Fastnacht 25

098

 ――その日の朝までは、平和だったのだ。
「おはよう、ルゥ」
「おはよう、ラーラ」
 神殿の食堂で顔を合わせた二人は、軽い挨拶の後に食べ始めながらいつも通り仲良く会話する。
 ルゥと呼ばれた少年は、波打つくすんだ金髪の持ち主だ。これまでずっと伸ばしていた長い髪を去年のとある一件で豪快に切り落としてしまったが、今は大分伸びて肩を越すくらいになっている。
 大きくつぶらな榛の瞳には生気が溢れ、快活な印象そのままの少年だ。白を基調に金と緑で飾った簡素な神官服を着て、食堂を使う皆と同じ使用人用の食事を食べている。
 しかしこの少年こそが、実はこの神殿内で最高位の聖職者。
 それどころか大地神ディオーを崇める国タルティアンで最も神聖とされる存在、大地の神の声を聞きその意志を人々に伝える“豊穣の巫覡”だ。
 ルゥは今年十四歳。最近すらりと手足が伸びてきたがまだまだ成長途中で、愛らしい顔立ちは少年というよりも少女に見える。実際、彼が国の祭祀を司る巫覡として民衆の前に姿を現してから何年かは、その容姿から少女だとばかり思われていた。
 豊穣の巫覡という存在は、国中の神和としての適性を持つ人間の中から最も強い力を持つ人間が選ばれる。選ぶのは先代の巫覡であり、資格は大地神を信仰する者であることただ一点。身分も性別も年齢も何も関係ない。
 下町育ちの孤児であるルゥもそうして数年前に、先代の巫覡に見出されて神殿へとやってきた。それからまた何年か修行した後に、改めて先代の後を継いだのである。
 農業によって大国としての地位を確立し繁栄しているタルティアンだけに、豊穣の巫覡の権威も絶大だ。国政に直接口を出すことはないものの、巫覡の言葉は国王ですら蔑ろにすることは許されない。巫覡を蔑ろにすれば、その時は必ず大地神の報いがあるという。
 とはいえ当代の巫覡であるルゥ本人は、自らの信仰通りに大地神への祈りを捧げその声を聞くこと以外に国のやり方に口を挟む気はない。
 彼がこの時代に彼として生まれた、とある使命に関わることを除いては。
「ふわぁ」
「眠そうだな、ラーラ」
 目の前で生あくびを噛み殺したラーラに、ルゥは再び声をかける。
 神殿の朝は早い。
 日が昇る前から皆起き出して、朝の祈りを神に捧げる。それから神殿中のあちこちを清掃したり神殿内の敷地で育てている植物の世話をして、それらの仕事を済ませてからようやく朝食だ。
 ただしそれらの仕事はあくまでも神殿所属の神官たちのものであり、ラーラと呼ばれた少女の仕事は違う。
 彼女は豊穣の巫覡を護衛する神殿騎士。つまり、ルゥの護衛だ。彼が神殿以外に赴く場合は従者役を兼ねることもある。
 豊穣の巫覡の護衛はラーラのように神殿所属の神殿騎士と、王宮所属の聖騎士から成る。
 ラーラはこの神殿で生まれ育ち、ルゥが次代の巫覡として連れて来られてきた時からその護衛役として抜擢された。見知らぬ環境に突然放り込まれることになる巫覡の騎士であり従者であり、友人にもなるために。
 実際、ルゥにとってラーラより親しい友人はいない。男女の性別の差も超えて、二人は親友という関係になった。
 もっとも、ルゥは昨年まで少女だと思われていたので、周囲からは同性の友人同士だと勘違いされていたわけだが。
 国で最高位の聖職者の護衛の一人に選ばれるだけあって、ラーラの実力は確かだ。今年十四歳であるルゥより一つ年上の十五歳。年頃の少女にも関わらず、大の男を剣一本で薙ぎ倒す。
 肩口に届かぬくらい短い黒髪に、褐色の肌。そして野生の豹のような金色の瞳を持つ、男より男前な少女騎士だ。
 そのラーラがこれ程油断した表情を見せるのも、親友であるルゥの前だけだ。
「昨日は夜勤だったからな。これ食べてから寝るんだよ」
「そう言えばそうだった。ごめん、忘れてた」
 昨日は一日、夜になるまで彼女の顔を見なかったことを思い出してルゥは納得する。一晩徹夜して今から寝るなら眠そうで当たり前だ。ルゥが昨夜眠っている間の護衛が彼女だったのだろう。
「どうせ次の聖地祭でのハルディード伯とのデートのことでも考えて一日中上の空だったんだろう?」
 ハルディード伯と言うのは、王宮所属の聖騎士の一人、ティーグ=ハルディードのことだ。
 彼はルゥの秘密の恋人でもある。
 誠実で高潔な人柄から貴婦人たちの熱い視線を一身に浴びる若き騎士。
 だが、彼は当初、ルゥのことを少女だと勘違いしていた。
 豊穣の巫覡は男女問わず誰でも選ばれる可能性がある。巫は女性、覡は男性の神和を指す。
 ティーグは中性的な神子服だけを見て、ルゥを少女だと判断していた。それ自体は彼に限らず多くの国民が同じような間違いをしていたわけだが、ティーグに関してはその後が問題だ。
 彼はルゥを少女と呼びかけながら愛を告白したのだ。ルゥ自身も以前から憎からず想っていたティーグからその告白を受け、性別に関する誤解をそのままに、お付き合いを了承してしまった。
