090
セルマとダーフィトは武器屋の扉をくぐる。ダーフィトの剣の砥ぎを頼んできたところだ。
「いい店があって良かったな」
「ああ」
シャルカントから逃げて来た時はとにもかくにも大陸から離れねばという状況だったので武器はあるが手入れを怠っているという状態だった。これで懸案事項の一つが片付いた。
旅に出てから人間相手に振るった覚えはそうないが、何かしらの障害を叩き斬るのについつい抜いてしまう。
身近なものなんでも武器にするセルマとは違い、ダーフィトは剣があるのとないのとでは戦力がまったく違う。ここで一度専門職に任せることができて良かったというところだ。
「砥ぎあがりまで数刻だと言っていたな」
「リューシャたちの方はまだかかるんだろうか」
リューシャとウルリークが連れだって白蝋に会いに向かったジグラード学院の方を眺め、ダーフィトは気遣わしげに呟いた。
「あんな奴に会わせて大丈夫かな」
辰砂の弟子として黄の大陸で顔を合わせた時の白蝋は、ただの気の良い青年だった。しかしリューシャが破壊神であると知ってからは、その敵意をあらわにした。
辰砂本人が破壊神の存在に言及する場面をほとんど見たことのないダーフィトには、辰砂がリューシャのことをどう思っているのかまではわからない。自分の敵だと言ってはいたが……辰砂はダーフィトたちがシャルカントからリューシャを救いだすのに協力してくれた。今朝の騒ぎだってそうだ。
「ウルリークがついている。案ずることはないだろう」
本来リューシャの護衛役であるはずのセルマは、心配の欠片もしていないようだった。余程ウルリークを信用しているのか、白蝋など恐れるに足らずと考えているのか。
意中の女性と二人きり。ダーフィトにとっては嬉しいはずのこの状況なのだが、気がかりが多くて素直に喜ぶことができなかった。
「どうした?」
「いや、なんでもない」
知らず視線を注いでしまった不思議そうに尋ねてくる。慌てて首を横に振るが、視線はついつい隣を歩く人物に向けられる。
「随分悩みが深いようだな」
人の感情に疎いことで知られるセルマにさえ分かる程に、今のダーフィトは思い悩んでいる。
「まぁ……当たり前だろ? 生まれた時から知ってる再従兄弟が神様だったんだから」
「お前はリューシャ様が神であろうと、自分の再従兄弟には変わりないと言ったではないか」
「ああ。言った。俺自身は確かにそう思っている。でもそのことが知れてしまうと、今まで通りに接してくれない相手もいるんだなって」
「白蝋か。それとも辰砂か。あるいは両方か」
「敵に回すと厄介だけど、神話のことを考えると味方になってくれとも言いづらい相手だからさ」
「そうだな」
辰砂と破壊神は敵対していた。辰砂は邪悪な魔術師であり、神々の中で最強の存在である破壊神が彼と相討ちになった。
「でも俺は、辰砂がそんな邪悪な存在には思えない。何よりリューシャがそう思っていない気がする」
「神話など所詮後世の人間の創作だからな。本当のところだと、あの時代を生きた人間でなければわかりはしないさ」
信仰を持たぬ暗殺者として生きてきた過去を持つ女性は、あっさりと言ってのける。
「だからお前は、お前の目で見たものを信じればいい」
「セルマ……」
ダーフィトは思わずその名を呼ぶ。
セルマはにっこりと笑った。決して清らかな手の持ち主ではないけれど、だからこそ彼女は彼女なりの視点で世界を見ることができる。
ダーフィトはセルマのそういうところが好きなのだ。
「そうだな。何も神話を頭から信じて、あの二人の仲が悪いとか、どちらかが悪人だとか、考えなくてもいいんだよな」
「すれ違いなんてよくあることだからな。だが……辰砂と殿下は当事者だとしても、白蝋はどうだろう? 彼は辰砂の弟子でありながら辰砂研究の権威だ。何を知り、何を考え、何のために行動しているのだろうな」
ダーフィトがかつてこの世界で神々と一人の魔術師の間にあった真実を知ることができないのと同じように、今を生きる白蝋にもそれを完璧に理解することは叶わないはず。
「確かに……だから、なのか。あいつのリューシャへの攻撃は」
「そうかもしれないし、違うかもしれない。私は思うのだが、彼が殿下を殺そうとするなら、もっと確実な方法を選ぶのではないか?」
わざわざバベルの図書館と呼ばれる亜空間に誘い込まずとも、いまだ神としての力を使いこなせないリューシャ相手ならば勝機はいくらでもある。それこそ「夜這い」と称されたあの時に息の根を止めることだってできたはずだ。
「だからお前はリューシャのことをそんなに心配していないのか? 白蝋があいつを殺すことはないと思っているんだな」
「ああ。ウルリークも一緒だし」
……セルマのその、ウルリークに対する信頼は何なのだろう。
人の裏を探る癖がついているセルマがそう言うからには、確かにウルリークは信用できるのだろう。そして彼女以上に人を拒絶するリューシャまでもがウルリークとはよく話すし、彼らの間だけで何事か相談していることも多い。
