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暗い闇に落ちていく。落下はすぐに止まり、ふわふわと足下の頼りない浮遊感だけが残った。星空を歩いているかのような。
現実離れした空間。だが、ここにやってくるのは初めてではないリューシャたち四人はすぐに慣れた。藍色の闇の下、無限に並ぶ本棚が見えてくる。
驚いているのはラーラだ。西側の人間は総じて魔術への耐性が低い。それでも彼女はティーグの手を離さずにいた。
並ぶ本棚の前に一人の女が立っている。
「よく思い出してくださいましたね。破壊神様」
にっこりと。その呼びかけだけですでにただの人間ではないことを示す女はリューシャたちに向かって笑いかける。
「オリゾンダスではお呼びがかからなかったので、このまま忘れ去られるのかと戦々恐々としておりました。産みっぱなしで親に捨てられる子どものように。伏線回収をし忘れた下手な物語のように」
「……ゲルサ」
間違いない。彼女はオリゾンダスの図書館で出会った女性司書だ。服装も髪型も、一見地味な容貌も何一つ変わっていない。
あの時はただの人間だとばかり思っていたのだが、こうしてこの場所で顔を合わせてみるとまったく違う存在だということがわかった。
この場所――“バベルの図書館”。世界のあらゆる記憶と記録に通ずる、集合的無意識。第八感とも呼ばれる、全知全能。
「ええ。私はバベルの司書の一人、ゲルサ。破壊神様、あなたのお越しをずっとお待ちしておりました」
「我を?」
リューシャは訝しげにゲルサを見つめ返す。
「神としての記憶と力を取戻しつつあるあなたには、この場所の使い方を覚えていただかなければなりませんから」
ゲルサの視線がリューシャ以外の人々にも向けられる。
「五人ですか? お仲間が増えたのですね」
「五人?」
リューシャはハッとして振り返った。崩れ落ちた男の体の傍らで、ラーラが繰り返しその名を呼ぶ。
「ティーグ殿!」
ダーフィトが歩み寄り、その心臓の音を聞いて、脈をとった。首を静かに横に振る。
ゲルサの数え上げた人数は冷酷な程に正確だ。
リューシャたち四人とラーラ。ここに生きている者はそれしかいない。
ティーグの体は、すでに命の離れた「もの」でしかないと……。
「おや?」
慟哭を堪えるラーラから視線を移したゲルサの瞳が、大きく瞠られる。
「破壊神様、その手にあるものは……」
リューシャが先程捕まえた“それ”。この空間に落ちてくる間も離さず、鍵を仕舞って両手が使えるようになった今では、両手で捕まえている。
淡い光を放つそれを、リューシャは蛍を捕まえた時のようにそっと手の中に囲っていた。
「そう言えばリューシャさん、さっき何かを捕まえていたようでしたけど」
ウルリークもまた眉根を寄せて、リューシャの手元を見遣る。
この暗い空間で指の隙間から漏れる淡い光がはっきりとわかった。その正体に思い至ったらしく、彼は大きく驚きの声をあげる。
「あー!! まさか、それ!」
「ど、どうすればいい? ゲルサ! どうにかならないのか?!」
「その死んだ青年の魂ですか?」
ゲルサの言葉に、ラーラやダーフィト、セルマたちの視線までが一斉にリューシャの方を向いた。
ティーグの体を担ごうとして失敗したあの時、リューシャはその体から淡い光の珠が離れようとするのを見た。それを放してはいけないと咄嗟に手の中に閉じ込めたのだが、そこから先どうしていいのか、自分でもわからない。
ティーグの魂を捕まえたのは、リューシャにとってはっきりとした理由や思惑があっての行動ではなかった。ただ、そうしなければいけないと――彼にしては珍しく、頭より先に体が動いたのだ。
「ティーグ殿の、魂? まさか、生き返らせることができるとか……」
ラーラが縋るような眼差しをリューシャに向ける。
「ゲルサ、できるか?」
「私に聞かれましても。それができる可能性があるとしたら、あなたですよ、破壊神様」
「へ?」
両手で魂を封じ込めたまま、リューシャはきょとんとした顔になる。
「人の生死にまつわる領分は、神のもの。私ごときが手を出せる問題ではありません」
バベルの司書、バベルの図書館というこの世の全てを変革できる場所の全てを知っていても、ゲルサにはその権限はない。
「あなたは神なのです、破壊神様」
人の手出しできない領分にまで手出しできる。それが、神であるということ。
リューシャは自らに課せられた定めの重さを改めて思い知った。
「なら……我が望めば、この男を生き返らせることができると――」
「いえ、それは無理です」
ちょっと待て。結局どっちなんだ。
「あなたが完全な力を取り戻せば、死者を蘇らせることができる“可能性”があると私は先程申し上げました。しかし実際に今のあなたにできるとは思いません」
「……」
確かに、ゲルサの言うとおり今のリューシャでは力不足だ。例え破壊神という神に人を蘇らせるだけの力があるとしても、リューシャはまだその域に到達していない。力を暴走させて物を壊すことはできても、その逆の直す行為は苦手だ。
「それに……やっても構いませんが、ゲッセルク様に怒られますよ」
冥界を司る冥神の名を出して、ゲルサは淡々と言った。
「死神様にも生神様にも怒られますし、主神フィドラン様にも怒られます」
「……とりあえず怒られるのか!」
今まさに人の命がかかっている問題だというのに、重視するべきはそこなのかよとリューシャは突っ込む。
「そりゃそうですよ。それが神々の取り決めた、各々の領分というものです。この世界はかつてのように皇帝が支配する一つの帝国ではないのですから、領分は守らないと」
