Fastnacht 22

087*

 前を開いた下衣、そこから飛び出したものに添えられた手。拭うことを忘れられたままどろりと零れた白濁。
 引きつった顔のリューシャ。
「…………ノックは大事だよな」
 辰砂は遠い目をした。
 確か自分は彼に何か伝えることがあったはずなのだが――何だったのだろうか。駄目だ。思い出せない。
 どこへでも行ける魔術がどこへでも踏みこみ過ぎて仇となった形だ。場所ではなく相手の気配を頼りに移動する術なので仕方のないことではあるのだが。今度から遠隔透視と併用するべきかと構想を巡らせる。
「あー、えーと、ちょっと待て。扉の前からやり直す。今度はちゃんと戸を叩くことから始めるから……」
「ままま待て! この状況で放置するな! 別の意味で死にたくなる!」
 真っ赤な顔のリューシャに引き留められ、辰砂は盛大な溜息をつきつつ足を止めた。見なかったことにしたいと思うがそれはそれでわざとらしい。
 一度扉を振り返りかけた体を、もう半回転して元の位置に戻す。あられもない格好のリューシャの姿が目に入り、反応に困った。
「そうだな……お前も今では生身の肉体を持つ上、思春期真っ盛りの男だ。そういうこともあるよな」
 似非思春期の辰砂とも、多少若作りではあってもその辺りは大人の礼儀を弁えている弟子たちとも違うのだ。欲求を抑えきれない時もあるだろう。まぁ仕方がない。自然の摂理だ。女子ならまだしも男子は排出という問題が……いや、これ以上深く考えるのはやめておこう。
「まぁ、なんだ。僕も悪かった。いきなり部屋に入り込んだし。その、娼館とか恋人といるところに出なくて正直まだ良かったと思っている」
 一人でしているところを目撃してしまったわけだが一人だったのでまだマシだったと言える。これが誰かと一緒にいるところだとしたら本気で目も当てられない。
 つい今朝方殺そうとしたことは謝らない。だがこれに関しては別だと、辰砂はこの上なく素直に謝った。昼日中にという思いはあるが、リューシャにとって一人になれる時間がここしかないのなら当然だ。ノックもなしに直接部屋の中に飛び込んだ自分が悪い。
 かつて自分のあとをちょろちょろとついてきた雛鳥のような無垢な神はもういないのだな……と意識が過去回想に突入しそうになった時、リューシャの息も絶え絶えな声が届く。
「あの、ちが、これは、その」
 声ではあるがまともな言葉にはなっていない。白い肌が燃えているかのように真っ赤だ。目尻には涙が浮かんでいる。
 普段は柳眉を吊り上げて険しい表情をしていることの多いリューシャが、ここまで動揺している姿は新鮮だ。と言っても、この姿の破壊神との付き合いは辰砂も長くはない。
「だ、だって、白蝋のせいで、あんな現実的な仮想夢を見せられたら――」
 白蝋? 何故ここで自分の弟子の名が出てくるのか。さすがの辰砂にもわからなかった。
 だいたい、いきなり魔術で礼儀を無視して入ってきた相手に対するには、リューシャの反応がおかしい。この場面なら普通さすがに怒るだろうと思うのだが、ただひたすら後ろめたいことを暴かれた時の如く恥じ入っている。
 王族として育てられ、ラウルフィカ始めあらゆる男と関係を持ってきたことは知っている。今更自慰を目撃されたくらいで泣きそうになるのが意外だ。それを恥ずかしいと思うにしても、そう思えば思う程いきなり部屋に入ってきた相手を怒り怒鳴りつけそうなものだが……。
「お前……」
 空色の瞳が熱を持ち潤んでいる。その瞳に過ぎるのは、罪悪感。後ろめたくて、申し訳ない気持ち? 単に恥を晒したという思いだけではない。
(ああ……そうか)
 スッと表情の抜け落ちた辰砂の様子に、リューシャがびくりと震え慄く。
 辰砂は寝台に片膝ついて乗り上げる。中途半端な格好のまま身動きもとれないリューシャの頤を指で撫で上げた。
「それで、誰なんだ? お前が思い浮かべていたのは」
 ぎくりとリューシャの心臓が飛び跳ねた。あからさまな動揺の気配に辰砂が氷のような眼差しになる。
 リューシャは身一つだ。周囲に春画も艶本もそれ用の道具も何も置いていない。これで欲を発散していたというなら、脳裏に“誰”を思い描いていたのか?
