086*
宿に戻ると同時に辰砂の姿は消えた。確かに爆発で壊滅状態となったはずの一室は、見事に修復されている。
「おう……リューシャ、戻ったか」
「ダーフィト、なんだかやつれているようだが」
一人夢の中に入ることもなく現実で起きていたはずのダーフィトは、何故か疲れた顔をしていた。
「白蝋と紅焔の痴話喧嘩を仲裁しつつ宿の親父に謝りつつ部屋を直させるのが難問でな……」
「何と言うか、すまん。苦労をかけた」
「いいんだ……悪いのはあのバカ二人だから……だが……寝かせてくれ」
彼はそう言うと、寝台の一つに沈没した。リューシャはすでに健やかな寝息を立てている再従兄弟に上掛けをかけてやってから、その眠りを邪魔しないよう、隣の部屋へと移る。
「あ、リューシャさん」
「殿下。ご無事ですか」
セルマとウルリークの二人も今の今まで宿の修復に手を貸していたようだ。道具を片づけながらこちらを振り返る。どこをどう直したのかリューシャの目にはわからないほど、室内は綺麗に整えられていた。
「辰砂さんとは何を話したんです?」
「大したことではない。……世界の滅びに関する話だ」
「大したことだと思うんですけどね。それはそれで」
咄嗟に思いついたことの否定を更に否定すると、全て読んだ上でウルリークがからかってくる。しかし必要以上に絡んでくる気はないようで、彼はすぐに話題を移した。
「そう言えば、俺とセルマさんの二人でちょっと街に出ようかって話していたんです」
「街に?」
リューシャは窓の外を見る。すっかりと日が昇りオリゾンダスは活気に満ち溢れていた。
「備品の買い出しとか色々ありますからね。というわけで」
「我は――」
「殿下は留守番をお願いします」
リューシャが台詞を言い切る前に、セルマが問答無用で決定を伝えた。
「……セルマ」
護衛役と言う割に最近離れている時間が長い気がする騎士に、リューシャは不満げな視線を向ける。先程だってリューシャが辰砂に連れて行かれても案じる様子の一つもなかったというのに、今更人攫い程度を警戒するのか?
「私たちは辰砂とは一時期行動を共にしていたので、それなりに人柄を信用しております。けれど街中ですれ違うような輩はそうではありません」
「リューシャさんの性格からすると、創造の魔術師よりも下手な人攫いを相手にする方がよっぽど危険でしょう。また緋色の大陸の時みたいに攫われても困りますし、街を燃やしても困りますし、俺たちが帰ってくるまで宿で大人しくしていてください」
二人の息の合った説得に、リューシャはしぶしぶ頷いた。宿から出ていくセルマたちを見送って、寝台の上で一人膝を抱える。
普段の睡眠時間から言えば明け方に叩き起こされた今日は少しばかり眠りが足りない。だが頭と体が興奮状態で、このまま横になっても到底眠れそうになかった。
「……辰砂」
呼んでも振り返ることのない名がぽろりと零れ落ちる。リューシャは彼のことばかり考えている。
名前と言えば、辰砂は、破壊神の真名を知っているようだった。
海辺の夢を思い出す。人の耳では決して聞き取れないそれ。名を呼んで、辰砂が手を差し伸べる――その手を、掴むことができたなら。
こちらを振り返ることなく伸ばされた手も嬉しかったがやはり――できることなら振り向いてほしい。振り返ってほしい。
重ねた手のひらの熱を思い返すと妙な気分になってくる。そう言えば白蝋に見せられた仮想夢の中では、自分は辰砂を抱きしめもしたのだったか。
現実にシャルカントで抱きついた時には激しい拒絶を受けたが、夢の中の辰砂は酷く無防備で優しかった。
……駄目だ。
欲求が抑えられない。指先が下腹に――服の中に伸びる。
細い腕、首筋。全体的に華奢な体つき。脳裏に描く辰砂の姿はかつても今も変わらない。色褪せない記憶の鮮明さに自分で自分が憎い。
白蝋のせいだ。あんな夢を見せるから。あんな――優しかった頃の辰砂の夢など見せられたら、気持ちが抑えきれなくなるに決まっている。
辰砂は変わらない。だが破壊神は変わってしまった。生身の肉体を持つリューシャは、破壊神が抱いていた痛い程に溢れる想いを、肉の欲求として昇華する方法を知ってしまっている。
嫌と言う程に見慣れた自分自身が熱を持っているのを取り出して、ぎこちなくしごきはじめる。
「ん……」
漏れそうになる声を抑えようと、唇を噛む。背筋に寒気のようなものが走り出す。
頭では駄目だ駄目だともう一人の自分が警鐘を鳴らすものの、震える指の熱心な動きは止まらない。
こんな場面、誰かに見られたら憤死する。セルマとウルリークはこの部屋から出て行ったのだ。戻ってくるのもこちらの可能性が高い。だが隣室ではダーフィトがまだ寝ていて……そうだ、再従兄弟が寝ているというのに。それなのに。
そして運良く誰に見られることがなくとも、罪悪感は消えない。
かつて生まれたばかりの破壊神はただひたすらに一途で穢れのない想いを辰砂に捧げていた。
それが、人間として生まれ変わった途端にこれか。この世で誰より愛おしくて大切に思っている相手さえ、肉欲の対象とする。
男女ならまだしも自分たちは前世も今生も紛うことなき男同士だ。辰砂が男を愛していることは知っているが、少なくとも自分がその対象でなかったこともわかっている。
破壊神が辰砂に捧げる想いと同じく、辰砂がこの未熟な神を愛する想いもどこまでも純粋な愛情だった。父のように兄のように、弱いものを無条件で慈しむような愛を注いでくれた。それに対して。
「だ……めだ、こんなの」
背徳感に比する快楽。人として生きて初めて、兄神である背徳神の存在意義が実感として理解できよう。禁じられた蜜はどうしてこんなに甘いものか。
万が一にでも本人に知られたら軽蔑されることは間違いない。今からでも脳内の人物を誰かと入れ替えたい。もうこの際誰でもいい。
ああ、どうして生まれのことがあるとはいえ、自分は普通に女好きで女なら誰でもいいという性格ではないのか。熟女好きでも醜女専でももうなんでもいいから!
