091
誰もいないはずの横道に人の気配を感じ、ダーフィトとセルマは警戒する。剣を砥ぎに出しているダーフィトにセルマは自分の剣を押し付けた。
自然に会話を途切れさせ、突如として目の前に現れた人影に二人は武器を向ける。
狭い路地では剣を振り回すことはできない。だが突きなどの攻撃は有効だ。間合いを広げる武器はあるに越したことはない。
自分の武器をダーフィトに渡したセルマはと言えば、すでに服のあちこちに仕込んでいた短剣や暗器を指に挟んでいる。
足音はしなかった。
だが人影が現れる。彼女は自分の存在に彼らが気づくよう、わざと気配を断たなかったのだ。
青い長い髪、性別を感じさせない神官風の衣装と、細身の輪郭。
「ナージュ!」
「お久しぶりね、ダーフィト」
現れた人物にダーフィトは目を瞠った。父の再婚相手にして、怪しげな魔術を使う女。その正体は双子の律神の片割れにして、秩序神ナーファの兄である規律神ナージュスト。
緋色の大陸に眷属を送りつけ、それを撃退されてからは手出しをしてこなかった相手が、どうして今頃?
「お前……実は男だそうだな」
まず確認するのがそれか、とここにいたらリューシャが突っ込んでくれるだろう。ダーフィトはナージュに問いかけた。
「ええ、そうですよ」
誤魔化す素振りすらなく、ナージュはあっさりと認めた。
「まだるっこしいことは嫌いなんだ。単刀直入に行かせてもらう。規律神ナージュスト、あんたは何を企んでいる。どうして父に――アレスヴァルドに手を出した!」
神であるナージュが女装どころか女体化してまでゲラーシムと結婚したのは、どう考えてもリューシャ絡みの理由だ。
「リューシャが、破壊神だからか」
「……もうそこまで知ってしまったのですか」
ナージュの表情が変わる。人間の女性らしいまろやかさを感じる笑みを消して、感情の起伏のない人形のような無表情になる。
これが彼女、いや彼の本当の表情なのだろう。
冷然として公正なる規律の神。
「それならこれもわかっていますか? ――破壊神が目覚める時、世界が滅びる」
「知っている。だがリューシャに世界を滅ぼす気などない」
「本人の気持ちなど関係ありません。彼の持つ力、それが総てです」
「あんたは、リューシャを殺そうとしているのか?」
「殺しはしません。だが、永遠の眠りについてもらう。母神がいない今、大きすぎる力がこの世界に仇を成すのは確実なのだから」
「――!!」
その昔、アレスヴァルドでもリューシャの扱いについていくつか意見が持ち上がった。国を滅ぼすと予言されている存在を、そのまま野放しにするのかと。
殺すべきだという意見もあれば、滅ぼすだけの力をつけぬようどこかに幽閉するという意見もあった。
その時はエレアザル王とゲラーシムの二人が協力してリューシャの自由を確保した。
教育係はつけない。どんな才能も育てさせない。だが一室に監禁するのではなく、外を歩く自由ぐらい与えるべきだと。
もちろんエレアザル王とゲラーシムの目的は違う。王は我が子の自由のために、ゲラーシムはその方が今回のようにリューシャに罪を着せやすいからという考えだ。思惑は違おうとも目的自体は一致していた二人は、協力して幽閉案を阻んだ。
リューシャが国を滅ぼし、世界を滅ぼす。それが荒唐無稽な妄想だと考えていたダーフィトは、他者の人生に口出しする国の重鎮たちの意見に憤慨したものだ。
今のナージュからはそれと同じような感じがする。リューシャを忌み嫌いながら、その存在がどんな災いをなすのかと畏れてもいたアレスヴァルドの民とは違い、彼はその真実を知っているはずなのに。
「何故」
今まで武器を構えながらも静観していたセルマが口を開いた。
「何故、そこまで人間を嫌うのです」
ナージュが目を瞠る。
一見脈絡のない問いだ。彼のそれまでの言葉とは結びつかない。
だがその質問は核心をついたらしい。神と呼ばれる者の空気が変わった。
