Fastnacht 23

第4章 波音の向こう

23.微かなる波音

089

 昼を過ぎてもリューシャはまだ微妙に落ち込んでいた。ウルリークがけらけらと笑い、ダーフィトが首を傾げつつも声をかける。
「で、今日はどうするんだ?」
 昨夜から今朝にかけては白蝋の夜這い、紅焔の暴走、辰砂の乱入が立て続いてほとんど活動できなかった。セルマとウルリークが少し買い出しに行ったくらいである。
 そして一体何があったものか。気づけばリューシャが泥沼に浸かるが如く沈み込んでいた。調べ物疲れと夜半の騒ぎでダーフィトが仮眠をとっていた僅かな間の出来事だ。それ以降リューシャがなんだか生気の抜けた状態になっていつも以上に使い物にならない。
「あれは気にしても仕方がありませんよ」
 ウルリークは事情を知っているらしいが、彼自身の意志かリューシャに口止めされているのか、セルマやダーフィトへの詳細な説明はなかった。
「リューシャ? 何か気がかりがあるのならお前は今日休んでおくか?」
「いや……我も行く。すまなかったな、今朝は」
 本日の彼らの予定は二手に別れる。
 リューシャとウルリークは白蝋に詳しい話を聞くため再びジグラード学院に赴き、彼の研究室へと押しかける。セルマとダーフィトは買い出しの続きだ。日用品は午前にセルマとウルリークで確保したので、午後は武器を見に行くのだと言う。
「では、また夕刻に」
 落ち合う時間を決めて、四人は出発した。
 リューシャとウルリークは昨日と同じくジグラード学院の受付に、今日は直接白蝋に会いたい旨を伝え面会を申し込んだ。昨日のように講義ついでのような形だと逃げられる恐れがある。
 しかし受付の女性はにっこりと笑って言った。
「はい。リューシャ=アレスヴァルド様。ウルリーク=ノア様ですね。伺っております」
 リューシャたちは顔を見合わせた。
 白蝋はどうやら二人の行動を予期して先回りしていたらしい。
 それだけなら教授に伝言を持たせた昨日と同じ。あの時はバベルの図書館に彼らを引きこみリューシャを始末するのが目的だった。今日は……。
 講義を受けず「客人」として直接面会を申し込んだリューシャたちは、職員に案内されて学院内の研究棟を歩く。世界最大の学術機関だけあって研究棟の広さも馬鹿にならない。
 それでもこれらの研究室は主に実験やデータ分析が必要になる学問の常勤講師向けの施設なのだという。例えば剣術の授業には剣一本、己の肉体のみあればいい。そう言った授業の講師にまでこうした研究室は与えられないのだと。
 白蝋ことアリオスは世界各地の神話研究及び辰砂研究の第一人者だ。膨大な資料の分類と分析のために独自の研究室を持っている。更に彼は長期の常勤講師でもあるので、辰砂からの頼まれごとがない限り基本はこの学院にいるらしい。
「アリオス先生、お客様ですよ」
「はいはい。ありがとー」
 窓際の机で資料を読んでいた男が振り返る。
「いらっしゃい。リューシャさん。ウルリークさん」
「……邪魔をする」
 昨日の戦闘も今朝の騒動も何事もなかったような顔をして、白蝋は笑顔で二人を迎え入れた。乱雑に書類の積み上げられた机の横の椅子を示す。
「それで本日はどのようなご用件で」
「惚けるな。それを聞きたいのはこちらの方だ」
 リューシャは白蝋を睨み付ける。彼の思惑は未だ読めない。辰砂の弟子ではあるが、彼と辰砂の意志が一致しているようにも思えない。掴みどころのない男だ。
「白蝋さんは、俺たちと……いえ、リューシャさんと辰砂をどうしたいんですか?」
 ウルリークの正面からの問いかけに、白蝋が笑みを消した。
「あなたは辰砂のためにリューシャさんを消そうとし、夢の中に細工をして前世の記憶を刺激したのでしょう」
「そうだよ。お師様にとっては余計なお世話だろうけどね」
