Fastnacht 25

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 顔を隠すローブのフードを被り、ルゥはラーラとティーグに伴われて神殿の外へと出る。
「こっちだ」
 元よりルゥの容姿は巫覡の衣装を脱いでしまえば、まるきりその辺の子どもと変わらない。下町に溶け込むのは訳なかった。むしろティーグやラーラの方が目立つかもしれない。しかし護衛が剣を手放すわけにもいかない。
 後にしてきた神殿の方角から争乱の声などは聞こえない。抵抗はせず、どうか皆無事でいてほしいとルゥは願う。
「こちらです」
 ティーグに手を引かれ、段差を乗り越える。
 ルゥを間に挟むようにして前をティーグ、後ろをラーラが歩く。
「ティーグ様……一体、何があったのです? 王城に襲撃を仕掛けたのは、本当にクラカディル王子なのですか?」
 ルゥは前を行くティーグに尋ねた。
「ええ。私もまだ伝え聞いただけにすぎませんが、確かにクラカディル殿下だったと」
 兵士を引きつれて王城を占拠し、国王を弑逆した謀反の首謀者。それはこの国の第二王子クラカディル。
 けれど彼は一年前の事件から、隣町の塔に幽閉されているのではなかったか。
 クラカディルが凶行に及ぶ動機や理由は明らかだ。しかし、罪を犯して幽閉されていたはずの彼を、一体誰が手助けしたのか。
「……ここ最近、国内でシャニィディル殿下の立場が一層不安定になったのを御存知でしたか?」
「え?」
 ルゥの声と、ラーラが息を漏らす音が重なった。世俗から離れて暮らす神殿は、王宮に最も近く最も遠い場所だ。
 特にルゥは大神殿の中で誰よりも奥深く守られている存在。彼に情報を隠すことなど簡単である。不安にさせないために周囲が伝えなかったことも十分考えられた。
「シャニィが……」
『心配はないよ』
 聖色を持たぬ銀髪の友人。大地神の加護なき“無恵”の王子。シャニィディルの言葉と表情を思い返しながら、ルゥは唇を噛む。彼の言葉を鵜呑みにし、自分は何も案じていなかった。
「でも、どうして今更? シャニィ様がこの国の第一王位継承者であったのはずっとですし、クラカディル殿下は昨年の事件で失敗したばかりじゃないですか」
 ルゥやラーラのように神殿で世俗と切り離されて生活している者と違い、王宮所属聖騎士であるティーグは多くの情報を持っている。
 ラーラの当然の疑問に、彼は苦い口振りで答えた。
「シャニィディル殿下ももう年頃です。そろそろ国王陛下も後継者のことを真剣に考えなければいけない時期が来ていましたし……それに」
「それに?」
「数か月前に、アレスヴァルドで凶事があったでしょう」
 古王国アレスヴァルド。
 それは青の大陸一の国土を持つ大国であり、世界有数の歴史を持つ神聖国家。国民は誰しも与えられた神託に従って生きるという、独特な伝統を持つ国だ。
 タルティアンの隣国でもあるその国で、数か月前に国を揺るがす事件が起こった。
 世継ぎにして唯一の王子であるリューシャ=アレスヴァルドが、その父王を殺害して逃亡したというのだ。
 現在の国政はエレアザル王の従兄弟であったディアヌハーデ公爵ゲラーシムが即位して担っている。リューシャ王子は死んだという噂も流れているが、公式発表では逃亡中で行方不明となっている。
 そしてそのことが、アレスヴァルドに近接するタルティアンの内政をも静かに揺るがしていったという。
「シャニィディル殿下の境遇は、リューシャ王子と似ています。リューシャ王子が自国に仇を成したように、シャニィディル殿下もいずれタルティアンに凶兆をもたらすのではないかと――」
「そんな!」
 ルゥとラーラは非難の声を上げる。この話をしているティーグにではない。その話の向こうに見える、シャニィディルを敵視する勢力にだ。
「まだシャニィが何をしたわけでもないのに、そんなことで」
「それに、リューシャ王子がそんなことするわけないだろ!」
「ラーラ」
 ラーラが口にしたのは、意外にもこの国のではなく、隣国の王子の擁護だった。確かにリューシャ王子が父王を殺害したという事件には、誰かに嵌められたのだという見解もある。リューシャ王子にとって最大の庇護者である父王を殺すはずがない、と。
「あ、いや……だから、そんなことを理由に争いを起こすなんておかしいってば!」
「ええ。そうです。どのような理由があろうとも、王殺しは王殺し。クラカディル王子は王位を欲するあまりに罪を犯した。シャニィディル殿下が聖色を持たぬからというのは、都合のいい口実にしかなりません」
