Fastnacht 28

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 クラカディルは時折塔から姿を消す。当たり前だ。彼には“謀反”という大事な大事な“政務”がある。こんなところに籠っている方が異常だろう。
 何故、と問うと彼は答えた。
「ここの方が落ち着くからね。本当に用件のある奴しか来ないし、そもそもここを知る者の数が少ない」
 くだらない雑音に煩わされずに済む、とクラカディルは薄く笑った。一年の幽閉生活で、すっかり塔での暮らしが板についたと。
 高い塔の一室。手錠と鎖に繋がれたルゥは彼の訪れを拒否することもできない。ただただ漫然と時間が過ぎていなくなるのを待つしかない。
 鐘の音を数えて、ともすれば混乱しそうな時間感覚を取り戻す。
 午後五つの鐘が鳴る前に彼は一度出て行った。八つの鐘が鳴る頃戻ってきた。
 この塔は王城からそう離れていないのだろうなとルゥは考える。いくらクラカディルが他人の気配を嫌ったとしても、計画を進める度に城に戻らないわけには行かないだろう。
 王城の傍の人気のない塔。どこだろうかとルゥは考える。
 せめて辺りの景色を覗ければいいが、鎖で繋がれた範囲から覗ける景色は限られている。
「ただいま。花嫁さん」
「……その呼び方、やめてください」
 絡みつくような甘い声での囁きを、頭を振って払う。
 ルゥのいる最上階に上がってきたクラカディルは、まっすぐに寝台へと歩み寄ってきた。ここには他に置いてあるようなものもない。ルゥの繋がれているこの寝台だけだ。
 じりじりと距離を取ろうとするルゥに構わず、クラカディルは寝台の端に腰かける。
「だが、もう神子様と呼ぶわけにはいかないだろう。あなたはもうすぐ、豊穣の巫覡ではなくなるのだから」
「……それで、俺の次の巫覡は誰なのですか?」
「下町の少女ですよ。神殿に見習いとして上がっていたそうです」
 それなら一度くらいは顔を見たことがありそうだが、覚えていない。神殿に勤めていたというなら、元々素質はあるのだろう。
「そうそう。ルゥ様。知っておりますか?」
 これまでと口調の変わったクラカディルの声に、ルゥは思わず視線を向ける。
「今年は北西の地域が凶作だそうですよ」
「凶作……?!」
 そんな報告は今まで受けていない。ルゥは目を瞠った。
「どうして?! あの辺りは気候も安定しているし、今年は旱魃や蝗の被害もなかったはずでしょう!!」
「ええ、そうですよ。それなのに収穫前の畑で植物が急に枯れ始めたのだそうです」
「植物が急に?」
 眉を潜める。
「ええ。何の前触れもなく急に枯れ始めたと。小作人たちは大地の神の怒りではないかと怯え、領主たちが王都に慌てて使いを送ってきたそうです」
「そんな……」
 大地神ディオーが怒り、某かの災いをこの国にもたらすとしたら、豊穣の巫覡であるルゥが誰よりも先に兆候を感じるはず。
「でたらめです」
「真実ですよ。手塩にかけて育てた麦が、今年の収穫が、冬を越す糧が駄目になり嘆く農民の声を無視するのですか?」
「だったらそれは誰かの罠です。人為的なものです。大地神の声によるものであれば、私に察知できないはずがありません!」
 ルゥは堂々と言い放った。その姿は鎖に繋がれていることなど思わせもしない、まさしく“豊穣の巫覡”としての顔。
 クラカディルは一瞬、息を呑む。だが彼も負けてはいない。
「ならば何故畑が枯れた! あなたにその理由が説明できるのですか?!」
 今度はルゥが言葉に詰まる番だった。凶作が恐らく人為的なものであるというのは自らの力に根差した根拠のない消去法であって、傍目に明らかな具体的な証拠があるわけではない。
「これは凶事だ」
「いいえ、陰謀です」
「この国は大地神の怒りを買っている。聖色を持たぬ王子、シャニィディルが王位近く存在するから」
「そんなことはありえません!」
 この国で凶事が起きればそれは全てシャニィディルの責任にされる。
 彼がディオーの加護を持たぬからだと。
「あなた方は勘違いしています。大地神の加護というのは――」
 ルゥの言葉が中途で切れる。まるで声を失ったかのように。
「どうしました?」
 その不自然さに、さすがのクラカディルもルゥの変調に気づかずにはいられなかった。
「いえ……なんでも」
 言おうとしていた言葉を奪われて、ルゥは力なく首を横に振るしかできない。
「とにかく……それだけは、違います」
 全ての真実を白日の下にさらけ出してしまいたい。そう思う気持ちをなんとか押しとどめる。
「ルゥ様は、あくまでもシャニィディルの味方をすると言うのですね」
「クラカディル殿下……あなたは何故そんなにもシャニィを……実の兄を憎むのですか」
「憎む? 憎んでなんかおりませんよ。私はただ、あの男がこの国の玉座に相応しくはないと思っているだけ」
 クラカディルは指を伸ばし、ルゥの顎を掬い取る。
「それでも私がシャニィディルを憎んでいるように見えるとすれば……その理由はあなただ。豊穣の巫覡」
「俺?」
「シャニィディルはあなたを手にしている。私はそれが、ずっと羨ましかった」
 ぽつりと零された言葉に嘘の匂いはなかった。
 だが、そう言われると尚更ルゥは困ってしまう。
 開けてはいけない扉が開きそうになる。目を閉じ耳を塞いでそこから意識を逸らす。
 それは決して振り返ってはいけない闇だ。
「……私はシャニィディルの味方ではあるが、彼のものになった覚えはない。当然、あなたのものにも」
 ルゥはいつだって、自分自身のものだ。
「……だから、あなたが好きですよ」
 その告白は一途でひたむきながら、とても寂しいものに聞こえた。