 それらすったもんだの騒動の末に、二人は全ての隠し事を明かし、めでたく両想いとなったのである。これが、ちょうど今から一年程前のこと。
 ラーラはルゥの友人として、ここ一年友人である彼がティーグとの他愛ないやりとりに一喜一憂するのをつぶさに見てきたのである。
「え、あ、あわわ! そんなわけじゃ!」
 ルゥは頬を赤く染めて動揺を露わにする。わかりやすいその様子に、ラーラは溜息をついた。
「はぁ。いいなぁルゥは。好きな人と両想いで。あたしも一度でいいからあの人と街中を一緒に歩くとかしてみたかったよ」
「……って、まさかラーラ、好きな人がいるのか?!」
 寝耳に水の話に、ルゥは思わず大声を上げた。食堂中の視線が二人の方へ向く。
「ちょ、馬鹿! 声がデカイっつの! って言うかなんだよお前らも! あたしに好きな人がいたらそんなにおかしいか?!」
 ぎろりとラーラに一睨みされて、食堂に集まっている神官見習いや騎士、侍従たちは慌てて目を逸らす。しかし好奇心は押さえられぬらしく、皆こっそりと聞き耳を立てている。
「まったく」
「それってどんな人? どこの騎士?」
 ルゥとラーラの付き合いももう四年近くになる。自分でさえ知らないラーラの想い人の話に、ルゥは俄然興味を持った。
「なんで騎士なんだよ」
「え? 違うの? だってラーラって『あたしより強い男じゃなきゃ嫌!』とか言いそうじゃん」
 どこの筋肉だるまが相手かと瞬時に妄想が脳裏を駆け巡ったルゥを、ラーラが呆れた目で見遣る。
「何その勝手な予想……そんなんじゃないよ」
「じゃあどんな人? 俺でさえ知らない相手なんて」
「正確に言うなら、相手のことは知ってるよ。あたし、あの時ほどルゥの護衛でシャニィ様と面識があって良かったと思ったことないもん」
「ってことは、シャニィを介して知り合った人?」
 またもや意外過ぎる言葉にルゥは目を瞠る。この国の第一王子であるシャニィディルを介して知り合ったということは、相手は恐らく貴族だ。ラーラの口ぶりもそのようなものであるし、他には考えにくい。
 しかしそんな国内貴族の中で、果たしてラーラが関心を見せた相手などいただろうか。
 ラーラはルゥの護衛という性質上、ルゥがシャニィディルや他の王族を通じて誰かと会う時には常に傍にいた。しかし彼女はいつも気取った貴族青年たちをつまらなそうに眺めるばかりで、誰かに恋している様子など見たこともないのだが……。
「ねぇ、誰なんだよ? ラーラの好きな人って」
「教えない」
「ケチー、ちょっとくらいいいじゃんかよー」
「ちょっとも何もこれに関しては言ったら全部おしまいじゃないか。それに、ルゥも会ったことがある人だよ」
「ああ。やっぱり?」
 四六時中一緒にいる以上、ルゥの目を盗んでラーラが怪しい行動をとるのは難しい。その逆もまたしかり。だからルゥの方は、ティーグに恋をした時に相手が同性だとかかなり年上だとか関わらず全てラーラに話してしまっていた。
 しかし肝心のラーラの好きな相手に関しては、さっぱり思い当たらない。シャニィのような王族と面識があるからこそ出会える相手? 一体誰だろう。
「まぁ、言いたくないなら別にいいけど、それならシャニィに紹介してもらえばいいんじゃないの?」
 ルゥが言うと、ラーラはこれまた深く溜息をついた。
「お子ちゃまめ。そう簡単には行かないの……あんたたちと違ってね」
 後半は声を潜めて告げる。ラーラの恋愛話はまだしも、ルゥは巫覡だ。神性を損なうような話は公にはできない。
 どこの国でもそうだが、男色は決して歓迎されない。特に西側の地では聖職者人口が多く、神に生涯仕えるために純潔を守る人間も多い。
 豊穣の巫覡も同じだ。王族と結婚したり抜け道があるにはあるが、一般的に神和は純潔を失えば力が落ちると言われている。
 大地神は豊穣と繁栄の神。産めよ増やせよの神だけあって恋愛に対してそこまで厳格な決まりを定めてはいない。しかしそれ故に同性愛は非生産的とされ忌避される要因ともなっている。
 ティーグとルゥのすれ違いにもその辺りの事情が絡んでいたが、今は二人とも想いが通じ合って幸せそうにしている。
「そんなに会うのが難しい相手なの?」
「秘密」
 話しながらも食事は進み、そろそろ空になった器を下げようかという頃だった。
 神殿の外の気配が騒がしくなる。食堂入口に騎士の一人が駆け込んできた。
「ルゥ様! ラーラ殿!」
「ティーグ様?」
 やって来たのはつい先程ルゥたちが話題にしていた人物であるティーグ。ルゥの恋人だ。
 生真面目な彼にしては珍しく、いつも隙なく着こなしている聖騎士の衣装が若干崩れている。まるでどこかで一戦交えてきたかのように。
「お逃げ下さい! 王宮で謀反が起きました!」
「!」
 タルティアン動乱の始まりだった。