Fastnacht 21

083

 さくさくと下生えを踏みしめる気配がして、辰砂が振り返った。
「辰砂、グラスヴェリア様が呼んでたぞ」
「ああ。わかった、ディソス。今行くよ」
 リューシャは名残惜しげに辰砂の体を離す。彼は気遣うようにリューシャの頭を撫でた。
「よくわかんないけど、何か悩みがあったら言えよ。こちとら無力な人間とは言え、お前が苦しい時や悲しい時に、一緒にいるくらいはできるからな」
 それだけ告げると、背徳神の下へ行くために辰砂は去っていく。入れ替わりに、伝言を届けに来たディソスが近づいてきた。
「まぁ、嘘なんですけどね」
 その口調にふと違和感を覚え、リューシャは顔を上げた。
 目の前にいるのはディソスだ。そうとしか見えない。だが、それはリューシャも同じ。見た目は破壊神だが中にいる意識はリューシャ。ということは?
「もしかして、ウルリークか?」
「はい、そうですよ。やっぱりリューシャさんでしたね」
 ディソスの顔と声でウルリークが言った。ウルリーク自身の体でディソスの喋り方をしていた時も思ったが、違和感が酷い。
「ディソスはそんな喋り方はしない……」
「生まれ変わっても口調の変わらないリューシャさんの方が稀なんですって。みんなあなたの雰囲気に誤魔化されていますけど、実際今の時代に一人称が我の人は滅多にいませんよ」
 やはり中身はウルリークだ。彼とディソスは基本的な性格は変わらずとも、こうして口調の違いが両者の差異を際立たせる。
「で、これはどういうことなんです? いつもの夢とは感触が違うと思ったら、俺たちはあなたの夢の中に取り込まれてしまったようですね」
「我の夢の中?」
 怪訝な顔をするリューシャに、そういえばと思い出しながらウルリークが言った。
「リューシャさんは眠ったまま昏睡状態に落とされて気づいていないんですね。あなたに白蝋さんが夜這いをかけにきたんです」
「状況がわからずともとりあえずその言い方には語弊があるんじゃないか? と言うことはわかった」
 まぁ、白蝋が何かをしに来たのは確かなのだろう。それがこれ……なのだろうか。
「ここが我の夢の中だとして、あの男は我に何をさせたいんだ?」
「知りませんよ、そんなこと。白蝋さん本人に聞かないと」
 にべもない。だが、言っていることはもっともだ。
「まぁ、辰砂関連なんでしょうねぇ」
 懐かしい景色を眺めながらウルリークが言う。
 海岸の方から竪琴の音が聴こえてくる。
「……これは、全部夢なんですよね。あなたの記憶から引き出され、作られた仮想夢」
 頬を撫でる風も樹々の葉の擦れる音のさやけさも感じられるのに、全てが夢。
「早くここから出ましょう。リューシャさん」
「……ウルリークは、この空間が懐かしくならないのか?」
「懐かしいですよ。懐かしいからこそ、早く現実に帰りたい。僕はもうディソスじゃない。ウルリークです」
 誰も過去には帰れない。
「それに、このままここでかつての記憶をなぞっていると、僕死んじゃうと思うんですけど」
「ああ――」
 かつてこの村を滅ぼしたのは、秩序の女神ナーファ。
 二対一柱と言われる律神、ナージュスト=ナーファの片割れ。規律神ナージュストの妹。
「ナーファは何故、この村を滅ぼしたんだ」
「背徳神様が好きだったから」
 ウルリークの答は簡潔だった。
「何?」
「知らないんですか? まぁ破壊神様は知りませんかもね。あの人は、グラスヴェリアが好きだったんですよ。だから彼の寵愛を受ける彼の民が赦せなかった。おまけに秩序と背徳は相反するものですからね。見せしめとして背徳神と辰砂が村を空けた隙に、残っていた村人たちを殺したんです」
 ウルリークが憂い顔を海岸に向ける。
「ああ、ほら――」
 ふっとその姿が消えて、リューシャは慌てて辺りを探した。いつの間にか場面が移り変わっている。
「ディソス! アディス!」
 白い砂浜が血に濡れていた。
 辰砂と、僅かに生き残った人々が同胞の亡骸を抱きしめて泣いている。
「どうして、こんなこと――」
 慟哭がこちらまで聞こえてきた。泣き叫ぶ声が耳を突き、胸が痛い。
 埋葬を終え、僅かに生き残った人々が寄り集まって話し合う。
「辰砂、お前さえいてくれば――」
「無駄だ。秩序神は辰砂たちの不在を狙ったんだ」
「どちらにしろ、神に敵うわけないよ」
「俺たちの楽園が。ここさえもまた失うのか――」
「……みんなは、これからどうするの?」
「この村を出て行こう」
 どれほど背徳神を愛していたところで、秩序の神には敵わない。寄り集まって快楽の宴を開くことが秩序神の神経を刺激するのであれば、信仰を捨て、再びそれぞればらばらに生きていくしかないと。
「せっかく私たちを受け入れてくれる場所を見つけたのに」
 誰もが泣き、苦しんだ。だが人間は神の力の前では無力だ。
 村を去っていく人々をグラスヴェリアは止めなかった。彼は彼の民を守ることができなかった無力な神だ。その背徳神が一体何を言えるだろう。
「本当に行かないのか? 辰砂」
 漁師の少年が最後まで残り、ただ一人この海辺に残り背徳神の傍近く在ることを決めた辰砂に話しかける。
「行かない。それにもしどこかへ行くとしても、君とは行けない」
 辰砂はかぶりを振る。名残惜しげに何度も振り返る人々を見送り、低く呟いた。
「また……独りになっちゃった」
 張り詰めた笑顔で哀切な嘆息を落とす。泣くことも出来ないその姿を、リューシャはただ、遠くで見守った。
 そしてディソスたちの復讐を決意した辰砂が創造の女神の力を奪い、神々を屠りはじめたその時、青い髪の女神ナーファがリューシャ――破壊神に命じた。
「戦いなさい。殺しなさい。滅ぼしなさい」
 創造の女神の名を奪った辰砂の力は、人とも思えぬ程強大だった。彼に勝てる神は、この天界最強の闘神しかいない。
「それがあなたの役目。あなたの存在意義」
 そして破壊神は、その通りにしたのだ。