先程の台詞にも出てきた言葉だ。領分。数多の神々それぞれの権限の及ぶ範囲。
それを侵せば、色々と問題が発生する。かつて秩序神と背徳神が一つの民の処遇を巡って衝突したように。
神々の勢力図の変動によって、世界が歪む。
「なら我には……この男を救う手だてはないと言うのだな」
「そもそも破壊神様に、その青年を救う理由があるのですか? あなたが個人的に大事にしている人間というわけでもないでしょう? いかに慈悲深き神がいたとして、全ての死者を蘇らせていてはこの世界はすぐに壊れてしまいます」
もっともな言い分に反論のしようもない。だがリューシャは、ゲルサの言葉に直ちに納得して引き下がることはできなかった。
「何故……その青年に拘るのです?」
「わからない」
わからないのだ。リューシャにも。本当に。
ただここで、この騎士を死なせてはいけない気がするのだ。
海辺の夢を見ていた時と同様、自分が知っているとも言えないどこかから、そう囁きかけられている気がする。
「その青年、それほどの重要人物でしたでしょうか?」
はて、とゲルサが首を捻る。
バベルの司書である彼女は全てを知っている。この世のあらゆる人間の運命さえ。だから残酷なことも言える。
ティーグ=ハルディードという騎士は、この世界の命運において何ら重要な役割を果たすわけでもない。善良で有能、人界においては貶めるところなど見当たりもしない良き青年。けれど、他の人間と同じように産まれて生きて死んでいく、ただそれだけの人物だと。
辰砂のように神々を殺すわけでもなければ、ラウルフィカのように破壊神の覚醒に一石を投じたわけでもない。魔王にも罪人にもならない代わりに、王にも救世主にもなれない人物だ。
そのティーグに、生死の理を捻じ曲げて蘇らせる程の価値はあるのか。
「ティーグ殿は、ルゥにとって一番大事な人だ!」
訳の分からない状況に置かれながらも、懸命に涙を堪えて話を聞いていたラーラが叫ぶ。
「彼が死んだら、ルゥが悲しむ!」
「けれどルゥ少年は、それでも己の役割を果たすでしょう」
この後のタルティアン王国の辿る運命を、ゲルサは知っている。
豊穣の巫覡は愛する人を失いながらも、最後まで己の役目を果たすのだ。ティーグが死んだことによってルゥの士気が役割を果たせなくなるほど低下するのであれば問題だが、ルゥはそのような人物ではない。
「彼がここで死んだところで何も問題はありません。世界は変わりません。何も」
ちっぽけな一人の人間の死など、この世界を動かすに足りないと。
「それでも……それでも私は……ルゥは……」
ラーラが震える拳を打ち付ける。地面のない空の床に、虚しい音は響きもしない。
だがその姿を見て、少なくともリューシャの決意は固まった。
「……何ができる?」
「ですから、変わりません。彼には何も――」
「そうではない。我に何ができる?」
「リューシャ王子」
ラーラが顔をあげてリューシャを見つめてきた。その手の中、淡い黄金の光が自らの存在を主張するように今も輝く。
未熟な神。記憶も力も中途半端な、覚醒しきらない半人前の破壊神。
今のリューシャの力では、ティーグを人として完全に蘇らせることはできない。それでも、何もできないわけではないのだ。
「我はその昔、神の主張する正しさに負けて、一つの悲しみを見過ごした。その結果が辰砂による神々の虐殺だ」
あの時も本当は辰砂のために何かしてやりたかった。その想いを無視した結果が、後の更なる悲劇に繋がったのだ。
もう、この痛みから目を逸らしはしない。
「……何が起きるかは、私にもわかりませんよ」
求める者に求める書を与えること。それが司書の役割だ。ゲルサはついと宙に指を伸ばし、どこからか一冊の本を取り出した。
本の題は、ティーグの名だ。
「これはその青年の“弁明の書”。彼の物語は、この頁で終わっています」
「白紙の頁が随分あるな」
「本来の寿命より早く亡くなりましたからね。時と運命の厳密ささえ、あなた方神の手の内ですもの。選ばれし者だけが、その結末を変革し物語を書き足すことができる」
この場所はバベルの図書館と呼ばれ、集合的無意識の中、世界を構成するあらゆる要素の情報の集積を人間にとってわかりやすく視覚化して整理したものだ。
ゲルサは本や物語という言葉によって簡単に説明しているが、要はこの本はティーグの命と人生そのもの。それに手を加えるということは、リューシャが彼の人生を勝手に書き直すことに他ならない。
「神よ。あなたはなんだってできる。この本を燃やして、その青年の存在を最初からなかったことにすることも。すでに記載された頁を訂正して、これまでの人生を変更してしまうことも」
「そんな……!」
ラーラが驚きの声をあげる。リューシャは静かにゲルサの説明に聞き入った。
「あなたは破壊と流転の神。母神である創造神と対を成すが故に、破壊の対極に位置する創造の力も手にしている。けれど少し加減を誤れば、それはこの世界を終わらせることもできるもの」
流転の力。壊し、滅ぼし、終焉から始める力。しかし壊すことに比べ、すでにそこにあるものを維持するというのは、なんて難しいことなのか。
リューシャはティーグの弁明の書の表紙に手を置く。彼の物語を書きかえるとは言っても、本物の書籍のようにペンとインクで書きこむわけではない。
組んだ指を開いて魂を解放する。それと同時に、自らの内側から沸きあがる力の奔流を重ねた。
すでに死んだ者にもう一度生命を与えることはできない。それは破壊神の領分ではないから。けれどまだここに残された魂の形を、実体がなくとも存在できるよう新しく造りかえてやることはできる。
暗闇の空間に、終焉と誕生の激しい光が満ちた。