Fastnacht 24

095

 中央大陸が遠く過ぎ去る。
 さすが世界で最も交通が発達した大陸。オリゾンダスを出てからは早かった。乗合馬車の停留所があちこちに存在し、大陸中どこにでも行けるようになっている。
 まっすぐ北西に向かい、青の大陸へ向かう船が出る港を目指した。
 ようやく祖国のある大陸へ帰れる。もっとも、ここからは今まで以上に厳しい旅になるが。
 祭り見物を終えた翌日、四人は予定通りオリゾンダスを出発していた。順調すぎる程に順調に陸路を過ぎ去り、すでに船の上だ。
「辰砂とは何を話したんだ」
「別に」
 甲板で海風に吹かれながらダーフィトに聞かれ、リューシャは素っ気なく答えた。乗合馬車とは違いようやく人目がなくなって寛げる。
「そうか」
 再従兄弟はくすりと笑うと、リューシャの頭を子どもにするようにくしゃくしゃと撫でる。一足先に部屋に戻るからと船内へ降りて行った。
 乱れた髪を直しながら、リューシャは薄く頬を染め唇を尖らせる。
 詳細は黙し、決定的なことは何一つ言っていないはずなのに、付き合いの長い彼らにはリューシャがこの上なく上機嫌であることがバレている。
 辰砂との抱擁をことあるごとに思い出しては、一人でにやにやしているリューシャを眺めて、更ににやにやしているのだ。
 祭りが終わり全員で集合した後、辰砂は言った。
「世界の滅びに関することは、こちらでも調べてみる」
 もともと、破壊神が人として転生するために眠りについたのは、創造の女神が封印されてしばらく後――辰砂と戦ってからだ。リューシャが破壊神として目覚めても即座にこの世界が終わる訳ではない。
 とはいえ、創造の神が欠けた世界で十全の状態である破壊神が存在し続けることが危険なのは確かだ。均衡を失った世界は、いずれ傾いた天秤のようにひっくり返る。
「猶予はまだある。お前もまだ完全に覚醒した訳じゃないしな」
 破壊神の記憶と力。リューシャが取り戻したのは、そのほんの一部だ。白蝋のお節介によって記憶の方はほぼ完全に戻っているが、それでも一部欠落がある。
 そして肝心な力の方は、いまだ制御ができない代物だ。神の力とは、すなわち“バベルの図書館”からこの世界という情報を引出し、書き換える能力。
 世界に対する認識が力の大きさに即座に結びつくため、人間として生まれ変わったリューシャがその力を使いこなすためには、一度精神から魂を通じて第八感に到達するための経路である、第七感の認識を明らかにする必要があるのだ。それは一朝一夕にできることではない。
「僕たちもそれについては手伝ってやる。だから」
 お前は、お前の人生を生きて来い。
 神としての役割を果たすのも、天上に向かうのもまずはそれからだ。旅に出た当初の予定通り、アレスヴァルドへ帰ってゲラーシムの罪を暴く。それを終わらせてからだと。
 リューシャとしての人生に決着をつけなければ、破壊の神としての今生は始まらない。
 アレスヴァルドの呪われた王子ではないリューシャになって、もう一度全てを始めるのだ。
 そのための協力を辰砂が約束してくれた。思い出すとそのたびに笑みが零れそうになり、慌てて表情を引き締める。その様子が周囲から見れば「にやにやしている」ということになるのだが。
 これだけ浮かれていると勘違いされそうなのだが、リューシャは辰砂に完全に受け入れられたわけではない。
 出会った頃の友人関係は取り戻したのだが、それ以上の想いはまだ辰砂には重荷だと拒絶された。
 好きだの愛してるだの言っても、やはり辰砂にとって破壊神は可愛い弟程度にしか思えないようだ。肉体関係を結ぶどころか、ままごとのような恋愛関係でさえ無理、というのが本音らしい。
 ――ちなみに、過日の例のアレに関しては二人ともあえて考えないようにしている。
 それでも仲直りできたどころか、自分の捧げたものと意味合いは多少異なれど「愛している」とまで言ってもらえたのだ。
 有頂天になりそうな気分をリューシャは度々引き締める。
 これから向かうのは青の大陸。祖国アレスヴァルドの存在する十時の大陸。
 アレスヴァルドの名すら知らない人間の方が多い緋や黄の大陸と違い、全土にゲラーシムによる指名手配がなされていると思っていい。権力者や公的機関に近づくことは避けなければならないし、アレスヴァルドに近づくほど、変装や偽名も考えなければならないだろう。
 ただ、この船が港に着くまでは、その短い間だけは素直にこの結果を喜ぼうと、リューシャは頭の中で何度も辰砂とのやりとりを反芻する。
 船は青の大陸に向けてまっすぐ進んでいた。

