Fastnacht 24

第4章 波音の向こう

24.この世界に生まれ

093

「ちょっと! はぐれてしまったじゃないですか!」
 ひとまず人の流れから離れた脇道。セルマが白蝋の襟首を掴んでがくがくと揺さぶる。
 こっそりウルリークと目配せを交わし合っていた白蝋は、目を回しながらもセルマを押しとどめようとした。
「落ち着いて落ち着いて。それでいいんだって」
「何がです?!」
「王子様と辰砂を二人きりにしてあげたいんだよ」
 セルマがぴたりと動きを止める。
「……何を企んでいるのです?」
「企むだなんて人聞きの悪い、素直になれないお師匠様への、可愛い弟子からの贈り物さ」
「人の主人を勝手に贈り物にしないでください」
「悪い悪い。でもあんたたちだって、リューシャさんとお師様の仲がぎくしゃくしているのは気になってただろ?」
「それは……」
 セルマがようやく白蝋の胸ぐらを放す。襟元を直しながら、白蝋は言う。
「あの二人には、少し落ち着いて話す時間が必要でしょ。それが嫌ならうちのお師様はすぐに魔術でとんでくるはず。今ここにいないってことは、お師様も破壊神様と話し合う気があるってこと」
 そこで彼は隣を指し示す。
「って、ウルリークさんが言ってました」
「お前の謀か!」
 セルマが今度はウルリークに詰め寄る。しかし白蝋はまだしもウルリークの悪戯には慣れきっているので、もはや溜息しか出て来ない。
「まぁ、俺もあの二人が仲直りする方がいいとは思うけど」
 ダーフィトが悩みながらも頷く。結局今朝も辰砂はリューシャを連れて行ったが無事だったのだ。因縁のある二人だが、リューシャのことは問題ないとウルリークが自信満々に言っていた。だから様子を見ることにしたのだ。
「まさか祭り中の都市で殺し合いはしないでしょう。してもあの二人の場合即時決着にはなりませんから、どうせ俺が気づきます」
 大丈夫大丈夫と気安く請け負って、ウルリークは今度はダーフィトの手を引いて歩き出す。
「せっかくだから、俺たちも楽しみましょうよ!」

 ◆◆◆◆◆

 辰砂は黙々と歩いていく。リューシャも彼に手を引かれるまま、一言も喋らなかった。
 どんどん街はずれの人気のない方に向かっていく。
 見た目は子ども二人だけ。それも見目の良い。絡まれるのも面倒だと、辰砂は祭りの喧騒を離れることにしたようだった。
 煉瓦の道を過ぎて剥き出しの地面が広がる。坂の上の少し開けた小さな公園に辿り着く。
 そこでようやく辰砂はリューシャの手を離した。
「しばらくここで休んでろ」
 宵から夜へ時間が移り変わる頃、遠い空には月がかかっている。満点の星屑が、色とりどりに輝いている。
 夜の闇の中で、辰砂の髪や肌の白さが際立っていた。
 先日肌を合わせた記憶が蘇り、妙にいたたまれなくなる。
 これまではお邪魔虫がいたから意識しようがなかった。だが今は――二人きりだ。
 自分は、やはり。
「辰砂」
 月を背に負い、辰砂が振り返る。
「我はお前が好きだ」
「知ってる、だから?」
 想いを伝えては、すげなく振られる。かつての諍いがなければ、もう少しくらいは辰砂を躊躇わせることができただろうか。
 それとも辰砂にとっては、この件における破壊神という存在の扱いは今も昔も変わらない?
 幻の波音が蘇る。
 自分にとって彼は友人で恩人で兄のような存在だった。彼にとっての自分はどうだろう? 今も昔も、手のかかる弟のような存在か。
 わからない。二人を隔てる要素はそれだけではない。
 いったん休戦状態とはいえ、かつての裏切りによるわだかまりはまだ残っている。
「何度も言わせるな。僕は、お前の気持ちには――」
 視線を落として自分の方が痛そうに拒絶を述べるはずだった辰砂に抱きつく。
「ちょっと……!」
 押し返される。押し戻されそうになる。だけど、離れない。今度は離されない。
「辰砂」
 名を呼べば、密着した体から緊張が伝わってくる。
 これで終わりにしよう。いつまでも過去の想いを引きずり続けるのは。だがそのためには、自分の中で、そして相手の中で、あのことにきっちりけりをつけておく必要がある。
「我は、あの時――」
 リューシャは口を開いた。