 ついに白蝋はそれを認める。彼は日差しに透けそうな真っ白な髪をかきあげた。
「僕たちの知るお師様は……人間としてはまぁともかく、魔術師としては完璧だ。幼げな見た目にも関わらず、精神は常に非常に安定している。おちゃらけるのは好きだけどね」
「あなた方そんな人たちばっかりですね」
 おちゃらけるのが好きなのは銀月も白蝋も辰砂もみんな一緒だろうと、ウルリークが余計な茶々を入れる。
「そんなお師様が、そちらの王子様のことになると見た目通りの子どもみたいに動揺して取り乱して怒りに燃え狂ったり不機嫌になったりする。あの人にとって、あなたは特別だ」
 リューシャはどきりとした。白蝋の透徹した眼差しがその上に注がれる。
 辰砂。リューシャが前世の記憶を思い出し――否、その想いを思い出す前から辰砂の存在に心乱されてきたように、辰砂もまたリューシャの存在に某か思うところがあるのか。
 その距離は今、どれ程遠いのか。
「僕ら“辰砂の弟子”は、基本的にはお師様と一緒に天界に住んでいます。お師様の力は常に地上に置いておくには強すぎると、一部の神から天界に住まうことを望まれたようです。しかし望まれるというのは便宜上の言い様……実際は命令に近いようなものですよ。そしてどちらにしろ、わざわざ自分たちの近くで暮らしている“創造の魔術師”に対し、敵意を向けてくる神々は大勢います。――わかりますか? あの人が常に、どんな気持ちでいるのか」
「……」
 人の中で忌み嫌われ、神々にもまた、憎まれる。
 異端の魔術師。
 シャルカントで皇帝スワドが興味を持っていたように、地上にいれば権力者がいずれその存在を嗅ぎつけてくる。そうなれば辰砂の力を求める者たちが衝突し騒動となるのは必至だ。不老不死と目され、神話の時代から生き続けるという最強の魔術師の存在を確認して無関心でいられる権力者はいない。
「以前、“バベルの図書館”の話をしましたね」
「ああ。じっくり聞くことはできなかったが、何か……この世界そのものだとかその記憶だとか言っていたか?」
 虚空での対峙の際、ダーフィトが「わからん」を繰り返していた白蝋との会話を思い出す。
「そうです。そして世界の記憶はまたの名を、“集合的無意識”と言います」
「集合的……無意識?」
 耳慣れぬ言葉に、リューシャは舌をもつれさせる。
「ええ。こんな話を聞いたことはありませんか? 人間の意識の奥底は繋がっていると」
「心の海って奴ですね。俺たち魂を持つ生命は総て、その魂の根を同じ心の海に浸しているって奴です」
「……よく、わからん」
「人類の魂は総て集合的無意識の一部。……魂が還る場所。それが」
「集合的無意識、生命の書、天の板、虚空、アカシックレコード……総ての弁明の書を集めた――“バベルの図書館”」
 ウルリークの言葉のあとを白蝋が引き継ぐ。リューシャは必死で、今聞いたばかりの情報を整理して組み立てた。
「そうすると……ええと、我らの魂の根の情報が心の海で、集合的無意識で、バベルの図書館ということは……バベルの図書館から、我らの魂の根が見えるのか?」
「根だけではなく、根で繋がっている魂そのものが見えます。僕もあなたたちも、本当は誰もがみんな、その魂の根で繋がりあっているのです。そして自らの魂の奥底、心の海を介して辿り着いた“バベルの図書館”からは、総ての魂を見ることができます。いえ、見るだけではなく、図書館の機能を十全に使うことができるのであれば、他者を操ることもなんでもできる」
「そ――」
 リューシャは絶句した。
「だからこそ“バベルの図書館”は常人には到達できない世界なんですよ。まぁ到達できたところで使いこなせるかどうかは別問題なんですけどね。しかし何らかの理由で人間がその場所を訪れたら、思いがけない情報や影響を得てしまったということもある」
