第5章 祈りの行方
29.王の血
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一度戻ってきたはずのクラカディルがまた慌ただしく出て行った。
こんな夜中に? 昨日とは態度が違った。何か不測の事態でもあったのだろうか。
ルゥは慎重に感覚を研ぎ澄ませる。
塔の中には自分以外の人間の気配は相変わらずない。
クラカディルは遅くとも朝には一度戻ると言っていた。だとしたら、それまでが勝負だ。
「シャニィ……」
ティーグを失った時と同様、不吉な予感が胸をざわめかせる。
いつか来るはずの日だ。わかっていた。でも可能な限り、その日を遅らせることができたらと願っていた。
ぶるりと体を震わせたのは、決して夜の肌寒さだけが理由ではない。
「大丈夫……一人でも、ちゃんと役目を果たすよ」
ティーグがいない。ラーラがいない。他の騎士たちもいない。
自分がシャニィディルを守らねばならないのに、すでに嫌な予感が胸を離れない。
それでも、役目は果たさねばならない。
自分は、豊穣の巫覡なのだから。
左腕を鎖に繋ぎとめる手錠へと、ルゥは意識を集中する。藁色の髪を一本引き抜いて金属が脆そうな部分に巻きつけた。
「……よっ!」
小さな呪文と共に自らの内側を巡る神力を放出し、手錠を破壊する。
「……やった!」
ルゥは歓声を上げた。しかしその瞬間、軽い眩暈に襲われて再び寝台の上へと沈み込む。
純潔を失い弱体化した体で慣れない術を行使したのだ。このぐらいの反動で済めば安いものだろう。
ルゥは豊穣の巫覡として所謂“奇跡”と呼ばれる術は何度も人前で披露してきたが、こうした魔術的な技はずっと隠していた。豊穣の巫覡の神秘性を保つためでもあるし、こうした場合に備えてのことでもある。
昨年の聖地祭の時も、もしもティーグやラーラが来なければこの力で何らかの反撃をしただろう。
とはいえ、ルゥは魔術師でもなければ武闘家でもない。簡単な鍵開けができたところで、戦う力は皆無に等しい。あの時は二人が来てくれたから無事だったのだ。
今は一人。ただ一人。
ティーグは死んだと聞かされたが、ラーラの安否はわからない。クラカディルはいまだ彼女を確保できていないようだ。ラーラを捕まえたのならば、その無事と引き換えに何かの取引をルゥに持ちかけてきただろう。
ルゥは彼の意識を彼女に向けないよう、あえてラーラの名は出さなかった。ルゥが気にかけているのとそうでないのとで、ラーラにかかる追手の数と執拗さは少しでも変わるといいのだが。
眩暈が治まったところで顔をあげる。
部屋の中を漁り、服を探す。自分がここに連れて来られた時の神子服は目立つ。クラカディルの服を借りることにした。高そうな生地なので後で売って着替えることにしよう。
昨年の事件で、それまで伸ばしていた長い髪をルゥは切った。今は少し伸びて来たが、それでも以前より大分頭が軽い。癖のある髪を帽子の中にまとめて押し込むことができるくらいに。
塔の出入り口にももちろん鍵がかかっている。ルゥはもう一度術を使って鍵を開けた。
眩暈を堪えて壁にもたれながら辺りを確認するが、人気はない。見張りの兵士などは置いていないようだ。
「嘆きの塔……趣味が良いことだ」
外に出て初めて、これまで自分が拘束されていた場所がわかった。ここは何代か前の狂った王子が罪を犯した際に幽閉されていた塔だ。
その王子は完全な狂人であったため、クラカディルのように他と接触させず孤立させるような対策は取られていない。ただひたすら牢獄であったと言う――王城の敷地内にある塔だ。
人気がないのが不思議だが、もともと人の来ない一角に作られた場所だ。それに、城の方が騒がしい。何かあったのだろうか。
何があったか知らないが、これはまたとない好機。王城付近は確かに兵士の数が多いだろうが、ルゥにはシャニィディルに教えられた秘密通路の知識がある。
ルゥは人目を避けながら、とにかくこの敷地内から離れようと歩き出した。
◆◆◆◆◆
「へぇ。そういう事情だったのか」
応接室でのんびりとお茶を飲みながら、ダーフィトは頷いた。
賓客をもてなすのに、今はクラカディルしか相応しい人間がいない。かといって人数を揃えて歓待の用意をという状況でも相手でもなければ、自然と対談は二人きりという形になる。
兵たちがラーラらしき人物が出入りしていると通報を受けた宿の部屋にダーフィトがいた。そのことについてクラカディルが問い質したところによると、ダーフィトはあっさりと彼女との接触を認めた。
「裏通りで名を呼ばれてね。顔見知りだったし、少し手を貸してあげたんだよ」
ラーラの逃亡をこれまで手助けしていたのがダーフィトだという。ティーグの死体を担いだラーラが消えたというのも、ダーフィトの持っていた魔道具の力だと。