 ◆◆◆◆◆

「天界にも夜は来るんですよねぇ」
「何を今更」
 銀月が星を見上げてしみじみとひとりごちるのに、ラウルフィカは冷たく突っ込んだ。
 一年中花が咲き乱れる常春の陽気である天上には、四季は来ないが夜は来る。昼は太陽神フィドランの領域、夜は月女神セーファの領域だからだ。この二神の力が衰えない限り天上の一日は変わらない。
 昼と夜の一瞬の隙間となる黄昏が終わり、藍色の闇が辺りを包んだ。星々が満天で煌めく。
 シャルカントの件で二人の肉体についた傷はもうすでに癒えている。若い男二人なので回復も早い。
 けれど銀月は当分大人しくしていろと、辰砂からしばらくの謹慎を言い渡されていた。師である創造の魔術師が最近連れて行くのは紅焔ばかりだ。
「お師様も白蝋たちも酷いですよ。俺を置いて自分たちだけお祭り見物ですよ。俺を置いて!」
「ならお前も今からでも行ってこい」
「いや、今日は駄目です。というか、セーファ様に頼みごとをされちゃって」
「頼みごと?」
「正確にはこれからされるって感じですけどね。ここで待っててと」
「ああ。それでお前こんなところにいるのか」
 こんなところ、とは月女神の宮である。セーファの眷属たちが住まう場所に、現在ラウルフィカは起居している。
 ラウルフィカと銀月を破壊神の力の中から救い出したのが彼女だからだ。 銀月はもともと辰砂の“家”に世話になっていたので帰る部屋があるが、ラウルフィカはそうはいかない。
 まだセーファからの眷属にならないかという誘いに頷いてはいないが、ひとまずの寝床として月女神宮の一部を貸し出されている。
 それもすでにベラルーダでは死んだことになっているラウルフィカが、今後の身の振り方を決めるまでの間だ。
 銀月はつい先程ふらりとこの宮にやって来た。何もなくとも彼がラウルフィカの顔を見に来るのは日常と化しているので、別段不思議にも思わなかった。
 そうこうしているうちに、この宮の主にして数多の神々の主神の妻、月女神セーファが訪れる。
 彼女の背後には、ラウルフィカよりも一足早く天界を訪れ、月女神の眷属となったシェイとラウズフィールの二人が立っていた。ラウルフィカたちに向かって会釈する。
「答を聞きに来たわよ、ラウルフィカ」
 軽く挨拶を交わした後にまずセーファが切り出したのは、ラウルフィカが彼女の眷属になるかどうかという話だった。
「私は……」
 ラウルフィカは躊躇いを滲ませながらもはっきりと告げる。
「月女神よ、御慈悲には感謝します。しかし私は、人として生まれ、生きた。死を選んだその瞬間も、人であることに倦んだわけではありません。どうか許されるものならば、このまま人間として生きていきたいと思います」
 人として生きている間は決して頭を下げぬ王であったラウルフィカが、女神に向かい頭を下げる。
「そう……。でも、考え直す機会があったらそうしてね」
「?」
 セーファの言い回しは少し不思議なものだった。これまでにもラウルフィカは彼女の誘いに対し色よい態度を見せた覚えはない。神に気に入られる覚えに関しては尚更だ。こう言ってはなんだが、彼女がここまで自分を眷属に加えたがる理由がわからないのだ。
 とりあえず社交辞令として頷いておくと、セーファは次に銀月に視線を移した。
「銀月、あなたはどう?」
 ラウルフィカは隣に立つ男へと視線を移した。
「光栄なお話、お受けいたします」
「え?!」