「人が神を惑わすから」
ナージュはとても穏やかな声で言った。まるで嵐の前の凪の海のように。
「惑わす……?」
「かつて背徳神は、人間の歌姫に心惑わされて彼女とその身内だけを溺愛した。我が片割れ秩序神は、それを憂い人を憎み、あの大戦を引き起こした。そして破壊神は――人である辰砂を理解するためなどと言って、人に転生することを選んだ」
ダーフィトとセルマがハッとする。
二人はリューシャから大まかな事情は聞いているが、やはり全てを本質的に理解したとは言い難い。神の生まれ変わりがかつて創造の魔術師との間にあった戦いに関して説明したのはほとんど行動と結果の話ばかりで、その時彼らが何を思っていたのかはわからない。
けれど、伝わってくるものはある。リューシャが辰砂を今も深く気にかけていることだけは、セルマもダーフィトもよく知っているのだ。
それを、ナージュはまるで大いなる罪であるかのように言う。
「人はいつも神を惑わす。規律を守らず、無秩序の混沌を生み、その中に神を引きずりおろす。人に生まれ変わったからこそ、破壊神はその愚かさを知ればいいのです」
「そんな……!」
ダーフィトにもようやく、これまで要素がばらばらで核心の見えなかったナージュの真意が頭の中で繋がった。
「お前はリューシャに人を憎ませたいのか! だからこそ自ら人に変化してまで、リューシャを人が追い詰めるように仕組んだんだな! そのために、父上を利用したんだな?!」
ナージュは憎んでいるのだ。人間も、人間の心に近づこうとした末弟神も。
「ダーフィト」
まさしく慈悲深き天上の声音で、穏やかな響きが彼を呼んだ。
「あなたは早くゲラーシムのところに帰りなさい」
「断る」
「そう仰らずに。お父様はあなたがいなくてとても悲しんでいますよ」
今更義母としての振る舞いをされても、嫌悪感が募るばかりだ。元々中性的な容姿で女性らしくない物腰だったのでなんとか納得できているが、これが筋肉隆々の大男の女体変化だとしたら人間不信に陥ってもおかしくはない。
「お前は……お前にとって父上は何なんだ。リューシャに人を憎ませるための、都合の良い道具か!」
「まさか。ゲラーシムは良い男ですよ。もちろん私に恋愛感情はありませんが、王として己の理想を実現し国を平らかにしたいという彼の安定した精神は魅力です」
「都合よく唆していることには変わりないだろう! 父上は確かに野心を隠しはしない性格だったさ、だが国王陛下やリューシャを殺してまで玉座を乗っ取るような人でもなかった!」
これまでゲラーシムが決して越えることはなかった一線。それが破られたのは、ナージュと名乗る彼がゲラーシムに近づいてからだ。
「おやおや。ゲラーシムの決断を私のせいだと言うのですか。あれが彼の元々の望みだとは思わないの?」
ダーフィトは言葉に詰まる。確かにどこまでがナージュの企みで、どこまでが父の本心かは、息子であるダーフィトですら計りかねる。
けれど。
「お前の誘いには乗らない」
ナージュの差し伸べた手を、ダーフィトは跳ね除ける。
「正しいと思うことをするのが当然ならば、確かにアレスヴァルドの民は国のためにリューシャを早めに追放するべきだったのかもしれない。規律神であるあんたは世界を滅ぼす破壊神を封印するべきなのかもしれない。けどな」
武器を構える。切っ先をナージュへと向けた。
剣を持つ手には使い手の精神が現れる。今のダーフィトの構えは一部の隙もなく、真っ直ぐナージュへと向けられている。
「俺はあいつの家族なんだよ。正しいとか正しくないとか、そんなことだけで態度を変えられない。あいつがどんな奴でも、例え世界を滅ぼすとしても、俺があいつを守ることには、何も関係ないんだよ!」
「――」
今度はナージュの方が言葉を失う番だった。
律の神、規律神が主張するのは常に「正義」。正しくあること、それが彼の存在意義であり、片割れである秩序神の存在意義だ。
