Fastnacht 28

第5章 祈りの行方

28.豊穣の国

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「この国で何が起こっているかだって? そんなもん俺たちが教えてほしいくらいさ」
 パン屋のおやじは大仰に肩を竦めて言った。
「あれ? 兄ちゃん、ひょっとしてこの国の人じゃないね」
「ああ、そうなんだ。彼女に会いにこの国に来たら、昨日王都の門が封鎖されて出られなくなってしまってね。二、三日程度なら彼女と一緒にいる時間が長くとれるから別にいいんだけど、それ以上滞在時間が延びると困ってしまうんだ」
「あーあー、なるほど、可愛い彼女じゃないか。妬けるね、このこの」
 恐ろしいことに変装して街人に話しかけるリューシャの口調も態度も、いつもの偉そうな王子様然とした仏頂面とは全然違う。
 自分の今の格好に照れたラーラは前に出たがらずリューシャの陰に隠れるようにして相手の顔を遠慮がちに見る。それもあって、二人はただの恥ずかしがり屋な少女とその異国の恋人と見られ、全然疑われる様子がなかった。
 時折クラカディル派らしき兵士とすれ違うが、その彼らも顔を知っているはずのラーラにまったく気づく様子がない。
 向こうはティーグとラーラ、少女騎士と体格の良い青年騎士を探しているだろうから、町民に扮したこの姿は完全に意識の範囲外なのだろう。
 顔立ちも普段、女の子のように優しげなルゥと共にいる時のラーラはきつく見られがちだが、同じようにきつい雰囲気のあるリューシャと並ぶと印象が随分違う。
「謀反だってねぇ」
「王様が殺されたんだろ? 恐ろしいことさ」
「え? そんなことがあったんですか?」
「噂だよ、噂。でもクラカディル王子は去年の事件のことでお咎めを受けていたんだろ? 自分が王様になろうとしたら、その命令を出した王様を殺すくらいしなきゃならないんじゃないかい?」
「でも、王子様にとって、王様は実の父親なんじゃ……」
「あの王子様ならやりかねないよ」
 街中で聞こえてくる、人々の噂はまちまちだ。兵士たちが誰かを探すように練り歩くので善良な街人は縮こまって道の端をこっそりひっそりと歩く。それでも人の口に戸は立てられない。
「まさかこのまま内乱なんてことにならないだろうね」
「クラカディル王子の即位に反対する勢力が立ち上がるのか? でもシャニィディル王子もすでに捕まっちまったんだろ?」
「じゃあこのままクラカディル王子が次の王になるのか。それでいいの?」
「でもシャニィディル王子は聖色を持たない。弟君の方が、タルティアン王としては相応しいんじゃないか?」
「豊穣の巫覡は何と言っておられるんだろうな」
「そういや、城の制服着た奴らが探し回っているのって、まさか……」
 飛び交う憶測。聞こえ来る民の不安。
「クラカディル王子がシャニィを確保しているのは本当だろうな。彼が逃げていたら、捜索の規模はこんなものでは済まないはずだ」
 リューシャの推測に、ラーラも頷く。
「私もそう思います。街中の兵士の行動はいつもより活発ですが、数自体は平常とさほど変わっていません」
「奴らが探しているのは君だ」
「ええ」
「きっとクラカディルは近日中に行動を起こすだろうが……他に奴がシャニィディル派で潰したい人間の心当たりなどあるか?」
 ラーラは少し考え込む。
 クラカディルはすでにシャニィディルを拘束し、ルゥの身柄もまた手中に収めている。そしてティーグに関しては……恐らく死んだものと思われているだろう。
 あの場から魔術としか思えない消え方をしたラーラたちがどのように手配されているのかはまだわからないが、そう大々的に捜索されているわけではないのはこの街の様子を見れば明らかだ。
「神殿勢力は基本的に豊穣の巫覡の言に従いますから……多くの騎士はシャニィディル派です。ただ、王宮の聖騎士と違って神殿騎士の半分くらいは平民から成ります」
「王宮の方にはセルマとダーフィトが向かったはずだ。我々は一度神殿を見てみるか?」
「はい」
 二人は一瞬顔を緊張させて見合わせると、神殿へ続く道を歩きはじめた。
 街中ならまだしも、普段生活する神殿付近ではラーラが生まれた時からよく知っている住人たちも多い。下手なことをすれば正体がばれる確率は格段に上がる。
 焦ると早足になりそうな足運びに注意しつつ、緩やかな坂を上る。
 遠目に見ると綺麗な城のようなその建物は、今はクラカディル王子の紋章がついた旗と兵士の姿に埋め尽くされていた。
「これではとても近づけそうにないな」
「神殿の皆は無事でしょうか……」
「わからない。今は争いの気配はないようだが……」
 リューシャたちは一定の距離を保ったまま、神殿の正面に回る。
 人の気配に、ラーラはリューシャの手を取って物陰に隠れた。
「あの集団はなんだ」
「もしかして、ルゥの安否を気にかけて押しかけた人たちじゃないでしょうか」
 制服の兵士たちに詰め寄る、平民の一団が神殿の正面に群がっていた。口ぐちに何かを叫んでいるようだ。
「神子様を出せ!」
「そうだ、豊穣の巫覡を出せ!」
「クラカディル王子は何をしようとしているんだ!」
「黙れ! 貴様ら! 不敬だぞ!」
 神殿に入ろうと押しかける市井の人々。槍を交差させて道を塞ぐ兵士たちは彼らを傷つけることもできず、苛立たしげに叫び返す。
「豊穣の巫覡は今、この国の行く末について大地神の神託を伺っているところだ! みだりに騒ぎを起こして御心を乱すでない!」
 ルゥが神殿内にいないことは確実だ。これ以上いても重要な情報は聞けそうにない。リューシャたちが踵を返そうとしたその時だった。
「本日夕刻七つの鐘が鳴る頃、重大な発表がある! その時にまた神殿に集え!」
 二人は目を瞠った。
「重大な発表?」
「クラカディル王子の即位か、シャニィディルの処刑か、豊穣の巫覡の代替わりか何かか……」
 肝心の内容については一切漏らさず、兵士はとにかく今は帰れと民衆を押し戻す。
「……リューシャ殿下」
 その場を離れてしばらく歩いた頃、ラーラが小声で囁いた。
「そう言えばこの近くに、今日非番で自宅通いの神殿騎士の同僚の家があったはずです」
「本当か?!」
「ええ。私も街並みを見るまで忘れていましたが、確かこの辺りの区画だったと……」
 些か不安そうではあるものの、ラーラはすでに騎士としての顔つきになっている。
「クラカディル派に属さない人間で、味方と言える人物が欲しい。その同僚、信用できる人物か?」
「十分に。ハルディード伯とも仲の良い人物です」
「なら、そやつを探すぞ」
 ラーラはルゥの護衛のために神殿を離れたので、そうではない騎士たちがその間どんな行動をとっていたのかわからない。一人でも捕まえられれば、シャニィディル派の人間が今どうしているのかわかるかもしれない。
 二人は人目を注意深く避け、あるいは誤魔化しながら、ラーラの記憶頼りに街を歩く。