 アレスヴァルドのリューシャ王子は、その神託によって国に不幸を成すと予言されていたらしい。タルティアンでは彼の正確な神託内容などわからないが、そのためにアレスヴァルド国中の権力者たちが頭を悩ませ、結果的にリューシャ王子がいざ事を起こそうとしても何もできないよう、無能に育てたという話は有名だ。
 シャニィディルの場合は生まれつき聖色を持ってはいなかったが、それがこの国に対してどう作用するのかまでは誰もわからない。リューシャ王子のようにはっきりと国に害を成すと判明しているわけではないのだ。
 しかし、ルゥもラーラも、続くティーグの言葉には顔を歪めた。
「……皆、不安なのです」
 神の勢力地。それは世界を二つに分けたうち西側と呼ばれる地域。
 青の大陸は、世界で最も神に近い土地。教会の総本山があり、人々の信仰心も強い。
 この国にしても、建国から今日までずっと大地神ディオーを崇めることで豊穣の大国として栄えてきたのだ。神の加護を失うこと、神の怒りを買うことを民が恐れるのも無理はない。
 世界はすでに知っているのだ。人は無条件で神に愛される訳ではないことを。
 昔々、辰砂という愚かな魔術師が神々に逆らった日から人と神の間は遠く離れてしまったのだと。
「ごめんなさい。俺の力不足で」
 タルティアンにて大地神の加護を求め祈りを届ける役目を持つ豊穣の巫覡。人々がディオーの加護を信じられないのは、それを約束する自分に力がないからだと、ルゥは己を責める。
「いえ! そういう意味では……ルゥ様のことは皆が信じておりますとも!」
 慌ててティーグが否定するも、ルゥの自責の念は消えない。自分にもっと力があれば。
「でもシャニィは――」
 まだ言っていないことがある。民に言えないことがある。けれどルゥは知っている。ルゥだけが。大地神の声を聞く豊穣の巫覡。
「運命の時が満ちるまで、俺は役目を果たさねばならない」
(ディオー神よ、俺は、いつまでこのことを黙し続ければ……)
「止まって!」
 ティーグの腕がルゥの体を抱き留める。周囲から足音が聞こえてきた。
「追手!」
 人数が違いすぎる。いくらその眼を欺く小細工をしたところで、クラカディルは総力を挙げてルゥを探している。
 見慣れ過ぎた王宮の兵士たちの集団が、ルゥたちを追ってくる。道の前後を挟まれて、逃げ場がない。
「ルゥ様……お逃げ下さい」
「ティーグ様?!」
 一人残って囮になる気のティーグに、ルゥは首を振った。
「嫌です! 俺だけが逃げるなんて! ティーグ様もラーラも、一緒に……」
「ルゥ、無理だ」
 ラーラも剣を抜く。逃げ道を完全に塞がれては、戦って斬り開くしかない。
 ルゥに戦う力はない。善良な下町の少年にそんなものあるはずなく、豊穣の巫覡にそんなもの必要ないからだ。
 いつもルゥの周りには皆がいて、彼を守っていてくれた。タルティアンは平和な国だ。そもそも大きな事件などそうそう起きはしない。
 だから。
(何もできない。俺は)
 ティーグとラーラは見事な剣さばきで敵を退けていく。だが、数が多い。狭い路地にも関わらず一対一では敵わないと見て取った襲撃者たちは、ティーグやラーラの背後をとるように連携し始めた。
 そして数が多いということは、二人だけでは手が足りなくなるということ。
「んぐっ!」
「さぁ、我らと共に来てください。神子様」
 いつの間にかティーグとラーラを躱しルゥの背後に回り込んだ男が、ルゥを羽交い絞めにする。
「ルゥ様!」
 ティーグが手を伸ばす。襲撃者からルゥを奪い返そうと、体勢を崩す。
 それが一瞬の隙となった。
「ティーグ様――!!」
 刃がその胸に刺さる。僅かに心臓を逸れたものの、その剣はティーグの胸を深く斬り裂いた。
「やめて! もうやめて!」
 ルゥは自分を抑え込む兵士たちに哀願する。
「行くから! あなたたちと一緒に行くから! だから二人は見逃して! お願い!」
「ルゥ!」
 ラーラが咎めるように悲痛な声を上げる。だがルゥは止めなかった。これ以上の攻撃は許さないと、腕を広げて兵士たちの前に立つ。
「これ以上彼らを傷つけるようなら、俺はここで自害します!」
 大きな榛の目に涙を浮かべて言い放ったルゥの様子に、襲撃者たちも戸惑ったようだった。
「……わかりました。ハルディード伯はどうせ致命傷だ。これ以上の追撃はいたしません」
 一人の男がルゥの手をとる。一度だけティーグとその傍らに駆け寄ったラーラを振り返り、ルゥは彼らと共に歩き出す。
「ルゥ!」
 ラーラの悲痛な呼び声だけが、いつまでも虚しく響いた。