Fastnacht 28

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 騎士は静かに祈りを捧げると、立ち上がり剣の血を拭った。
 目元を服の袖で擦る。さして酷使したわけでもない腕が酷く痛んだ。
 青白い顔をしてふらつきながらその騎士が出て行った後、牢内には静寂が満ちた。
 先程まで独りの虜囚が漫然と月を眺めていた空間にはもはや誰もいない。命を失ったものが血の流れの中に横たわる。それだけだ。そのはずだった。
 馬の嘶きが聞こえる。
 あれは自分を呼んでいるのだ。
 血だまりの中で彼はぴくりと指先を動かし、ゆっくりとその緑の瞳を開いた。

 ◆◆◆◆◆

 五人は沈痛な面持ちで顔を突き合わせる。
「三日後か……」
 シャニィディルの処刑の日が決まった。
 セルマとダーフィトは王宮前から、リューシャとラーラとついでにウルリークはパウルの家から戻ってきたところである。それぞれ聞いたところは別でも、聞かされた内容は同じだ。
 王城からの重大発表とは、国北西部で畑が枯れ今年は凶作になるだろうことと、それをもたらした聖色を持たぬ王子シャニィディルの処刑であった。
「凶作なんて、聞いてない!」
 リューシャとラーラはそれをパウルに伝えた後、ダーフィトたちと話をするため一旦宿へと戻ってきた。タルティアンの民はまだ迷っている者の方が多く、助力は当てにできそうにない。
「ルゥのことは何か言っていませんでしたか?」
「何も。そっちもか」
 シャニィディルの処刑が決まったということは、クラカディルの王位継承順位が繰り上がったと言うこと。更に彼らは国王を殺害しているのだ。空いた玉座にクラカディルを座らせるつもりだろう。
「すでに反逆者以外の何者でもないというのに、あくまでも形式を守ろうとする姿勢は滑稽だがな」
「勝てば革命、負ければ反乱。要はこの世は勝った方が正義だからな。――だから我々は、奴らを勝たせてやるわけには行かない。負け犬として無様に地を這ってもらう」
 情報を集めるうちにリューシャたちが知ったのは、思った以上にアレスヴァルドとタルティアンはお互いの影響が大きいということだ。リューシャとシャニィディルの立場が似ていると思ったのは、当事者だけではない。タルティアンの民は自国の王子と隣国の王子の人生を比べて不吉がっている。
「処刑はともかく、即位式があるなら豊穣の巫覡は必ずそこにいます。この国では王は大地の神の加護を受けた証として豊穣の巫覡より冠を渡されますから」
 ルゥは三年前に巫覡になったばかりなので、もちろん王に冠を渡した経験はない。弑された先代国王に冠を渡したのはルゥの前の巫覡だ。だがシャニィディルが次の王として即位する時には、その冠を渡すのはルゥだろうと言われていた。
「では豊穣の巫覡と無恵の王子両方の奪還を狙うならば、三日後の即位式か」
「いや……だがクラカディル王子が豊穣の巫覡としてルゥ殿をそのまま連れてくるかどうかはわからないぞ」
