Fastnacht 26

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 少女は血塗れの男の体を背負う。ふらつきながら、なんとか立ち上がる。
 そう、自分は所詮非力な女でしかないのだと、ラーラは今、かつてない程に実感していた。
 鍛えあげられた筋肉を持つ成人男性、ティーグの体を担ぐのは、成長途中の華奢な少女であるラーラには難しかった。壁に手を突き足を引きずるようにしても、一歩進むだけで倒れ込みそうだ。
 無力さに歯噛みする。戦いなら男にも負けない神殿騎士ラーラ。彼女はこれまで懸命に自身を鍛えてきた。自分の力が男に劣るなどと思ったことはないし、性別の違いを弱さの理由として挙げたくはなかった。
 それでも、駄目なのだ。こんな時でもなければ気づくこともなかった。
 自分は無力だ。重傷を負ったティーグをすぐに治療できる場所に運んでやることすらできない。
 戦い殺す技術なら男にも引けを取らない。だが、絶対に喪えない命を、繋ぎとめることすらできない。そんな力なんて。
「ぐっ……!」
 こうしている間にも、ティーグの体からは血が流れ出していく。
「死ぬな」
 自身の浅い傷口も負荷に耐えかねて開く痛みを感じながら、ラーラは喘ぐように悲痛に言った。
「死ぬな……!」
 ティーグの長い足は引きずられた地面に痕を残す。こんなことに何の意味があるのかと思いながらも、ラーラはその手を放すことができなかった。
「あんたが死んだら……ルゥが悲しむ……! 言っただろ。あいつを泣かせたら、許さないって……!」
 今彼女の命があるのは、ルゥのおかげだ。
 彼は重傷を負ったティーグとラーラを守るために、自ら投降してクラカディルの兵に連れて行かれてしまった。
 本来自分が守るべき豊穣の巫覡に、逆に守られてしまった。なんて情けない。
 だからこそ、絶対に、ティーグを死なせるわけには行かない。
「死ぬな……!」
 その時、道の前後で複数の人の気配を感じた。
 先程の兵はルゥのおかげで退いたが、それ以外に追手が放たれていないとは限らない。ルゥの目の届かないところでラーラたちにトドメを刺しに来た兵だろう。
 背後の気配は、鎧の金具と槍が金属音を立てていた。
 そして前方は。
「路地裏って良い覚えがな――」
 角を曲がりこちらを視認した途端、先頭を歩いていた青年がぎょっとする。
「な! なんだよこれ!」
 タルティアンでは見ない、見事な赤毛の青年だ。他に長身の女性と少年が二人。ぱっと見では皆、タルティアン人らしくない容貌だ。
「どうした、ダーフィト」
「殿下、お下がりください」
 状況を把握しようと青年の脇からこちらを覗き込んだ少年の一人に見覚えがあり、ラーラは思わず声を上げた。
「リューシャ王子?!」

