Fastnacht 27

106

 塔の中に光が差し込む。格子の取り付けられた窓は大きく、容赦のない夕暮れの日差しを投げかける。
 小鳥の鳴き声に誘われるようにして、ルゥは目を醒ました。
 窓際で羽ばたきの音が遠ざかる。上体を起こすと、上掛けがするりと肩を滑った。裸の胸に残る赤い痕を見て、ハッとして上掛けをまとい直す。
 ここは恐らく、連れて来られた塔の最上階なのだろう。窓の外から覗く景色が随分高い。樹の天辺が下の方に見える。
 寝台の上からわかるのはそこまでだった。降りて格子窓に近づこうにも、左手が相変わらず、手錠から繋がる鎖によって拘束されている。
 引き裂かれ汚れた服は着替えさせられていた。だから裸なのだ。どこもかしこも綺麗に処理されていて、清々しい香油の匂いすらする。
 しかし、この身が望まぬ凌辱を受けたという事実は変わらない。
 身体が重い。奥の方に鈍い痛みが残っているのを感じる。
 そしてそれよりも強くルゥを苛むのは、言葉にならない胸の痛みだった。
 逃避したがる意識は、この季節のタルティアン特有の赤い夕陽に絡め取られて逃げられない。緋色を通り越して見事な深紅に染まる空は、どうしても流れ出た赤い血を連想させる。
 今日一日の出来事が、瞼を閉じる僅かな間に溢れて反芻される。
「ティーグ様……」
 自らの肩を抱くようにして寝台の上で身を縮めながら、ルゥは愛しい人の名を呼んだ。
「死んだなんて……嘘ですよね?」
 虚しい問いが、鉄格子に跳ね返り響く。
 わかっている。どう目を逸らしても、それは事実なのだと。クラカディルの部下が主君に対し虚偽の報告をする理由などない。
 彼は死んだ。自分を庇って。
 豊穣の巫覡を守るのは、聖騎士の役目。ティーグは自分の職分を果たしただけだ。でも。
「ティーグ様……!」
 たった半日。今日の朝までは一緒だった。神殿に駆け込んできて自分の無事を確認し、安堵した彼の笑顔を思い出す。
 その笑顔がもう永遠に失われたなどと、信じたくない。
「ラーラ、お前だけは、せめて無事で……!」
 最後まで自分を庇ってくれたもう一人の騎士、誰より近しい友人の名を呟いて、ルゥはせめてと祈る。
 シャニィディルが囚われ、ティーグが喪われ、この上彼女にまで何かあったら耐えられない。
 息を何度か吸って吐いて、気持ちを整える。
 まだだ。こんなところで心折られている場合ではない。
 まだ終わってはいない。ルゥがこの時期、この時代に“豊穣の巫覡”として選ばれた役目を果たすまでは。
 それまでは、何があっても生きなければならない。
 ふと階下から上がってくる人の気配を感じ、ルゥは上掛けで自らの体を隠しながら待ち構えた。
「おや、御目覚めですか」
 予想通り、階段を上がってきたのはクラカディルだった。ルゥの知る限り、ここには自分と彼しかいないのだから当然だ。
 彼はその手に二人分の茶器の乗った盆を持っていた。
「ちょうどいい。何かお腹に入れた方がいいですよ」
 自分をこんな目に遭わせた敵の用意した食事など……とは思うものの、空腹に負けた。
 元々ルゥは本日の朝から逃げ回り、昼過ぎにこの塔に連れて来られてあの状態だったので昼食抜きなのだ。育ち盛りの少年にとって食事量を減らすのはきつい。
 見た目でよく間違われるような繊細な少女ならば、あんな目に遭った後は食事が喉を通らないということもあるかもしれない。だがルゥは、そういったか弱さとは無縁だ。
 腹が減っては戦はできぬ。
 紅茶で喉を潤し、付け合せの焼き菓子へと口をつける。クラカディルはにこにことその様子を見守っている。
「ああ、良かった。私の淹れたお茶など飲みたくないと言われるかと思いました」
 もちろん毒殺やそうでなくとも薬を盛られる心配はルゥもしている。だが、クラカディルがルゥを殺すならばこんなまだるっこしいことをせずとも、とっくにやっているだろう。
 そういう諸々の判断を結局ルゥはこの一言にまとめた。
「……生憎と、そこまで繊細ではないもので」
 寝起きというだけではない理由で、かすれ気味でドスの利いた低い声が出た。数時間前にさんざん喘がされた名残だ。
 可憐な外見を裏切る様子に、しかしクラカディルは眉を潜めるでもなく、手元の小瓶から喉に良いとされる花の蜂蜜をルゥの紅茶に足した。
「……王子様でも、手ずからお茶を淹れるなんてことするんですね」
「ええ。ここには他に誰もいませんから」
 予想と違わず、この塔には二人しかいないらしい。内心の考えを押し殺すルゥにも構わず、クラカディルは淡々と続けた。
「今は、あなたがいますけれど」
「……来たくて来たわけじゃありません」
「そうでしょうね」
 嫌味にも彼は動じない。
「今はあなたと二人。けれど昨年の事件直後、一人で塔に放り込まれた時はさすがにきつかったですよ。これまでお茶を淹れるのも、食事を作るのも他人任せだった人間が、一から全て自分でやらねばならなかったのですから」
 これほど穏やかな口調でなければ恨み言としか思えない。けれどクラカディルにはどうやら、そのつもりはないようだった。