「だとしても、巫覡の代替わりは基本的に王城で引き継ぎを行わねばなりません。常日頃元気な姿を見せているルゥが式典に姿を現さなければクラカディル派は豊穣の巫覡にまで手をかけたのかと、民衆が暴動を起こします」
「王子が殺されるのは良くても、巫覡を殺すのは赦さないのか……」
 リューシャが複雑な顔になる。
「ここは大地の神の国ですから」
 西の国々は、信仰心が篤い。
 言葉の上ではそれだけだ。その意味を真に実感するのは、まさしくこういう時だろう。
 アレスヴァルドもタルティアンと同じく信仰篤いとは言われるが、これほどまでとは感じない。一柱の神を熱心に崇める国と、総ての神を祀る国の違いなのか。
「しかし畑が枯れた、か。気になるな」
 ダーフィトが思案深げに顎を撫でる。
「何がだ」
「ここの民はそれを大地神の加護がなくなったからだと受け取っているようだが、実際にそんなことあると思うか? 国内の特定の畑だけ枯れるなんて」
「むしろ都合よく枯れた場所をクラカディル派が利用したのではないか? なんでもないことを凶事の象徴だと騒ぎ立てる輩はどこにでもいる」
「その可能性もあるが、それよりむしろ……」
 なおもダーフィトが彼の推測を述べようとした時だった。
「ラーラさん、隠れて!」
 軍靴で駆けこむ足音がした。ウルリークが咄嗟にラーラと、手近にいたリューシャを異空間へと引きずり込む。
「おいっ!」
「しっ!」
 三人が姿を消したまさにその瞬間、部屋の扉が乱暴に開かれる。
「神妙にせよ! ここにお尋ね者がいることはわかっている!」
 踏み込んできたのはタルティアン王城勤めの兵士のようだった。見覚えのある制服。
 そしてここにこのような形で突入してきたということは、彼らはクラカディル派の兵士に違いない。
「ダーフィト」
 セルマが気遣わしげに視線を投げる横で、ダーフィトはゆっくりと長椅子の上で足を組む。
「お尋ね者? 俺のことか」
「あ、あれ?」
 先頭のまだ若い兵士は戸惑って、二人きりの室内をあちこち見回す。後続の者たちも狐に抓まれたような顔をして、一組の男女しかいない部屋の中を見回した。
 ここはタルティアン王都の高級宿だ。貴族らしい物腰を取り戻したダーフィトの雰囲気に似合ってはいるが、彼らが捕まえようとしたのはダーフィトではない。
「いきなり人の部屋に飛び込んできて何の用だ。無作法な。これがタルティアンの流儀か」
「我々が通報を受けたのは、シャニィディル派の神殿騎士がここにいるという情報で」
「し、失礼だが貴殿は一体……」
「なんだ。自信満々にやってきたから、俺のことを知っているのだと思ったのに」
 常の彼を知る者からは想像できない居丈高な貴族の態度をとり、ダーフィトは名乗った。
「我はアレスヴァルド王国ゲラーシム=ディアヌハーデ=アレスヴァルドが長子、ダーフィト」
「あ、アレスヴァルドの!」
 セルマがぱちぱちと目を瞬く前で、ダーフィトは彼らに告げた。
「国から俺の身柄を見つけ次第捕らえろと連絡が入っているんだろう? いいさ。連れて行けよ」