 ◆◆◆◆◆

 いきなり名を呼ばれ、リューシャは硬直した。
 血に汚れた男を担ぐ、褐色の肌の少女を見つめ返す。そう言えばこの顔、どこかで――。
「神殿騎士の……」
「いたぞ!」
 二年程前にこの国の聖地祭で見た顔だと思い出し切る前に、路地の向こうから叫ぶ兵士たちに気を取られた。
「セルマ! ダーフィト!」
 騎士二人が剣を抜く。ラーラとティーグを通り過ぎ、二人に向かって襲い掛かってきた兵士たちと斬り結ぶ。
「え? ちょっと、何なんですか?!」
 目まぐるしい展開にウルリークがきょろきょろと首をめぐらす。
 いつまで経っても王都の外へと繋がる門が開く気配がないのを見て、リューシャたち一行はちょうど街中へ引き返してきたところだった。
 彼らの立場から言って、あそこで警戒され顔を覚えられるとまずい。取引のために外に出る必要があると食い下がる商人たちを脇目に、ひとまず今夜の宿をまた求め直そうと中心街へやってきた。
 同じように王都から出ることの叶わなかった旅人に紛れて来たが、大通りに出ると兵士の多さが気になった。人目を避けるためにさりげなく路地裏に入った結果がこれである。
 思えば路地裏だの横道だの細道だのという場所には良い思い出がない。特にこの旅に出てからは、路地裏で人攫いに遭うは、ラウルフィカにとっ捕まるは、ナージュに襲われるは……とリューシャも彼以外も面倒に巻き込まれてばかりである。そもそもそんな話をしている途中だった。
「ウルリーク、手伝え!」
「だから何なんですかって!」
 リューシャはラーラと言う名を思い出した神殿騎士の少女に駆け寄る。彼女の反対側からぐったりとした聖騎士の体を担ごうとした。
 ラーラはリューシャの顔を覚えていた。ここで彼らが捕まるとなると、そこからリューシャの情報が最終的にアレスヴァルドまで流れる恐れがある。
 そうでなくとも、今ダーフィトとセルマと斬り合っている刺客たちが彼らのついでに目撃者たるリューシャたちを始末しようとしてもおかしくない。
 だったら彼らに手を貸してこの国の現状に関する情報を得る方が確実だ。
 神殿騎士ラーラ。彼女は確か、豊穣の巫覡の側近中の側近なのだから。
「無理ですよリューシャさんじゃ」
 血濡れて動かない騎士の体が重い。ウルリークの諦めの言葉通り、非力すぎるリューシャではこの体格の男を担ぎあげるなど無理だ。
「だったらお前がやれ!」
「俺でも無理ですって。多分俺たちに比べたらこのお嬢さんの方が力あるでしょう」
 つくづく役に立たない男共である。
「それに、この人はもう――」
 それでもリューシャに任せるよりはマシだろうと、ウルリークが位置を変わる。博識な淫魔はその肌に触れた途端、痛ましいという表情を見せた。
 その時、リューシャはあることに気づいて宙に手を伸ばした。
「リューシャさん?」
「な、なんでもない。それよりセルマとダーフィトが苦戦しているようだ。何とかならないか」
「と、言われてもね。魔術で皆殺しにしていいなら色々ありますけど」
「それはやめろ」
 セルマとダーフィトの二人は剣の腕こそ一般兵より上だが、相手を殺さないように力を加減しているため人数差に苦戦している。
 ここはアレスヴァルドと関係も深い大国タルティアンだ。その国民を殺したとあっては、後でどんな問題に発展するかもわからない。なんとか傷つけないように戦うしかなかった。
 二人に挟まれているラーラは何か言いたげだが、リューシャとウルリークの流れるようなやりとりに口を挟む隙もない。
「リューシャさんこそ何か奥の手はないんですか? 魔道具いっぱい持ってるじゃないですか」
「と言っても、我の物も大体が容赦のない攻撃系で――」
 リューシャは空いた片手で自らの懐の内を探る。もう片手は先程捕らえたもので塞がったままだ。
 造りの複雑な衣装の内側を片手で探るのは難しく、なかなかこの局面を打開するような道具がそもそも存在しないと知っているから余計にもどかしい。
「おい、こっちだ!」
 更にはリューシャたちがやってきた路地の側からも、応援の兵たちが姿を覗かせた。セルマとダーフィトの手が塞がっているこの状況だというのに、挟み撃ちされた形になる。
 焦って懐を探るリューシャの衣装から、何かが零れた。
「鍵? それって……」
 ウルリークがハッとする。古美色の小さな鍵を見て、リューシャもそれを渡された時の状況を思い出した。
『私の名はゲルサ。もしも困ったことがあれば、その鍵と共に私の名をお呼びください』
 あの時は気付かなかったが、思えば不思議な言い回しだ。結局ジグラードではあれ以来ゲルサと顔を合わせることはなかったが。
 今ならわかる。
 この、手のひらに収まる程のほんの小さな鍵からは、不思議な力を感じる。
「“ゲルサ”!」
 リューシャは鍵を掲げ、その名を呼んだ。
 小さな鍵から黄金の光が溢れて、その場にいる者たちの目を焼く。
「ぐわっ!」
 タルティアンの兵たちは眩しさに構えを崩す。光源も逆光も関係なしに辺りを包んだ光のせいで、セルマたちも手を止めていた。
 そして光が収まってから兵士たちが見たものは、路地裏から彼ら以外の人間の姿が消え去り、ただティーグの血の痕だけが残る光景だったのだ。