Fastnacht 26

第5章 祈りの行方

26.聖なる者

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 自ら投降したルゥは、兵士たちに連れられてある塔へやってきた。
 街中の目立つ道は避け、人目を憚る罪人のように馬車で護送される。血と鉄の匂いをさせた兵士たちとの重苦しい沈黙の時間のせいで、気分が悪い。
 場所を気取られないようにか、馬車を出る際には目隠しをされた。ようやく景色を見ることができたのは、その塔のすぐ前だった。
 静まり返った区画だ。日中だと言うのに人気がまるでない。石畳に大きな針のような影が落ちている。
「塔……?」
 てっきり王宮や神殿、あるいはそれらどこでもない牢獄にでも連れて行かれるのだと考えていたので、この景色は意外だった。
 四階建ての建物と同じくらいの高さが聳え立っている。
 ここは街のどの辺りだろう?
「こちらでお待ちです」
 ルゥの手を引く男の一人が言う。
 こんな場面でも彼らは、ルゥを“豊穣の巫覡”として扱う。誰よりも敬うわけではないが、最低限の敬意は崩さない。それが複雑だった。
 豊穣の巫覡は、タルティアンに生きる民にとって信仰の要。
 彼らもタルティアンの民。王家に反旗を翻し、シャニィディルを排斥しようとも、タルティアンのことを考えているのは変わりない。
 ならばこの事態をどうにかするためには、彼らを背後で操る人物に会うしかない。
 ルゥは兵士に手を引かれ、重い足を動かして軋んだ音を立てる扉の前に立つ。
 何度も胸中で決意を固めるものの、嫌な予感と、ティーグの血塗れの姿が脳裏を過ぎっては離れてくれない。
 汗ばんだ手のひらで冷たい指先をきつく握りこむ。どくどくと心臓が嫌な音を立てて騒いでいる。
(ティーグ様、ラーラ、どうか無事で……)
 人形のように黙々と動かしていた足が、ついに塔の中へ踏み込んだ。
 縦に長い塔だ。一階ごとの面積はそう広くはない。扉を開けると短い廊下があり、その片側に上階へ向かう階段が続いていた。
 真正面の部屋が一番広いようだ。貴族の居住する屋敷のように飾り立てられた一室。
 まだ火を入れるには気の早すぎる暖炉の前に、豪奢な椅子が置かれていた。そこに一人の少年が座っている。
「ようこそ、愛しい我が花嫁よ――」
「クラカディル、王子」
 ルゥの表情が、泣きだす一瞬前のように歪んだ。