「ザッハールさん、本気ですか?」
 驚愕の声を上げたのは自分ではない。セーファの背後に控えていたシェイとラウズフィールが呆気にとられた顔をしている。
 二人の驚きはラウルフィカの心の声でもある。ラウルフィカ自身は――驚きすぎて言葉を失っていた。
「セーファ様の眷属になれば不老不死が手に入るって言うだろう?」
「なりたいんですか? 不老不死」
 シェイとラウズフィールが困惑顔を見合わせる。
 これまでラウルフィカに刺され、ラウルフィカと共に心中しようとし、二度程命を失うはずのところで救われている銀月。なんとか拾った命とはいえ、彼が生に執着しているところは誰も見た覚えがない。
 それが今更、何故。
 ラウルフィカが眷属になると決めた後ならばまだわかる。彼と一緒にいられるためであれば銀月はどんなことでもするだろう。だがそのラウルフィカ、今さっき女神の申し出をはっきりと断ったばかりだ。
「これ以上お師様を裏切れないからさ」
「詳しく聞いてもいいかしら」
 部屋に入ってきた時から変わらない笑みを浮かべたセーファが尋ねる。
「俺は今回、ラウルフィカ陛下のために、かつて辰砂に救われた命を捨てました。恩知らずと罵られても仕方ない行動だとは思いますが、あの人は許してくれました」
 赦すのではなく、許す。本気になった辰砂に敵う人間はいない。辰砂さえその気になればいくらだって銀月の無茶を止めることができたはずだ。
 けれど、辰砂はそうしなかった。弟子の我儘を許し、銀月を行かせてくれた。
「俺があの人に返せるものは、これだけだと思うんです。……ずっと、一緒にいること。残念ながら俺は自力で不老不死に昇り詰めることはできませんが、神の眷属となれば、この天界で気の済むまで辰砂と一緒にいてやれます」
 かつて、辰砂は居場所を失った。
 それは同時に、彼と共に生きる人間をも奪うことだった。
 ディソスやアディスが死んだことだけを言うのではない。邪神の村がなくなり、他の民が復讐を諦めたことで、辰砂はまたこの世界で唯一にして最強の魔術師とならざるを得なかったのだ。
 本気になった辰砂に敵う人間はいない。神に復讐を果たすなどという絵空事を、真実にしてしまえる人間は彼以外にはいない。
 秩序神の“警告”に従わず、最後まで背徳神の傍に残ったのは辰砂だけ。ただ一人――独り。
 彼は再び、ディソスに出会うまで世界を放浪していた頃のように孤独な存在となった。
 これ以上失うもののない人間が、死も破滅も神も恐れるはずがない。
 だから。
「できることは何もないけれど、ただ傍にいます。最後まで一緒にいます」
 これまで誰一人、辰砂の手元には残らなかった。
 辰砂の弟子となった者たちは僅かな時間を共に過ごし、只人として成長したり、魔術師として大成したり。そのどちらも、いずれは辰砂から離れゆく運命。誰もが辰砂を置いていく。
 辰砂に復讐を諦め恨みを捨てるよう説得した者もいた。しかし彼らのことは辰砂自身が拒絶した。
 憎しみを捨て魂を浄化することなど辰砂は望んでいない。望んでいるのは――。
「ただ、傍にいます。俺では救うことも癒すこともできないけれど……傍にいます」
 一緒にいる。
 独りにしない。
「だから俺に不老不死をください。慈悲深き月の女神よ。あの人の無限の輪廻を支えることができるだけの、永遠をください」
 銀月の言葉に女神は頷き――、
 ラウルフィカは、ただただ呆然としていた。