あの宿にもラーラは少しだけ出入りしていた。だからそれを誰かに見られたのだろうと。
それが真実か、ダーフィトのついた嘘なのかクラカディルには判断できない。そしてそれが嘘であれ真実であれ、他国の権力者であるダーフィトに対しその行為を責めることができないのは確かだ。
クラカディルの権力が確定されるのは、あくまでも国王として即位してから。それまでの彼はただの簒奪者でしかない。国内でも今は面倒な立場だが、そこに国外の権力者が絡むなど厄介以外の何者でもない。
「――それで、お前は俺をアレスヴァルドに売るのか?」
「売るとは人聞きの悪い。当然、ゲラーシム王には連絡させていただきますよ」
一人息子を溺愛していると内外に有名だったアレスヴァルドのゲラーシム=ディアヌハーデ=アレスヴァルド。元々彼が王位を狙ったのは、王族の血を引くが王族ではない息子を次の王にしたいためだと言われていた。
そのダーフィトが父親から離反してリューシャ王子についたという事実は、両者をよく知る者を納得させつつも事態がどう転ぶかわからない不穏さをも感じさせていた。
ダーフィトが本当にリューシャと別れ、一人でこの大陸に戻ったのであればむしろ好都合だ。
リューシャ王子を生かすにしろ殺すにしろ、どちらによせ血統、能力両方を兼ね備えた次の王は彼しかいないのだから。
他国にとってリューシャの存在はそれ程重視されていない。“総てを滅ぼす”などというその神託が指すのは、アレスヴァルドの滅亡だろうと解釈されているからだ。
そして神託の預言を回避するために、アレスヴァルドはいずれ何らかの理由をつけてリューシャを排斥するのだろうと予測していた。半年前の国王殺害は予想外の展開だったが、ダーフィトが国に戻り王位を継ぐのであれば大方大陸の意志に沿った結末と言える。
「なぁ、クラカディル。そう言えば、ついさっきの王城の発表を俺も聞いたんだが」
「ああ……シャニィディルの処刑ですか。他国のあなたが口を出す問題では――」
「いや、そっちじゃなくて。北西の畑とやらだ。なんでも急に枯れたって?」
「え? あ、ええ。そうなんです」
お人好しのダーフィトのことだから、どうせ処刑をとりやめろなどと言ってくるのだと身構えていたクラカディルは、意表を衝かれて思わず頷いた。
「その話、気にならないか?」
「なりますよ。この国が大地の神の加護を失いかけているという大きな兆候なのですから――」
「そうじゃない」
ダーフィトは再びクラカディルの言葉を遮る。
「一年を通して安定した気候、旱魃や蝗の害もなかった土地で、付近の植物に影響はなくその一部地域の畑だけが枯れる。……できすぎているとは思わないか?」
「――何が言いたいんです」
カップがソーサーに触れてカチリと音を立てる。クラカディルの動揺が指先に現れていた。
「なぁ、クラカディル。お前はその報告を王都で受け取ってからどうした? 現場は見に行かなかったのか?」
「見に行くったって、私は報告を受けた時は幽閉の身で」
「これは神の怒りだからと唆されて、先に国王とシャニィディルを弑し玉座に着くよう言われてそのまま謀反を起こしたのか? 真実を確かめもせずに」
「……ダーフィト殿下」
何が言いたい、と再びクラカディルは繰り返す。
「神はそう簡単に一国を滅ぼしたりしない」
青い炎に宮殿が燃えたシャルカントでさえ、あの一件で滅びてしまったわけではない。人が思う程、神は簡単には動かない。
それを、祈りは届かないと思うのか。神は思慮深く奇跡の安売りなどしないと見るのか。
「なぁ。俺がお前の後見者や支援者、お前について甘い蜜を吸おうとする奴らなら、自分の手で奇跡を演出するね」
「北西部の凶作が、人為的なものだと?」
「そう考えた方がわかりやすいだろう」
ダーフィトが危険を冒してわざわざ直接クラカディルに会いに来た理由はこれだった。
話を聞いた時から不自然に感じていた。あまりにもクラカディル派に都合が良過ぎると。
タルティアンの収穫はここ二十年程ずっと安定していたはずだ。もともと大規模な災害でも起きぬ限り、農産物の安定供給に定評のある国だ。
奇跡は簡単には起きない。だからこそ巫覡は尊ばれ、敬われるのだ。しかも限られた地域にだけそれが起きたということは、何らかの手段で人がそれを成したと見る方がダーフィトにとっては自然だ。
クラカディルも協力してそれを成したのかと反応を窺うが、彼はダーフィトの言葉に動揺している。利用されたのは間違いないが、直接的な関与はないだろう。
所詮タルティアンで権力を握りたい上層部の連中にとって、シャニィディルもクラカディルも能力的には大差ないのだ。