その正しさを否定することは、律神たる彼らの存在意義を否定することに繋がる。
ダーフィトは惑わない。
正義を行おうとして誰より誠実に生き、誠実に生きるために、正義を捨てた。それで構わない。
「そう――それがあなたの覚悟なのですね」
ナージュもダーフィトの決意を見て取り、彼の勧誘は諦めることにしたようだ。
何を言われても彼の気が変わることはない。リューシャのことも父のことも大事に想っている。だから尚更、他者を踏みにじってまで前に進もうとする父を止めねばならない。
その障害になるのであれば、規律の神であろうとも、斬る。
「いいでしょう。私も妹と同じく闘神エヴェルシードの端くれ。相手に――」
「いや、さすがにそれは無茶振りだろ」
空から声が降ってくる。耳覚えのある少年の声だ。
「辰砂!」
「やっほー。ダーフィト。やだなぁ、神と戦争を始める気なら、この僕を呼んでくれないと」
かつて神々に反逆し、数多の神を殺した伝説の持ち主たる魔術師は軽く言って笑う。
「ダーフィト!」
彼と共に、リューシャとウルリークもまた現れた。辰砂の魔術で一気に空間を駆け抜けたらしく、ウルリークが先手必勝とばかりにナージュに殴りかかる。
「舐めるな!」
二人の拳がぶつかりあった瞬間、バキッと物凄い音がした。どちらも折れそうな程の細身であるというのに、どれほどの力がこもっていたのか。
弾かれたウルリークが宙で一回転し、身軽に着地する。怪我の一つもないようだ。
そして何も気にした様子なくすっくと立ち上がると、これ見よがしに嘘くさい笑顔で言い放った。
「やぁやぁお久しぶりですねぇええ! 厳格と公正の規律神ナージュスト様! 珍しいじゃありませんか、わざわざ御大自らが地上に降りる程暇なんてね! ついに信者数ゼロにでもなったんですか?」
「というかお前いつの間に女装趣味に目覚めたんだよ。女装ならまだしも女体化は本格的過ぎだろ。この倒錯趣味め」
辰砂が追い打ちをかける。お前らどうしてそんなに息が合っているんだと思わず突っ込みたくなる素晴らしき嫌味の連撃である。
「“傾国”……緋色の大陸では私の部下をよくも」
「そっちこそよくも俺の家を木端微塵にしてくれましたね。俺だってね、ここ最近はせっかく大人しくしていたんですよ? でも暴れても大人しくしてても神様の襲撃を受けるって言うんなら、好き勝手暴れた方が楽しいですよねぇ?」
そう言えばウルリークは彼らと知り合う前から規律神と面識があるようなことを言っていた。ダーフィトもリューシャも無視して一触即発の雰囲気を展開している。
「無事か? ダーフィト」
「ああ。リューシャ、お前たちの方も……辰砂と和解できたのか?」
「とりあえず休戦協定くらいは結べたようだ。白蝋が辰砂に少し吹き込んだらしい」
その白蝋とは何を話したのか聞きたい気持ちはあるが、今はナージュのことが先だ。
リューシャがくるりと振り返り、ウルリークと辰砂と睨み合うナージュに告げる。
「規律神ナージュスト……いや、ディアヌハーデ公爵夫人よ」
夫人の辺りで辰砂とウルリークが噴き出したが気にしている余裕はない。
「ゲラーシムに告げよ。我は必ず、アレスヴァルドへ帰ると」
どれだけかかっても、どんな困難があっても、必ず祖国に帰りつく。
「破壊の子よ。お前の意見を変える気はないのですか」
「ない」
ナージュは溜息をつく。やれやれと、この上なく愚かしい者を見つめる目で弟神を睨んだ。
「決着を望むとはいい度胸だ。ならば受けて立ちましょう。お前の破壊と私の規律と秩序、どちらがこの世界にとって必要か、とくとその眼で見定めよ」
そして規律の神は腕を振り、中空に星もない虚空を開く。自らの身をそこに滑り込ませるようにして彼の姿は消えた。
「……で、結局どういうことなんだ?」
誰も彼もがこの状況をどう受け止めるべきか迷い、曖昧な空気が一同の間に流れたのだった。