我を抑え込むように、リューシャは自らの体を掻き抱く。
「……? 破壊神?」
 この記憶はただの記憶なのか。それとも記憶を媒体として自覚と実感を接続した試行夢か。恐らく後者なのだろう。リューシャが意識的にとった行動が反映されて影響を及ぼす。
「なんでもない」
 怪訝な顔をする辰砂に首を横に振って見せる。
 なんでもないわけがない。
(お前が好きで、好きで、死にそうだ――……)
 どうして破壊神はこんな想いを抱えながら、ずっと変わらない態度で辰砂といることができたのだ。リューシャだったら耐えられない。
 泣いてしまいたい。
 この感情はあまりにも強すぎて、リューシャの許容量をとっくに超えている。それしか感情表現を知らぬ赤子のように、後先考えずただ泣き叫びたい。それでも溢れ出す想いは止まらない。苦しい。心臓が止まりそうだ。
(違う。やめろ)
 これは破壊神の想いだ。リューシャの想いそのものではない。
 リューシャは辰砂が好きだ。だがそれは”前世で破壊神と出会った辰砂“ではない。あくまでも自分がリューシャとして生きた時間の中で、海辺の夢の中に出てきた少年を愛している。
 対象が同じでよく似た想いでも、その二つは厳密には違うものだ。取り違えてはならない。
 故郷で不吉な神託の子として疎まれ続けたリューシャにとって、屈託のない笑顔を向けてくるあの夢の中の少年だけが、ただ一つの救いだった。
 愚かな恋。現実感のない想い。今現実にこの世界に存在するかどうかも怪しい存在相手に、まるで狂気の沙汰だ。
 そして彼が現実にいると知り、いよいよ想いを止められなくなった。
(我は……)
 破壊神としても。リューシャとしても。
(辰砂を愛している)
 それだけは確かだ。
「辰砂」
「――?」
 夢の中で目の前の相手に抱きつく。
「我は……お前に触れたい。お前に触れられたい」
「いきなりどうしたの?」
 ああ、これはやはり夢なのだとリューシャは再確認した。
 今の辰砂はこんな風に、極自然にリューシャを受け入れてはくれないだろう。彼を裏切りあくまでも神として行動した前世の自分を彼は決して赦しはしない。
 奴隷のように跪いて愛を乞いたい。魔王のように攫って閉じ込めてしまいたい。
 けれどそのどちらも許してくれなさそうな辰砂こそを愛している。
「お前が好きなんだ」
 例え、この想いが永遠に届くことがないとしても。