 ◆◆◆◆◆

 兵士たちは退出し、部屋には鍵をかけてきつく扉を閉じる。二人きりとなった室内で、ルゥはクラカディルと向かい合った。
「久しぶりですね。豊穣の巫覡、ルゥ様」
「殿下……やはり、あなたが今回も……」
 シャニィディルは第一王子、彼を追い落としたい立場の者と言えば、この国の王位継承権を持つ全ての王子や貴族が当てはまるだろう。
 だが、その中でも特にシャニィディルを憎んでいる者と言うならば、第二王子クラカディルしかいない。
「ええ。私の差し金ですよ。ここは私が幽閉されていた塔ではありませんが、支援者たちとはずっと手紙でやりとりを交わしていました」
 昨年の失敗があったとはいえ、クラカディルとその支援者たちは簒奪を諦めてはいなかったらしい。彼らはクラカディルが罪人として幽閉された後も、虎視眈々と復権を目論んでいた。
「相変わらずこの国には、ディオーの加護なきシャニィディルを危険視する者が多いので」
「それは、あなたがそう言う風に皆を誘導するからでしょう!」
 ルゥはクラカディルを睨み付ける。彼は昨年の事件を起こす前から、何かとシャニィディルに突っかかっていた。聖色を持たぬ王子が国を継ぐことの不安を訴え、周囲を煽り兄の持つ王位継承権を狙った。
 ルゥは豊穣の巫覡が男であると知られる前は、神子服ではなく市井の少年の格好でシャニィディルの傍にいた。シャニィディル自身が厨房や使用人用の空間に気さくに出入りする王子だったので、その格好のルゥと話していても誰も疑問に思うようなことはなかった。
 クラカディルもその頃は男の格好をしたルゥが巫覡であることに気づかず、シャニィディルと険のあるやりとりを繰り広げていた。ルゥとしても二人の不仲はよく知っている。
「私が? いいえ。火種は元々皆の中に燻っている。私はただ、それをほんの少し煽っただけ。皆、不安なのですよ。神の加護なき王子を次の王にして、アレスヴァルドのように凶事が起きるのではないかと」
 ルゥは唇を噛む。
 シャニィディルが民に信じられていないのは、ルゥの力不足だ。ルゥにもっと力があれば、彼を、皆をこんな目には遭わせずに済んだ。
 いっそもう、全てを明かしてしまうか?
 神は終わりを待てと言った。けれどルゥは――人は、続く世界を望むものだ。
「ルゥ様。あなたも早くあんな男は見限りなさい。あなたは歴代でも屈指の力を持つ豊穣の巫覡。あなたの後ろ盾がなくなればシャニィディルなどもはや敵ではない。そしてあなたも、今まで通りの生活ができる」
「お断りします! 人を罠に嵌めるような人間は信用できませんから!」
 昨年の事件の際、ルゥもクラカディルに襲われている。聖地祭にてクラカディルの手の者に拉致され、もう少しで豊穣の巫覡としての資格を失うところだった。クラカディルはその責任をシャニィディルに負わせ、巫覡の資格を失ったルゥを自分の妃とする気だったらしい。
 クラカディルはルゥを少女だと信じていた者の一人だ。豊穣の巫覡が代替わりする際に王族と婚姻を結ぶのは、ありえないことではない。ましてや聖色を持たぬ王子であるシャニィディルが宗教的な権威を得るために、巫覡を妃として迎えることは妥当な判断だと思えた。
 ルゥが見た目通りの少女であったならの話だ。もちろん男である彼が王子と結婚できる訳はない。
 クラカディルの先の発言も、そのような皮肉だとルゥは捉えていた。
 豊穣の巫覡を娶れば、神殿勢力を取り込んだも同然。昨年の事件の際、クラカディルはルゥを妃にするつもりだったらしい。
 その計画に失敗して、第二王子は地位を失い、塔へと幽閉された。クラカディルの野望を打ち砕いたのは、二重の意味でルゥだ。豊穣の巫覡は聖色を持たぬ王子シャニィディルの、最後の砦なのだ。
 彼がどれだけ自分を恨んでいるのかわからない。ルゥはそう考える。この一年辛酸を舐めさせた報復として嬲るつもりで連れて来られたのだと。
 巫覡の代替わりを果たすまではすぐに殺されることはないかもしれないが、それまでに何をされるかはわからない。
 いくらクラカディル派が豊穣の巫覡という存在を介し神殿勢力を取り込みたくとも、ルゥが男である以上婚姻という手段は使えない。ルゥ自身が彼らへの協力を約束しない限り、彼らとしてはいずれルゥを殺すしかないのだ。それしか考えられない。
 クラカディルがじっとルゥを見つめる。
「相変わらずお美しい」
「え……」
 その口から飛び出した意外な言葉に、思わず声を失った。
 ろくに変装をする時間もなかったせいで、ルゥは簡素な神子服にくすんだ色のローブを羽織っただけの格好だ。印象だけならほとんどいつもの下町の小僧の格好と変わらない。
 男と知れ渡ってからは周囲も段々良い意味で扱いが雑になってきて、以前のように腫物に触るような過剰な丁重さではなくなった。もうこの姿のルゥに、皆が大分慣れてきた。
 しかしクラカディルが生身のルゥの姿を見るのは、約一年ぶりだ。
「麦の穂色の髪、榛の瞳。何度も夢に見ましたよ。その身をこの腕に抱くことを」
「クラカディル殿下……?」
 クラカディルは椅子から立ち上がり、ルゥの方へと足を踏み出す。ルゥは思わず後退りした。背後の扉に、背がぶつかる。
 二年ほど少女だと勘違いされていた豊穣の巫覡は、しかしれっきとした少年だ。それは今ではクラカディルもわかっているはず。なのに何故だろう。背筋を走る、この悪寒は。
 沼底のような緑色の瞳が、危険な熱を帯びているように見える。
 ふいに、背後に人の気配を感じた。扉の向こうから誰かがやってくる。
「殿下」
 扉が開くのに押されて身を逸らしたルゥは、いつの間にかそこまで接近していたクラカディルの腕の中に抱き留められる。
「放し……」
「放しませんよ。やっとあなたを手に入れたのですから」
 二人は同じ歳だが体格が違う。自分より背が高く腕力のあるクラカディルの拘束を、ルゥは振りほどけない。
 シャニィディルもそうだが、王子たるもの自らの身を守れるよう最低限の剣の手解きを受けている。クラカディルは確か、かなりの使い手だったはずだ。巫覡という地位がなければ一般市民となんら変わらぬ暮らしをしているルゥとは鍛え方が違う。
 クラカディルはそのまま、扉の外の兵士に声をかけて入室を許可した。抱き合う少年たちの姿に目を瞠る兵士に報告を促す。
「なんだ」
 入ってきたのは、クラカディルの部下の兵士だった。血の付いた鎧を身につけるその顔に見覚えがあることに気づき、ルゥは総毛だった。
「聖騎士ティーグ=ハルディード伯爵の死亡が確認されました」
 後の言葉は耳に入らない。力の抜けた膝から崩れ落ちる。
 愛しい恋人の死を聞かされた時点で、ルゥは意識を失った。