 彼はいっそ透徹したような表情でこの一年の生活を語る。
「火を熾し、水を汲み、パンを焼く。あなたなら当たり前にできることかもしれませんね。ですが私には何もかも初めてだった。芋の皮を剥くだけで何回指を切ったかわかりませんよ」
「……」
 シャニィならそのくらいできる。ルゥはそう言おうとした。でも、やめた。
 クラカディルの横顔はここではないどこかを見つめている。
 この一年の彼の暮らしなど、ルゥは知らない。知りたくもなかった。
 クラカディルはシャニィディルの敵対者。シャニィディルの立場を支えるルゥとしては、彼と仲良くする訳にはいかなかった。かといって必要以上に邪険にする理由もなく、昨年まではずっと、当たり障りのない対応をしてきた覚えしかない。
 彼がどうしてこれ程自分に執着するのか、その理由がルゥにはさっぱりわからなかった。
 憎まれたり、敵視されるのならばわかる。一年前の事件を経た今なら尚更だ。だが、少女巫女の仮面を剥いだ素顔のルゥに、クラカディルが惹かれる要素など何一つないはずだ。
 それなのにどうして。
「……私をどうするおつもりなのです」
 意識を集中し、体の中をひっそりと探る。いつもは強く感じられるはずの神力の手応えが薄い。
 豊穣の巫覡の力は、純潔と共に保たれる。代替わり後に結婚をする例はあるが、在任中に神力を失うことは稀だ。
 ルゥは歴代の巫覡の中でも一、二を争う力の持ち主だ。だからまだ神力が絶無になったわけではない。それでも、いくらかは力が失われたようだ。
 クラカディルがルゥに求めるのが豊穣の巫覡としての力ならば、それは歓迎できない事態のはず。だが、彼は次の巫覡候補をもう見出していると告げた。
 神力を失い、神の声を聞くこともできないルゥなどただの少年でしかないのに。
「言ったはずですよ。私が欲しいのはあなただと」
「どうして……!」
「言いたいことはいくらでもありますが……きっと、どれ程言葉を費やしても、私の想いがあなたに伝わることはないでしょう」
 そう言って彼は切なく微笑んだ。
 生まれ育ってきた環境が、その眼が見ているものが、あまりにも違いすぎる二人だ。それ自体はどちらの責任でもない。
 だが、例えティーグのことがなかったとしても、ルゥがクラカディルの気持ちを受け入れることは永遠にないだろう。
「影の中に生まれた私があなたを見る時、いつもまるで、光の慈雨に打たれるかのようでした。あなたにはわからない。……わからなくていい」
「クラカディル殿下」
 ルゥは眉根を寄せて彼を見上げた。
 クラカディルはシャニィディルの敵。気を許してはいけない。だからルゥは、これまで彼のことなど、彼の想いなど、何一つ気に留めることはなかったのだ。
 生まれつき聖色を持たなかっただけで罪のないシャニィディルを追い落とそうとする敵。そうとしか見ていなかった。けれどクラカディルが表だって立ちあがらなければ、他の誰がどんなやり方でシャニィディルを害そうとしたかはわからない。
 下腹の鈍い痛みが訴えてくる。駄目だ。油断するなと。
「私は……」
 彼の痛みなど、自分が知る必要はない。
「俺は、ティーグ様を愛しています」
 穏やかだったクラカディルの表情が急速に凍りつく。
「あの男は死にましたよ」
「それでも」
 クラカディルのことだ。政敵であるシャニィディルとは別の意味で邪魔者であるティーグを放置しておくようなことはないだろう。
「それでも、俺が愛するのはあの方だけです」
 ティーグがルゥのために死んだと聞かされた今でも、ルゥは考える。彼が自分のために死ぬことはあっても、自分が彼のために死ぬことはない。
 ルゥが豊穣の巫覡という役目を戴いている間は、それが当然のことだ。守るべきは彼。守られるべきは自分。
 自分には大切な、豊穣の巫覡として何より大事な役目があるのだから、それまで死ぬわけにはいかない。
 ルゥはティーグに命を捧げることもなければ、神子という立場上、肌の触れ合いすら許すことのできない間柄だった。
 それでも、この想いだけは、誰よりもティーグに捧げている。
 誰に宣言したわけでも、誰が認めてくれるわけでもないけれど。
 永遠を誓ったのだ。
「そして、シャニィの味方であることもやめません。俺が民衆の前に出る時は、あくまでもタルティアンの“豊穣の巫覡”としてですから」
「あなたはシャニィディルこそが、次の王に相応しいと思っているのですね? それが神の御意志だと」
「……」
 ルゥは明確な言葉では答えない。クラカディルをそれを肯定だと受け取ったようだ。
 皮肉気に頬を歪める見慣れた表情になって告げる。
「ならば私はあなたを閉じ込めて、このまま誰の目にも晒さないようにするまで」
 クラカディルの指が伸び、ルゥの剥き出しの肩を抱く。胸に埋められた唇が肌をきつく吸う。
「誰にも渡しはしない。あなたを奪う者全て殺してやる。それがハルディードであろうと、シャニィディルであろうと……!」
 肌から伝わる暗い呪詛を聞きながら、ルゥは静かに榛の瞳を閉じた。