切実な想いとは裏腹に、リューシャの脳裏に思い浮かぶのはただ一人の少年だ。どれほどその面影を振り払おうとしても消えない。
「し……」
こぼれそうになる響きを抑え込むため、自分の服の裾を噛みしめる。
きつく目を閉じると、ますます彼の面影と触れた感触が蘇ってきた。
手のひらの熱。指の細さ。華奢な身体を抱きしめたことさえある。
リューシャとさして体格は変わらない。だが辰砂は確か十四歳で肉体年齢を止めているのだ。開いた二歳分の差だけ、その身は細く頼りなく感じた。
触りごこちと言ってもダーフィトのような鍛えられた男の肉体とはまったく違う。美しすぎるラウルフィカとも、健康的なシェイとも、何故か女らしさのあるウルリークとも違った。
少年。その言葉に相応しい成長途中の生き物独特の美しさと、どこか人工的な無機質さ。それでいて普段は巧妙に隠している色香。その気になれば穢れなど知らぬかのような顔もできるし、国を傾ける妖婦の顔もできる。
先日抱きしめた瞬間、揺れた白銀の髪から清々しい薬草の香りがした。自分の長年求めていたものはこれだと感じた。
「っ……!」
本能が理性の言うことを聞かなくなって久しく、辰砂のあれこれを思い浮かべるたびに、リューシャの足の付け根に熱が溜まっていく。
服の裾を歯で咥えた唇の隙間から熱い息が零れる。
罪悪感は一向に消える気配がなく、快楽が高まると共に強くなっていった。それでも。
(辰砂……辰砂……)
自身に刺激を与え続ける指の動きが止まらない。強制的に快楽を与えられることが多いので自慰など滅多にすることもないが、自分のいいところは自分が一番よくわかっている。
その上今は、思い浮かべている相手が相手だ。
辰砂の指。辰砂の唇。辰砂の声。辰砂の笑み。
辰砂であったら、彼が与えてくれるものならなんでもいいのだ。それが苦痛であれ快楽であれ。
逆に言えば辰砂がそこにいるだけで自分はこんな風に興奮することが可能なのだと。変態にも程があるだろうと自己嫌悪がこみ上げた。
彼を組み敷くことをまったく思い浮かべなかったと言ったらそれは嘘になる。望みが強すぎて一周し、そんな場面はもはや想像すらできない。
欲望は尽きない。もう触れることさえ容易く許してはくれない相手なのに、触れたくて、触れられたくてたまらない。
人としての醜さに嫌気がさす。高まった悦楽で自然と目尻に涙が浮いた。
「ん、くっ」
どこまでも罪深い、この想い、この欲、熱。
吐きだしてしまいたい。一時楽になったとしても、それで本当に救われることはないと知りながら。
はち切れんばかりに高まった欲望を抱え、何度も何度も夢の中で見慣れた笑みを思い浮かべる。
「――ッ!!」
ぞくぞくと背筋を制御できない快感が通り抜けて行った。
「あ……はっ……」
唾液まみれになった外套の裾が唇から滑り落ちる。
これまで経験したどの相手と肌を重ねるより気持ち良かったと思ってしまう自分が嫌だ。本人は相手にしてくれないだろうから、つまりこれが自分の人生最大の快楽ということになる。どれだけ虚しい一人遊びなのか。
気怠い身体をなんとか引き起こす。ここは自分で入室者を選べる城ではないのだ。セルマたちが戻ってくる前に、一刻も早く後始末を――。
まさにその瞬間。
「そうだ! 言い忘れてたことがある、ベラルーダの――」
辰砂が飛び込んできた。創造の魔術師の転移術は一流どころか神業だ。予告も前触れもない。
油断なんてものではない。これを予想できるものならしてみろと言うものだ。
辰砂は状況判断力にも優れている。だからこそ、凍りついたリューシャの様子を見てぽかんと口を開けた。
「――は?」
リューシャは必死で言い訳を考えた。寝台の上で局部を露出する格好のもっともらしい理由や目的が他にあればどうにか――どうにかなるわけない。
「ちょ、え、は? マジで?」
世界なんか滅びてもいいから今すぐ死にたい。