ダーフィトは思う。まるで自分には理解できない某かの絆が三人にはあるようだと。そこに自分は入って行けない。それが少し寂しい。
「なんだかな……随分遠くに来ちまったな」
「そうだな。緋色の大陸は世界の反対側だし、中央大陸にだって出てくるような用事もさすがにないものな」
「いや……そうじゃなくてさ」
セルマらしい物言いに苦笑しつつ、ダーフィトは告げる。
「アレスヴァルド国民としてはあるまじきことだけどさ、俺はリューシャの神託に関して、心のどこかでは本気にしていなかったんだ。リューシャの神託が国に波乱を呼ぶものだろうとは思ってもさ、まさか本当に神様そのものと関わりがあるとは思わなかった。リューシャの存在をきっかけに内乱が起きるとか、継承争いが起きて王家の血統が変わるとか、そういうことを想像していた」
「現実主義者のお前らしい考えだ」
神を信じている。ごく当たり前にその存在も、その慈悲も。
だが、だからこそ遠く感じる。
例え地上で人間が苦しんでいても、降臨してその手を差し伸べてくれる神などいないと思っていたのだ。
黄の大陸でラウズフィールがシェイを連れて戻ってきた時言っていた。月の女神に助けられたと。神とはそんな簡単に直接的に人を助けてくれる存在なのかと酷く驚いた覚えがある。
そのセーファこそがアレスヴァルドに神託を与え続けた存在だとリューシャは言っていた。俄かには信じがたいことだ。
人と神。その距離をダーフィトは今、上手く計れないでいる。
「そう気にしなくてもいいんじゃないか?」
「え?」
「リューシャ殿下が神の生まれ変わりであってもリューシャ殿下に変わりないように、例え神の存在を知ったとしても、お前はお前だ。望んで変わるのであれば構わないが、望まないことを受け入れるために自らを無理矢理変える必要なんてないと私は思うぞ。お前の神託に変化を受け入れろとでも出ていたわけでもあるまいし」
あっさりと。酷くあっさりと。
欲しい言葉を、欲しい時にくれる。
「この世に運命というものがあるならば、今ここに、リューシャ殿下の傍にいるのが他の誰でもなくお前であるということ。それだけで十分意味があるんだ。だからお前はお前のままでいい。お前という人間の生き方が、お前の選んだ運命そのものなのだから」
彼女が好きだ。好きで良かった。――ダーフィトは心からそう思う。
「ありがとう」
「?」
無能になるように育てられただけではなく、案外抜けているところの多いあの再従兄弟には、彼女のような騎士が必要なのだ。
「……例え話なんだけどさ」
急にどうしたとも言わず、セルマはダーフィトの話を聞く。
「崖から自分の大事な人間が二人落ちそうになっている時、どちらか一人しか助けられないとしたら、どちらを助けるか? っていう究極の選択があるよな」
「ああ。よく軍学校時代に言ってたな」
母親と父親だったらどちらを助けるかとかまったく見知らぬ相手だったら老人と子供のどちらを助けるかとか、よく皆で自分だったらどうするのかを話し合ったものだ。
「それで、お前は父親と殿下の二人で迷っているのか?」
「うん……それもあるけど」
ダーフィトはこれまでどちらも選ばなかった。再従兄弟であるリューシャも、父であるゲラーシムも。どちらも大切で――選べなかった。
今でも選べない。選べないからこそ、自分の役目はリューシャを無事に祖国へ帰すことだと強く想う。このまま父に、エレアザル王を殺し、リューシャを退けて得た権力を握らせてはいけない。
そしてもう一つ、気づいたことがある。
「セルマ。俺はお前とリューシャが崖から落ちそうになっていたら、迷わずにリューシャを助ける」
間髪入れずにセルマが返す。
「それはそうだろう。私は自分で上がることができる。さっさと殿下をお助けしろ」
気にした風もなく意地になった様子でもなく――単にダーフィトが男としてまったく意識されていないだけの気がするが――セルマは答えた。ダーフィトの期待と予想通りの言葉を。
「ああ、そうだ。お前はどんな苦境にあったところで、俺の助けを待つような弱い人間じゃない。だから俺は、迷わずリューシャを助けに行ける」
彼女は強い。自分よりも。だから惹かれた。
そして自分がリューシャを引き上げている間にセルマが自力で這い上がったら、三人して元凶を逆に崖に蹴り落とそう、と。
セルマが更に笑い話で重ねる。
「今だったらウルリークもいるからな。あいつならきっと容赦なくこう言うぞ。“何落ちてんですかリューシャさん。ダーフィトさんも、早く引き上げてくださいよ。せっかく僕がこの刺客さんを足止めしてあげているんですから“」
「は、腹立つ……少しでも手を借りたら、すごく恩に着せられそうだ……!」
笑いが込み上げる。そう、今の自分たちはこんな感じだ。これがダーフィトの選んだ道なのだ。
何も後悔はしていない。この世界にどんな神が降りようとも、自分は自分の道を行く。だから――。
ダーフィトはセルマに押し付けられた彼女の剣を抜き、大通りを外れた横道で目の前に立つ人影に告げた。
「お前の誘いには乗らない。ナージュ」