 ◆◆◆◆◆

 船室ではウルリークとセルマが二人きりでいた。安い船の中で音を出すのは騒動の下だからと、放り出されている竪琴をセルマが手に取る。
 元はウルリークの物のはずだが、最近はセルマが弾いてばかりいるので持ち主でさえこれが自分の物だと忘れている竪琴。
 中央大陸で宿を取っている間は、気が向けば爪弾いていた。何も考えずに弦に指をかければいつも奏でる曲は決まっている。
 肉体よりも魂に馴染んだその旋律。
 寝台に転がって眠っているかのようだったウルリークがぱちりと目を開ける。そしてセルマに呼びかけた。

「――“姉さん”」

 セルマは応えない。
 だが、話は聞いている。目が、笑っている。
「言わないんですか? リューシャさんにも……辰砂にも」
「“アディス”は死んだんだ。ウルリーク」
 今生の半分を暗殺者として生き、その後出会ったリューシャによって騎士とされたセルマは告げる。
「もうアディスの年齢もとっくに超えてしまった。彼女の知らなかった私の人生が始まっている。私はアディスとは別人だよ」
「……そうですね」
 ウルリークも思ったことだ。ようやく記憶を取り戻したとはいえ、今の自分は前世の人格そのものとは言えない。何度死んでも自分の人格を取り戻すよう画策している辰砂やそもそもが精神の円熟のために人間として転生することを決めた破壊神とは違うのだ。
 この旅路がなければ、きっと一生思い出すことはなかったに違いない。そして本来なら、それで構わないのだ。人とはそういうものだ。
 前世の記憶を全て否定するわけではない。少なくとも彼らの知る限り、前世からの縁によって引き会わされ、めでたく両想いとなったシェイとラウズフィールは幸せそうだ。
 彼らと自分たちの事情は違う。
「結局、誰かを救うのは、同じ時代に生きているその人でなければいけないんですよね」
 前世の記憶によって今生で苦しんだラウズフィールだからこそ、前世からの縁によってシェイと出会うこともできた。シェイが惹かれたのは、あくまでも前世の彼ではなく、その記憶を持ちながら苦しんだ今のラウズフィールだ。
 前世からの謀として蘇ったリューシャは、ずっと前世の夢を見続けていた。その中の辰砂に再び“リューシャ”が恋をしたからこそ、辰砂と和解することもできた。
 彼らと自分たちの想いは違う。
「俺たちにとって、前世はあくまでも前世。ただの記憶。限りなく感情移入することはできても、前世の自分は今の自分ではない。今にも未来にも手出しすることのできない、終わった時間」
 人は確かに過去から何かを得て、人生を積み重ねていく。
 けれど過去が完結して存在することで現在や未来に影響を及ぼすことはできても、過去そのものに現在が手出しをすることは難しい。
「私たちが前世の記憶によって過去に関わった数々の出来事と縁を結び直すなら、それはやはり――“前世の記憶を持った今の自分”として関わるしかない。誰も過去には戻れないのだから」
「しかし俺たちには、今生でそうするまでの理由がない。リューシャさんのように夢の中の辰砂に惚れたわけじゃありませからね」
 今生でセルマとリューシャが出会ったのは偶然だろう。そしてセルマがリューシャを自分の主君と定めたことには、彼の前世は関係ない。
 絆は途切れ、また新たに結び直される。
 過去は、あくまでも過去なのだ。触れることなく過ぎ去ればただそこに存在するだけ。
「だから知る必要はないだろう」
「……そうですね。すでに似たようなこと、俺もリューシャさんに言いましたし」
 終わったことだ。途切れた絆だ。
 変えられない過去だ。
「だから私は、今はただセルマとしてリューシャ殿下にお仕えするのみ」

 竪琴と舞で共演することも二度とない。

「……ええ」
 シャルカントでの演舞が最初で最後の共演だ。それでいい。
 それこそが彼らの人生なのだ。