 ◆◆◆◆◆

 一軒の粗末な家の前だ。
 大きさはそれなりの民家だが、どうしても寂れた印象を与えるのはここの住人が家の手入れに気を遣わないからに違いない。
 だがこの民家は寂れた風貌とは裏腹に、今日は多数の客を迎えているようだ。
「足跡が複数あるな」
「ええ」
「どうする?」
「……裏口から扉を破りましょう」
 万が一クラカディル派の兵士たちがこの家を見張っていたとしたら、事情聴取される恐れがある。いくら変装していても警戒した相手に間近で見られては、ラーラの正体に気づかれる。
「ここの家に用があるんですか?」
 背後から急に話しかけられ、二人は飛び上がった。
「リーク!」
「そういえばいたんだっけ……」
「やだなぁお二人とも。デートに夢中になって俺の存在を忘れるなんて」
 ウルリークの尾行術は天下一品だ。リューシャたちは彼が後ろをついてきていることを聞いていたのに、完全にその存在を忘れていた。
「で、ここに入るんですか?」
「ああ。非番の同僚の家なんだ」
「なら、扉は壊さない方がいいですね。壁を抜けましょう」
「え?」
 ウルリークが二人の手を掴むと、その体が木の扉をまるで水の膜のようにすり抜けた。ラーラが驚いている間に、三人の体はもう家の中だ。
「人の気配が……だ、誰だお前ら!」
 戸の前で騒げば小さな民家なら十分に気配に気づく。警戒してやってきた男にラーラは即座に飛び掛かりその口を塞いだ。
「しっ! 私だ私! ラーラだ! 落ち着けパウル」
「え……ラーラ?! おま、なんて格好してんだ?! まるで女の子じゃないか」
「別の意味で黙らせてやろうか」
 混乱しているのか素でその認識なのか、パウルという男の失礼な発言にラーラが青筋を立てたところでようやく場が収まった。
 裏口というより勝手口と呼ぶ方がわかりやすいだろう。ラーラたちが踏み込んだ扉から繋がっていたのは台所だ。
 ここに二人を連れ込んだウルリークはと言えば、さっさと姿を消している。どうせどこかに隠れてこの事態を見守っていることは明らかなので、もうリューシャも気にしない。
「教えてくれパウル。神殿は今どうなっている? シャニィ殿下は御無事なのか?」
「俺こそ聞きたいよ。お前、神子様とティーグと一緒じゃなかったのか?」
 パウルと呼ばれた男は二十代半ば、ティーグと同年代のようだった。体格は騎士らしく立派だが、よくよく見れば顔立ちにはまだ青年らしい幼さが残っている。
「それにこちらは……」
「エリヤと言う。豊穣の巫覡とシャニィディル殿下に面識のある者だ。今は訳あって彼女に協力している」
 アレスヴァルドに近いこの国で本名を名乗る訳にもいかず、リューシャは偽名を使うことにした。ダーフィトも同様だ。
 リューシャの偽名は、元の名の変形である「エリヤ」だ。
「パウル、私も報告しなければいけないことがある。他の連中を集められるか?」
「ああ。この家は見ての通り寂れ牧場だからな。クラカディル派も見逃したらしく、自由に動ける奴は今、みんなうちに集まってるよ」
「そうか!」
 朗報だ。これで街中を駆けずり回る手間が省けた。
「教えてくれ――今、この国はどうなっている?」