 ◆◆◆◆◆

 夜空は鉄格子に切り取られて細い長方形が幾つも並んでいるように見えた。周囲の静謐から布一枚挟んだ向こうのような遠く、人々のざわめきが聞こえる。
「シャニィディル殿下」
「やぁ。今度は君か」
 見慣れた顔の騎士の見慣れない表情を前に、シャニィディルは牢の内側からあくまでものんびりと返事をかえす。
 騎士は、シャニィディルの“騎士”だ。聖騎士や神殿騎士の誰か一人というわけではない。ルゥにとってのラーラのように、シャニィディル専属の護衛役だ。
 その彼が投獄もされずにこうして出歩いているということが、彼の立場を何より雄弁に示している。
 王宮に浸食していたクラカディルの影響力は思ったよりも大きかった。クラカディル本人の魅力と言うよりは、シャニィディルが聖色を持たないことに対する不安と言う方が大きいかもしれないが。
 あの弟もそれはわかっている。だから拠り所を見つけられずにいつも余裕がない。自分を支持してくれている人間の多くが望むのは、彼が聖色を持っていることそれだけ。たまたまシャニィディルと一番年齢が近い第二王子だったから目をかけられた。それは自分の力ではないと思っているのだ。
「それで、今日はなんだい?」
「殿下の処刑は三日後に決定されました」
「へぇ、そう」
 自身の命の期限を聞いても、シャニィディルは動じない。
 力がないのはシャニィディルも同じだ。本当はシャニィディルもクラカディルも、大した差はない。ただシャニィディルの方が先に生まれ、クラカディルの方が聖色を持っていた。それだけのこと。
 昨日の報告に寄れば、ティーグはルゥを守って死んだらしい。その前後にラーラが妖術師と手を組んで姿を消しただのおかしな報告も入っていたが、とりあえずハルディード伯爵ティーグの死亡だけは確実なのだろう。
 ティーグはルゥのためなら命だってかけられるのだ。他にも王宮勤めの聖騎士などは、敵兵を退けて神殿に走るまでに何人か犠牲になったと聞く。
 自分にはそれ程の忠誠を捧げてくれる騎士はいない。それが自身の限界であることもシャニィディルは知っていた。
「意外と遅かったね。城に攻め込んで父上を殺したその日に私のことも殺すかと思ったのに」
 クラカディル派は第二王子の即位に関してどのような絵を描いているのだろか。シャニィディルの処刑をわざわざ三日後に設定したのも、それに関した意味があるということだろう。
「殿下、北西の一部地域で畑が枯れ始めているのを知っておりますか?」
「知っているよ。皆を集めて対策会議を開こうとしたところで、クラカディルが乗り込んできたのだけどね」
 あの乱入がなければ、シャニィディルは一度、それに関して豊穣の巫覡ルゥの意見を伺いに神殿に赴く予定だった。対策が後手に回って民が長く苦しむようなことがなければよいのだが、クラカディルはその辺りを今どうしているのだろう?
 未練ならいくらでもある。王子でなくとも人としてこれだけはやっておきたかったと思うことばかりだ。
 だが、もう、時間がない。
 牢の外の騎士が鍵を取り出す。
「……私は殿下を、罪人として処刑させたくはありません」
「私も何もしていないのに罪人扱いはいやだなぁ」
「ですが、凶作に苦しむ民のことを思うと、聖色を持たぬ王子をこのまま王として戴いて良いのかとも思います」
 シャニィディルは微笑んだ。その見透かすような透明な青い瞳に、騎士はぞくりと悪寒を覚える。
「それで、君は何が言いたい」
 牢の扉が開く。騎士が中に入ってくる。
 彼は剣を持っている。
 軍人は頭の固い奴らばかりだなぁとシャニィディルは思った。特に主君を持つ騎士なんて人種は、やれ忠義だなんだのとすぐに己の美学を貫きたがる。
 いや、そういえば二年ほど前に隣国からやってきた冷徹王子のすちゃらか女騎士だけは違ったっけと、僅かばかり思い直した。
「殿下が罪人として首を晒される前に、ここで決着をつけとうございます」
「自害は嫌だよ。何度もその誘惑を振り払って来たんだから」
 ルゥにそれだけはしてはいけないと命じられたその時から、この日まで生き続けることだけが、シャニィディルの義務だった。
 もう運命の歯車は廻り出している。
 あとはきっとルゥが上手くやってくれるだろう。
「……介錯、お手伝いいたします」
「ああ。――余計なお世話かもしれないけど、僕を殺しても、君は生きろよ」
 騎士が目を瞠った。その鋭い眼差しの縁に涙が溜まりはじめる。
 まだ若い男だ。がっかりさせたかなとシャニィディルは最期に思った。
 背後を向き、両手を祈りの形に組んで跪く。
 シャニィディルの銀髪は短い。少し俯けば露わになる首筋は狙いやすいだろう。
 王族の騎士を務める騎士の見事な技量で白刃が一閃し、少年の首をいつ斬ったともわからぬほど綺麗に薙ぐ。
(どうかこの国に平和を)
 この祈りがどこかに届くことはない。
 それを知りながらも、シャニィディルは確かに最期のその一瞬、人として祈りを捧げた。
 遠く、どこか遠くで、馬の嘶きが聞こえた。