「クラカディル王子。お前は王になるんだろう」
ダーフィトはクラカディルを見つめる。大地の聖色である緑の眼差しは、確かに揺れている。
「だったら、その眼で確かめてみろ。この国の真実を」
◆◆◆◆◆
「ここで俺を使いますか」
「ま、いいからいいから」
呼び出されたウルリークは、呆れた顔を見せた。リューシャといいダーフィトと言い、自分を完全に便利屋だと思っている。そのくせいつも肝心な時には呼んでくれないのだから張り合いがない。
「タルティアンの北西部というと、えーと、この辺りでいいんですか?」
クラカディルが用意した地図の上で指を滑らせる。初めて魔族を見たクラカディルは驚いていたが、まったく動じていないダーフィトに対抗するためか何とか驚愕を抑え込もうとする様が微笑ましい。
「では皆さん、行きますよ」
護衛役としてセルマも呼び、四人はタルティアンの兵士たちには秘密でこっそり城を抜け出すことにした。
「着きましたよ」
お約束の展開というわけで、出発から到着までは一瞬だ。大国とはいえタルティアン国内ぐらいの距離ならウルリークでも転移できる。
ダーフィトやセルマはもう慣れっこだが、クラカディルは初めての魔術体験に腰を抜かす寸前だった。
ただし西側の地域の多くは魔術を排斥したがる傾向が強いので、彼の反応は西の人間として正しい。一番魔術師を排斥するアレスヴァルドの人間でありながらさっさと順応したダーフィトたちの方がおかしいのだ。
「ここが問題の畑か。ウルリーク、明かりをくれ」
「はいな、と」
魔術の明かりが幻想的に照らすのは、収穫を前に無残に枯れたいくつもの畑だ。
ダーフィトは足下の土を見るように地面にしゃがみ込む。
出来過ぎた状況だと募らせた不審は、クラカディルから詳細を聞くにつれ強くなっていった。その地域全土で植物に被害が出るのではなく、人の手が入った畑ばかりで植物が枯れる。しかも同じ種類の作物ではなく、地域で育てている様々な種類の作物が。
畑が総て駄目になるなら天候などなんらかの要因が考えられる。一種類の農作物なら植物の病気が流行っているのかもしれない。
タルティアン北西部の被害状況は、そう言ったものではなかった。そして北西部は隣国アレスヴァルドと接する国境があるが、アレスヴァルドの方でそれらの被害は出ていないという。
「……これだな」
畑の真ん中に跪き、ダーフィトは言った。
「畑の作物が枯れたのは、これが原因だ」
「え?」
指でつまんだ粉を、ダーフィトはクラカディルに見せる。夜の闇と明かりを受けて、それは怪しく煌めいた。
「植物を枯れさせる薬だ。本来は除草剤として使うものなんだが……」
「な、何故そんなものが!」
「決まっているじゃないですかー。自分で植物を枯らしてその罪をシャニィディル王子さんに着せる罠ですよ」
ウルリークがけらけらと笑って告げる。そして彼は普通の神経ではなかなか言えないことを口にした。
「っていうか、あなたの仕業じゃないんですか? お兄さんを殺して王様になりたいんでしょ?」
「だ、だからと言ってこんな手段なんかで……!」
「こんな適当な手段。でも効き目は抜群。この国の人々は聖色なんぞという不安定な目に見える結果だけを頼りに神の心を判断しようとしたから。あなただってその一人のくせに」
「ウルリーク」
嘲りの言葉に、クラカディルは息を止める。
これは間違いなく人の仕業だ。そして自分でなければ、誰がこんなことを命じると言うのか?
決まっている。
クラカディルを王につけることで旨い汁を吸おうとする、彼の支援者たちだ。それ以外にない。
「さてさて、証拠の採取、と。それじゃ城に戻りますか。で、お兄さんもさっさと解放してあげたらどうです」
「それは無理だ」
行き過ぎて感情の抜け落ちた表情でクラカディルは告げる。
「シャニィディルは死んだ。その身を見世物として処刑台などで晒したくないと願う、彼の騎士の手によって」
「!」
ダーフィトが弾かれたように振り返る。口を開こうとして、だが、止めた。
ここでクラカディルを罵倒したところで、喪われた命は戻りはしない。
「そうか……遅かったか……」
本来ならシャニィディルの処刑まで三日の猶予があったはずだ。だが人と人の関係は計画通りには行かないものだ。シャニィディルの騎士とて、主が憎くてその命を奪ったわけではないのだ。
ウルリークも気まずい表情となる。
「……とにかく、城に戻りましょうか。もう遅いですし、このことでやり合うとしても、明日の朝になるでしょう」
――しかしこの翌日、またしても事件が起きた。
「なんだって? もう一度言え!」
早馬の伝令が告げる。
「タルティアン全土の植物が、農作物だけでなく森や街路樹、民家に飾った花の一輪まで、全てが枯れ始めました!」