 ◆◆◆◆◆

「……一体何が起きてるんです?」
「そんなもの我が知りたいわ」
 真っ暗闇の異空間内、ウルリークが出した鏡で外の様子を窺いながらの言葉だった。
「ダーフィト閣下……」
 アレスヴァルドのゲラーシムの息子であることを明かしたダーフィトに、兵士たちは対応の変更を余儀なくされた。ゲラーシムがアレスヴァルドの玉座に座っている今は、彼の下を飛び出したとはいえその息子であるダーフィトは王子待遇のはずである。
「ダーフィトの奴……敵の懐に飛び込むつもりか」
 彼は先程枯れた畑のことについて何か気にかけていた。リューシャたちが気づかない何かを知っていて、それを確かめるつもりなのかもしれない。
「ゲラーシムは恐らくダーフィトを我のように指名手配はしていない。見つけ次第丁重に保護しろとでも通達しているはずだ。そしてダーフィトが王城に連れていかれるのであれば、クラカディルが直接対応するしかない」
「他の地位ある王族は、彼が全て捕らえているから」
「ああ」
 どちらにせよこの国で暗躍する時間が長引けば、リューシャやダーフィトの存在がばれる危険性も大きくなる。そのくらいならば三日後までに確実に決着をつけるために、虎穴に飛び込もうというのだろう。
「クラカディル王子の気をダーフィトが引きつけられれば、巫覡殿に対する警戒が薄くなるやもしれん」
「閣下はそのために……!」
「賭けだがな。クラカディルが兵士を大勢見張りにつけて巫覡殿を閉じ込めているならば話は別だ。だが」
 なんとなくだが、リューシャはクラカディルはそのようなことを好まないのではないかと思った。
 彼の性格ならむしろ、誰もいない場所にルゥを閉じ込めて一人で世話をしそうだと。
「……ウルリーク」
「はいはい、なんでしょ」
 鏡の中で移動を始めたダーフィトたちを見て、リューシャはこの空間を支えている魔族に声をかける。
「我らを元の世界に戻した後、ダーフィトにつけ。何かあったら援護してやれ」
「おや、いいんですか? あなたの身の安全は」
 ウルリークがこの空間に引き込むのが間に合わなかったため、セルマはダーフィトについて一緒に王城へと行った。リューシャの護衛役がいなくなる。
「大丈夫だ。我も今ではそう……奥の手があるし。ラーラ殿もいる」
「そうですね……じゃ、ラーラさん、リューシャさんをちょっとよろしくお願いしますね」
「はい。身命をかけてお守りします!」
「いえ、ありがたいけどそこまでは……。あなたの主君はルゥさんでしょうが」
 やけに気合いの入ったラーラの返事に苦笑しつつ、ウルリークが再び空間を開こうとする。
 と。
「馬?」
「馬だ」
「いや、なんで馬?」
 嘶きが聞こえてきて、三人は首を捻った。空耳と言うにははっきりしすぎているし、三人が三人共それを聞いている。
 ヒヒィーン
 もう一度近くで嘶きが聞こえ、パカパカと足音も聞こえた。足音? ここはウルリークが咄嗟に開いた異空間なのに?
「あ……」
 仄かな光が闇を照らす。後方からの光だ。
 何かが……というか馬が、どうしてか近づいてくる。
「そう言えばリューシャさん、俺たちあれを忘れてませんでした?」
「ああ、そうか。忘れていたな」
「ってまさか……!」
 予感を覚え、三人は一斉に背後を振り返った。

 ◆◆◆◆◆

「シャニィディルの死体が消えた?」
 相次いだ報告に、クラカディルは動揺を隠しきれなかった。一度はルゥのいる塔に戻ったものの、またすぐに王城に呼び出されたところだ。
 シャニィディルの騎士という身分からクラカディル派に寝返った男の一人が、牢の中のシャニィディルを殺したと報告してきた。裏切ったとはいえかつての主君を人前で見世物のように処刑させるのは辛いと言って。
 しかしそのことを確かめにクラカディルの部下たちが牢に向かって見たものは、大量の血液を残す以外誰の姿もない現場だった。
 確かにシャニィディルをこの手にかけたと狂乱しかける騎士をとりあえず宥め、追って沙汰を言い渡すと一室に監禁する。そしてクラカディルは今後民に向かいどのような発表をするべきかと腹心の部下や協力関係にある貴族たちと話し合うところだった。
「確かに殺したはずの死体が消えた……か。そう言えば……」
「殿下、いかがなさいました」
「ああ、確か豊穣の巫覡の護衛の神殿騎士も、忽然とその場から姿を消したとの話ではなかったか?」
 クラカディルはルゥの護衛でありルゥと親しいラーラの行方を気にかけていた。もちろん、ティーグの死亡が確認される前はティーグも。
 ルゥが二人を逃がそうとしたと言うので、兵を増やして改めて追跡の命を下したのだ。しかし神殿騎士ラーラはもう一歩と言うところで姿を消し、聖騎士ティーグも大量の血液だけを残して消え去った。
 ティーグに関してはあの出血量では到底生きてはおられまいということで、死亡扱いにしてある。だがラーラの方はわからない。
 そもそも、彼女が消えたとはどういうことなのか。報告に来た兵は、彼女が数人の仲間らしき者たちと共に魔術のような光の中に消えたなどと言っていたが……。
 混乱に次ぐ混乱で慌ただしい現場に、更に面倒な事態が発生する。
「アレスヴァルドのディアヌハーデ侯爵?! まさか、この国にいたとは……!」
 ひとまず会議は他の面々に任せ、クラカディルは現在この国で最高の身分を持つ人間として、ダーフィト=ディアヌハーデ=アレスヴァルドを迎えに行った。