「セルマ? ウルリーク? シェイとか、今まで会った人たち? その辺の道を歩いていた綺麗なお姉さん?」
 リューシャが涙の浮かんだ目で、ふるふると小刻みに首を振る。辰砂の質問を跳ね除ける気配もない。
 耳元に唇を近づけて囁く。
「それとも……僕?」
「……っ!」
 声のない答が何よりも雄弁にその問いかけを肯定していた。真っ赤になって羞恥を堪えるその姿に、これ以上ない蔑みの眼差しと共に言ってやる。
「この変態」
「う……」
 反論できないリューシャが力なく項垂れる。
 辰砂はあることに気づき、ますます冷淡な目でリューシャを見下ろした。
「勃ってんじゃん」
 こんな状況になっても、放り出されたままのリューシャの股間のものは半ば以上熱を持っている。
「あ……」
「へぇ? 自慰を人に見られて罵られて、それでまだ興奮してるの? それとも、『だから』興奮してるのかな? 被虐趣味があるとか?」
 声も言葉も、今の辰砂は針のようだ。自分でもよくわからない感情が湧きあがり、辛辣な言葉を止める気が起きない。
「それとも、僕に罵られたいの? ねぇ、お前はどういう状態の僕を想像しながらやったの?」
 熱を持つそれに触れる。
「っ!」
 指先を先端にそっと置いただけなのに、リューシャは目を見開いて体を戦慄かせた。
 芯を持ち始めたそれを無造作に掴むと、細い首をのけ反らせて悲鳴を上げる。
「ああっ!」
「まだ触っただけだよ」
 辰砂は嗜虐的な笑みを浮かべ、言葉と指の両方でリューシャを責めたてた。
「虐められてるのにこんなに硬くして、そんなに僕に触られたかったの? お前は僕に抱かれたいんだ? 世継ぎの王子様として育てられたくせに、足を広げて女役をしたいっていうんだね?」
 焦らすようにやわやわと刺激を与えながら、強いて侮辱的な言い回しを考える。
「前じゃなく後ろを弄ってやる方がいい? 挿れられる方が好きなんだもんね」
「ち、ちが……」
「だったら逃げれば? お前の手も足も自由だろう。僕の手を外して逃げればいい。――僕は、追わない」
 リューシャが悲愴な顔つきになる。辰砂はぐっと手に力を込めた。今やめられたら辛いというところまで追いつめておきながら、言葉では無情に突き放す。
 ああ、苛々する。
 リューシャが自分に邪な欲望を抱いているという事実を、自分の中でどう消化していいのかわからない。突っ込むのも突っ込まれるのも絶対に御免だ。体を繋げる気は永遠にない。
 だが人間に生まれ変わった破壊神が自分以外の相手に健全な恋をして追いかけている姿というのも考えられない。……考えたくない。
 それが一番腹立たしい。
「逃げないの? やっぱり僕に虐められたいんだ」
「……い」
「何?」
「いい。なんでも。辰砂になら、何をされても構わない」
 潤んだ瞳で辰砂を見上げ、リューシャは言った。
 浅ましい熱。忌避すべき肉欲。その想いは禁忌。まさしく背徳神の領域だと。
 それでも。
「跪いて愛を乞えと言うなら、乞う」
 本当は攫って閉じ込めてしまいたいけれど、と何か物騒なことを付け加えながらも、リューシャは真摯に訴えた。
「僕は女王様か何かか。へぇ? 跪いて足をお舐めって言ったら、舐めるわけ」
「舐める。靴だろうが足だろうが、もっと他の場所だろうが」
 空色の目は本気だった。真剣過ぎて、辰砂の方が圧倒されてしまう程に。
「なら……」
 知らず緊張していたこめかみが薄らと汗をかいている。
「あの戦いの時の恨みだ。“死んで”って言ったら……死んでくれるわけ?」
 冗談めかしてはいるが、答を知りたい気持ちは本気だ。
 リューシャは悲しげにかぶりを振った。
「……なんだ。結局今までと同じじゃないか」
「我はいつだって、我にとって正しいと思える選択をしている。あの時はそれが正しいと思って我はお前と戦った。その事実を、簡単に否定するわけにはいかない」
 リューシャが辰砂に償うというのは、リューシャが間違ったことをしたという前提の下に成り立つ。
 かつての戦いの際、破壊神は破壊神で己が正しいと思える選択をしたのだ。仮にも神の名を持つ者が、決断を軽視して簡単に意見を翻す訳にはいかない。
「……お前は、いつだってそうだな」
 けれど破壊神の“正義”が、かつて辰砂を深く傷つけたこともまた、確かなのだ。
「いいさ。償いなんかいらない。僕はお前には何も期待しない」
「いっ……!」
 辰砂は指先に力を込める。弾けそうになりながらも最後の最後で留まる快感に、リューシャが悲鳴じみた嬌声を上げた。
「――僕が、お前の気持ちに応える日は来ない」
「ああああっ!」
 ぐり、と指の先を強く押し込むようにして先端に刺激を与える。リューシャが敷布を強く掴んで達した。
 抱きしめて口付けをするような関係ではない。強すぎる快楽なのに心は遠くすれ違ったままのやり方は、まるで罰のようだった。
 放たれて手のひらをべっとりと濡らす精を辰砂は冷徹な表情で見つめる。浅く苦しげな息をつくリューシャを置いて、すっと寝台から離れた。
「何を伝えるはずだったか忘れちゃった。……白蝋辺りにでも伝言させるよ」
「辰砂」
 追いかけてくるリューシャの声を振り払う。魔術の転移で面倒な事態に陥りもしたが、これがあるからこそ一瞬で姿を消すことも出来る。
「――」
 最後にリューシャが小さく呟いた。辰砂は聞こえない振りをした。
 だけど本当はわかっている。
「好きなんだ。我は……お前が誰より好きなんだ」