Fastnacht 24

094

 祭りの明かりが遠く、喧騒が過ぎ去る。
 二人きりの公園でリューシャは辰砂を強く抱きしめる。
 突き放そうと胸を押し返す腕さえ包み込んで肩口に顔を埋め。
 辰砂の耳元で言った。
「あの時、傍にいれば良かった」
「……は?」
 辰砂は意味がわからないと言いたげに鼻を鳴らす。
 だが、口調に力がない。動揺が威勢を奪っていく。
 彼を抱きしめるリューシャの腕に込められた力は強く、言葉は続く。
 その声だけしか、もう聞こえない。
「お前と一緒に泣いてやれば良かった」
「何を……」
 身は震え、語尾は夜の闇に溶けてゆく。
 乾いた砂にようやく落とされた雫のように、リューシャの言葉を頭より早く心が呑みこんでいく。
「正しさなど関係なく、ただ――ディソスとアディスを、皆を失った悲しみをお前と共有すれば良かった。……一緒に泣けば良かった」
 リューシャはぎゅっと目を閉じる。
 ダーフィトが先日ナージュと相対した際に叫んだ台詞を思い出す。
 転移寸前でその場にはいなかったのだが、だからこそ空間を飛び出した直後に聞こえてきた。

 ――俺はあいつの家族なんだよ。正しいとか正しくないとか、そんなことだけで態度を変えられない。あいつがどんな奴でも、例え世界を滅ぼすとしても、俺があいつを守ることには、何も関係ないんだよ!

 その時、リューシャにもわかったのだ。これまで心の中でわだかまっていた想いに形を与えられた。
 かつて、海辺の背徳神の村が滅ぼされた時。
 破壊神は、辰砂と一緒に、ただ悲しんで泣けば良かったのだ。
 それが正しい行いであろうと間違いであろうと、命が失われたことには変わりない。秩序神を詰るよりも、神々の傲慢に復讐するよりもまず――ただ、感情のままに悲しめば良かったのだ。
 理性で生きる神には許されない行為。けれど感情は止められない。破壊神は悲しみを表だって外に出さなかった。口では悲しむと言いつつも、辰砂と敵対した。自分の気持ちも彼と同じだと理解させることはできなかった。最後まで。
 他にそれができる存在はいなかったのに。
 村の生き残りは皆ただの人間で、神の無慈悲に蹂躙されても抗うことすらできない。ましてや否やを唱えて復讐を果たすなど考えもつかない。
 唯一姉神の暴挙に対抗できるだけの力を持つ神でありながら、破壊神はそれを諌めることができなかった。それが神として正しい姿だと言われて従ってしまった。
 それが、辰砂を傷つけた。裏切った。
 彼を孤独にした。
 力で拮抗する相手はいない。想いを共有できる相手もいない。還る場所までも奪われた。
 人一人が絶望し、神を呪うには十分だ。
 シャルカントで、シェイがラウズフィールにかけた言葉を思い出す。
 ――僕はお前が好きだ。だから、お前が僕から離れても幸せになれるって言うならきっと後を追わなかった。でもお前がそうして一人で不幸になる道を選ぶなら地の果てまでも追いかける。
 ――お前と一緒なら不幸を選べる。運命なんかいらない。お前だけが欲しい。

 愛しているのなら、一番辛い時に傍にいてやらなければいけなかったのだ。

 想いが届かなくて当然だった。信じられるに値する行為を、破壊神は怠った。生まれたての神には己の持つ感情の機微さえ理解できなかった。
 自分だけが辰砂を救えたのに。救えるはずだったのに。
 姉神の命令に逆らうことができずとも、その行動によってディソスたちの命が失われたことを辰砂と同じように嘆けば――辰砂も思い留まれたかもしれないのに。
 もはやすべては時の彼方に過ぎ去り、その多くは語られぬ神話と成り果てた。神々の反逆した悪の魔術師、辰砂の名は“創造の魔術師”として永遠に地上に刻まれる。
 時は戻らない。過去は変えられない。失われた命は――取り戻せない。
 ディソスという人間は、すでにウルリークという淫魔として生まれ変わった。前世の記憶は存在して感情も理解できるが、それでも別人なのだと。
 そのウルリークが言っていた。
 ――幸せなまま死んだ俺たちには、村を滅ぼされてまた居場所を失い、絶望した辰砂を理解することはできないんだ。
 ――だからリューシャ、俺には辰砂を救えない。
 ――それができるのは、この世界でお前だけなんだよ。
 今度こそ。今度こそ。
 何も取り戻せなくても、失ったものが還ってこなくても。その傷を癒すことはできなくても。
 せめて、彼に、ほんの少しの安らぎを。
 ――船は無事に岸に着いた……だって。余計なことを。
 ――今更知りたくなんかないんだよ。魔の海で僕を沈めて船を動かそうとした奴らのその後なんて……。
 アドーラはもう何千年も前になるはずの出来事を、今更辰砂に伝えた。
 今聞いても彼には何もできない。過去を変えられるわけでもない。それなのに何故、今更教えるのかと。そんなことに意味はないだろうと。
 だがリューシャにはわかった。意味ならある。
 辰砂が救われる。
 ほんの少しでも気が楽になる。それには十分、意味がある。
「愛している、辰砂。愛している」
 溢れて零れるばかりの想い。その想いをどうすればいいかわからなかった。
 今なら、正しく乾いた砂に水を注ぐこともできる。それであなたを満たすことができずとも。
 そんなリューシャの想いに、辰砂は――。
「……馬鹿」
 ぽつりと呟いた。
 行き場を見つけられず留まっていた手がリューシャの背に回される。
 胸が締め付けられる。
「馬鹿だよ、お前は」
 ぽつりぽつりと滴る雫のように、リューシャの肩に言葉を落としていく。落ちた先から、ゆっくりと波紋が広がっていく。
「僕も馬鹿だ……!」
 ついに堪えきれず、辰砂は嗚咽を零した。
 雨のように注ぎ込まれる想いが乾いた胸に染み込んで潤していく。
 自分でも知らなかった。知らず傷ついていた。
 心のどこかが傷ついて癒えぬまま血を流し続けている。けれどどこが痛いのかわからない。この身を捌いても目に見えぬその場所がただただ痛むと。
 その場所に、ようやく。
「傍にいる」
 繰り返される誓いと。
「今度こそ、いつだって傍にいる」
 待ちわびていた言葉が染みていく。
 涙が溢れる。何を叫んでいいのかもわからないのに、何かを叫びたくてたまらない。
 白黒の世界が色彩を取戻し、無音の静寂が天上の音楽を再び奏で始める。総てを失ったあの日に止まっていた時間が、動き出した。
 失ったものは取り戻せない。
 けれどまだ、お互いの一番大切な存在はここに残っている。
 ただの人間ならここまで永く生きることはできない。生まれ変わっても前世の記憶に従うことなどない。
 何度も何度も死を与えられ、死すら生温い苦しみを味わい。消えることのない憎悪に身を焦がし。
 それでも生を連ねてきた理由が、今ようやくわかった。
「お前の言う“好き”とは、たぶんちょっと違うけど」
 今までよりも優しい空気と穏やかな態度。辰砂の言葉に、リューシャはこの次の言葉とその意味を正確に理解し、それが故の悲しみを感じた。悲しみながら――ずっと待ち望んだ、その言葉を受け止めた。
「僕も――お前を愛している」