 ◆◆◆◆◆

「久しぶりだな。クラカディル王子。二年ぶりか」
 華やかな宮殿の入り口で、その男は一際目立っていた。初めて会った時と同じく、周り中の視線を虜にしている。
 金や茶と言った大地の聖色の髪を持つ人間こそが容姿が良いと讃えられるこの国で、それでもあの乾きかけた血のように暗く真っ赤な長髪は人目を惹く。
 背が高く体格も立派。腰に下げた剣が良く似合う風貌でありながら、貴族らしい高貴さも失わない。二年前に一緒に現れたリューシャ王子が可憐すぎたこともあり、どちらが「王子様」かわからないとまで言わせた青年侯爵。
「ディアヌハーデ侯爵……いえ、ダーフィト殿下とお呼びするべきでしたか」
「単にダーフィトでいいよ。俺も最近環境が変わりすぎて色々と面倒なんだ」
 この青年は確か父公爵を裏切ってリューシャ王子についたのではなかったか? 密かに調べさせた情報ではそうだったはずだ。しかしそんな複雑な立場を微塵も感じさせず、ダーフィトは飄々と笑った。
「聞いてはいるだろうが、俺は今父と仲違いしていてな。どうにも向こうが話を聞いてくれそうにないんで、ちょっと家出を決行していたところなんだ」
「い、家出?」
 庶民のような言葉遣い、言葉選び。そのざっくばらんさに、使用人たちがあちこちでざわざわと声を交わし合う気配がする。
「……伺っております。リューシャ王子はいらっしゃらないのですか」
「二人一緒にいたら目立つだろう。あいつはとっくにこの大陸を出たよ。どうせ国に残しておいても、あいつにとってはろくなことなさそうだしな」
 アレスヴァルドにはナージュ伝てに情報がいっているだろう。もしも確かめられたりしたらすぐにバレる嘘だ。だがいくら友好国とはいえ、タルティアンの人間がそこまでアレスヴァルドの事情に踏み込むことはないと思えた。仮にクラカディルが踏み込んだとしても、ゲラーシムは真実を教えたりしないだろう。
 ダーフィトは今この瞬間だけ彼らを誤魔化せればいいのだ。
「どうして我が国に?」
「しばらくこの辺りの国を捕まらないよう適当にぐるぐる回っていたんだよ。ちょうどタルティアンを出ようとしたら王都の封鎖に巻き込まれてな。無理に出ようとしたら目立つだろうから大人しくしていたんだが、宿に彼らが踏み込んできてね」
 ダーフィトは背後の兵士たちを示す。彼らがダーフィトを連れてきたはずなのに、今ではダーフィトが彼らを引き連れているかのようだ。
「お尋ね者を探していたという話だが、さて、何があったのかな? 直接聞きたいと思ってね」
 アレスヴァルドからリューシャ王子は指名手配されているが、ダーフィトはその限りではない。ゲラーシムの親馬鹿ぶりを諸国では失笑していたが、いざ自分がその対応をするとなれば彼らは最古の大国アレスヴァルドの権勢を前に謙るしかないのだ。
「その話をするには、ここでは落ち着きませんでしょう。お茶の用意をしますから、応接室の方へどうぞ」
 これ以上城の正面入り口である玄関ホールを騒がせたくはない。クラカディルは丁重に、ダーフィトを城の中へと案内した。