 ◆◆◆◆◆

 ――全てが消えた。
 影絵を映すための明かりを消した時のように、目の前が真っ暗になる。
「これ以後のことは、もうお前も知っているだろう」
 背後から聞こえてきた声に振り返る。
「辰砂……」
 白銀の髪に色違いの瞳。全てが失われたあの日と変わらない辰砂の姿がそこにあった。リューシャの仮想夢の中の登場人物ではない、現実の辰砂だ。
 破壊神でさえ人間に生まれ変わることを選びこれほど変化してしまったというのに、辰砂は少しも変わらない。彼は自らを、永遠にその時間に留めている。
 あの日の憎しみを忘れないために。
「まったく、アリオスは余計なことをしてくれるよ」
 弟子の行状に一つ溜息をつき、辰砂はリューシャと向き合う。
「破壊神、お前が何を考えて人間に生まれ変わったのかなんて、僕は知らない。考えたくもない」
 シャルカントでリューシャの滅びの力を具現した青い炎に包まれる中口にした言葉を、彼はもう一度リューシャに告げる。
「僕の意志は変わらない。何度死んでも、何度生まれ変わっても――お前は、僕の敵だ」
「辰砂、我は――」
「とりあえずここから出るぞ。アリオスが下手したおかげで面倒なことになっているんだ」
 正確には白蝋が失敗しただけではなく、直前にウルリークやセルマがリューシャの夢に交じったことが原因の一つだ。けれど辰砂にとっては同じこと。どちらにしろ白蝋の行動は、辰砂にとっては「余計なこと」だったらしい。
 辰砂はくるりと背を向ける。
 もう、いつかのように手を差し伸べてはくれない。
 わかっている。これが今の自分たちの距離だ。決裂が二人を別ち、埋められない溝が存在する。
 かつて破壊神は、辰砂を裏切った。
 秩序神の命じるままに、辰砂と戦い、彼の命を奪った。
 黄大陸の帝国で、ほんの少しだけ心触れ合った王の言葉を思い返す。
『探し出して――今度こそ、あの男を殺す』
 ラウルフィカは“銀の月”を決して赦さないと言っていた。辰砂も同じだろう。自分を裏切った破壊神のことを、決して赦さない。
 リューシャにはわからない。自分がこれから一体どうすればいいのか。
 そもそも自分はどうしたいのか。
(我は……辰砂に赦しを乞いたいのか?)
 このまますれ違い、憎まれ続けるのは胸が痛む。だがそれは誰のため、何のためなのだろう。
 リューシャは辰砂を愛している。だが彼を手に入れたいがためだけに心にもない謝罪を口にして、辰砂に裏切りの赦しを乞うのか?
 かつて秩序神が命じた時、破壊神はその命に従い辰砂と戦った。
 もう一度同じ状況になったら、破壊神としてリューシャはどうするのだろう?
 秩序神のやり方は残酷で、その理由はくだらない嫉妬にすぎない。だが背徳神の民が人々の秩序に反した存在であることもまた確かだった。私情が交じったとはいえ、秩序神は己の役割を果たしただけとも言える。
 だからこそ、神としての姉の心情を理解できたからこそかつて破壊神は秩序神の命に従ったのではないのか?
 それを今、辰砂の愛を乞うためだけに翻すのか? 何が正しいのか間違っているのかも考えずに――。
 そんなやり方で辰砂の怒りが溶けるはずもない。
 秩序神の命に従ったかつての行動が正しいとしたら、破壊神と辰砂はどうあっても戦い合う運命だったと言うのだろうか。
 何があっても辰砂は神々に反逆し、破壊神はその討伐を命じられる。その流れは変わらなかったと?
『運命は立ち向かうものじゃないわ』
 シャルカントで夢現に出会った時の、月女神セーファの言葉を思い出す。
『それがあなた自身の選択なんだもの。望んでそうなったのだもの』
 運命。それは誰かに与えられた道筋ではなく、自分自身が選択してきたこれまでの全て。
 従うべき運命など存在しない、自分が選んだこの道が後に運命と呼ばれるようになるだけだと。
『……辰砂はどうして、神々に反逆など起こしたんだ?』
『あなたは知っているはずよ』
 月女神はそう言った。答はすでにリューシャ自身が持っているはずだと。
 前を歩く辰砂の背をリューシャはじっと見つめる。彼を拒絶する辰砂の背。
 ――この夢の出口が近づいてきた。