 眉根を寄せる。白蝋のこの言い方、なんだか他にもどこかで聞いたことがあるような――。
「お気づきになられましたか? そうです。これは要するに、界律師の仕組みなんです」
 先日、この学院で神話学の講義を受けた際に簡単に説明されていた。そしてリューシャにとっては、前世で聞いたことのある話でもある。
「集合的無意識は世界の記憶。バベルの図書館と呼ばれるここには全ての情報があり、ここに辿り着くためには、魂の底に潜らねばならない」
「……普通の人間には、そんなことはできない」
「そう。人間が集合的無意識に近づくのは、死んで魂が無数の意識の集合に還るその時だけだから。けれど何かの拍子に死にかけて魂の根が集合的無意識に近づきながらもぎりぎり生還して新たな力を得る存在が稀にいる。それが」
「界律師」
 魔術師を超えた魔術師。世「界」の「律」を知る「師」。
「我々は死に近づくことによって第七感を得て、第八感へと通ずる」
 リューシャも似たような感覚を覚えた。そう言えば破壊神としての記憶が目覚める前には、レネシャに麻酔と麻薬を打たれて一時期危なかったのだ。今思い返せば、そのことが魂を揺さぶり前世の記憶に目覚めるきっかけとなったのだろう。
「正解です」
 教師の口調で言って、白蝋は泣きそうに笑う。ああ、そうか。
 辰砂がただの人として地上で生きていた頃は、彼に居場所などなかった。その異相と魔術の業は忌むべきものとされ迫害された。
 辰砂は人に迫害され、何度も何度も死にかけた。山に生き埋めにされ海に落とされ、そのたびに彼は死に近づき、死に近づくたびに新たな力を得て現世に戻った。
 そうした苦痛の繰り返しが、“創造の魔術師”を作り上げたのだ。
 今界律師と呼ばれている人間たちにも多かれ少なかれ似たような経緯はある。だがしかし、辰砂ほどに何度も何度も殺され、蘇った界律師はいない。
「辰砂、は」
「あの人は“バベルの図書館”を誰よりも扱えるのですよ。バベルの司書たるゲルサ並にね」
 街の図書館で会った女性司書を思い返す。白蝋のこの口ぶりからすると、彼女もまた只者ではないらしい。
「僕たち“辰砂の弟子”は、辰砂に拾われた者。まぁ、正確に言うと僕は押しかけみたいなもんですが……。そういうわけなんで、ただでさえ苦労している辰砂にこれ以上心労をかけるのは御免なんですよ」
「あなたの暴走も大概辰砂の心労を増やしてますけど?」
 ウルリークの突っ込みは華麗に無視される。
「だから、そのお師様の最大の関心事である前世破壊神様、現世リューシャ王子にははっきりしてもらいたいんですよね!」
 びしりと音が立ちそうなほど真っ直ぐに、白蝋はリューシャの顔の真ん中目掛けて人差し指を突きつける。
「う、え。は、はっきりとは?」
「この期に及んで寝ぼけた事言わないでください。破壊神様、あなたは辰砂のことをどう想っているのですか。そしてあの方をどうするおつもりなんですか」
 要は白蝋を不安にさせているのは、どちらに転ぶとも知れないこの状況なのだ。
 かつて辰砂を裏切った破壊神。だが彼は辰砂のことが好きで、辰砂自身も彼のことを考えると心乱されて無関心ではいられない。
 辰砂の弟子としてはその中途半端な状況を放置して、また辰砂が傷つくことになるのを避けたいのだ。この世界にひしめく有象無象の人間全てから庇うことはできない。だが因縁深い神の一人や二人なら、辰砂が望むのであればなんとかしようと――。
「なんだかリューシャさんが辰砂を翻弄する悪女にでもなったかのような問いですね」
 全くの誤解である。むしろ翻弄されているのはリューシャの方だと思うのだが。
「白蝋、我は――」
 リューシャは辰砂を案ずるその弟子に、自らの正直な気持ちを告げた。