114
螺旋階段を駆け上がる。自らで決めたくせに、この道のりが遠すぎる。
今日は朝から大きな問題が起きたため、戻るのが遅くなってしまった。ここのことを知っているのは最低限の人間だけだ。鎖に繋がれているルゥのことは、自分がなんとかしなければ。
「ルゥ様! お待たせいたしました……――ッ!」
クラカディルは息を切らしながら、部屋の中を見回した。誰もいない部屋の中を。
「っ……ルゥ様?!」
寝台からは温もりが消え、そこには人のいた気配はなかった。どこにも。
◆◆◆◆◆
大地神の怒りを買った。
もはや王都のみならず国中を噂が駆け巡った。
神殿からは何の回答もない。確証のない事実だが、善良な民は皆神の意志を信じた。
人間たちの愚かな振る舞いに、大地神が怒っているのだと。
国中の植物が枯れた朝。
一度城を空けたクラカディルは、すぐに戻ってきた。青ざめた顔で何事か指示を出す。彼のもとには引っ切り無しに、民衆への対応に追われた兵士や役人たちがやってくる。
「クラカディル殿下! これはどういうことなのか説明しろと、民が……!」
「シャニィディル殿下をすぐに処刑するべきだと言う声があがっております!」
「いえ、これはむしろ罪なき国王陛下を弑し、今またシャニィディル殿下まで脅かそうとする殿下の振る舞いに神がお怒りなのだと――」
人々はあちこちで皆己の言い分を叫ぶばかり。
対応に追われて疲れ切ったクラカディルがようやく休めたのは、昼過ぎのことだった。
「殿下、豊穣の巫覡を出せと言う声が――」
「今、準備中だ。しばし待てと伝えよ」
「ですが民が納得しません」
「殿下はお疲れだ! 訴えはまた後程聞く! 今は控えよ!」
怒号の飛び交う城の廊下を過ぎ、彼は一つの部屋へと辿り着く。
「顔色が悪いぞ」
「当たり前だ。こんなことになって……」
クラカディルが逃げ込んだ場所は、賓客であるダーフィトの部屋だ。ここには生半な立場の者は踏み込むことができない。
「俺も噂の断片しか聞くことができなかったが、一体何があったんだ?」
タルティアンの侍女たちはダーフィトにとにかく部屋に出ないよう頼み込んで、朝から出払っている。騒がしい外の空気に、この城がただならぬ事態に置かれていることはダーフィトにもわかった。
朝食どころか昼食にも遅すぎる今日初めての食事を胃に流し込みながら、クラカディルが何度も繰り返した説明を端的に投げ付ける。
「国中の植物が枯れた。今度は畑の作物だけではない。作物はもちろん山々の木々も家々の切り花も全て、タルティアンの植物全てだ」
苛立つその声音に動じることなく、ダーフィトは豪奢な長椅子に腰を埋めながら窓の外の景色を見遣る。
「なるほど。ここから見える奥庭も丸裸だな」
大地の神を奉ずる国でなくとも、これは明らかな異常事態だ。ここまで範囲も規模も大きければ隠しようがなく、そもそも国内全土に起こっていることであり、民の全てが知るところとなった。
「一体、何がどうなっているんだ……?」
昨夜ダーフィトたちと共に城の外に出て、畑の作物が枯れたのは人為的なものだと調べたクラカディルは今日それについて心当たりを問い質すつもりだった。だが、それどころではなくなってしまった。
「ウルリーク」
「はぁい」
ダーフィトが唐突に名を呼ぶ。何もない中空から、美しい淫魔は再び現れた。
「今の聞いてただろ? ちょっと調べて来てくれるか?」
「はいはい。また使いっぱしりですか。いいですよ。護衛はセルマさんに任せますから」
ほとんど喋らないが一応セルマもこの場にいる。ウルリークは二人に頷いて、また転移でこの城の外へと出て行った。
「どうしてだ……何故こんなことに……」
「さすがに今度は、人の仕業じゃなさそうだな」
一夜にして国中の植物と言う植物が枯れた。家の中の花瓶の切り花さえも。そんなことが人為的な技であってたまるか。それこそ、創造の魔術師ぐらいしかできる人間もいないだろう。
「大地神の怒りねぇ。俺はディオー信者じゃないからなんとも言えないが」
「怒り? 今更何を怒ると? シャニィディルに聖色という加護を与えなかったのはディオー神御自身ではないか。アレスヴァルドのように、彼を害するなと神託を出したわけでもない。それを……」
「そう言えばこの国には、豊穣の巫覡という存在がいなかったか? あの子なら大地神の声も聞こえるんだろ? 神様がなんて言ってるのか、聞いてみればいいじゃないか」
これまで迂闊に聞くことができなかった豊穣の巫覡の存在をさりげなく口にする。が、さりげないと思っていたのはダーフィトだけで、その意図はすでにクラカディルに見破られていたようだ。
「私に探りを入れようとしても無駄ですよ、閣下」
「あ、あれ?」
「神殿騎士ラーラと接触したと御自分で口にしていたでしょう。彼女と接触があったということは、豊穣の巫覡が私の配下に追われていたことも聞き及んでいるはず。死体が見つからないティーグ=ハルディードの件に関しても、すでにあなたは関わりを持っているのでしょう。それこそあの魔族が隠しでもしているのではないですか」
嘘を吐くためには幾つかの真実を混ぜればいいと言うが、今回はやりすぎたようだ。ラーラのことに関して問われたのである程度本当のことを言ったのだが、彼女とダーフィトの繋がりなど豊穣の巫覡を介してしかありえないわけで、必然的にルゥの話題に触れざるを得なくなる。
「悪い悪い。俺としてはやっぱり、可愛い女の子の味方をしてやりたいもんだからさ」
「可愛い? あれが?」
どうやらクラカディルとラーラは不仲のようだ。
「……どちらにせよ、無意味なことですよ」
「なんで?」
「……ルゥ様には逃げられてしまいましたから。塔の中に閉じ込めておいたはずなのに、どうやってか手錠を外し、扉の鍵を開けて出て行ってしまった」
「手錠……」
やはり無理な方法でルゥを監禁していたらしいクラカディルの告白に、ダーフィトは顔を引きつらせる。
「……どうして、そんなことをしたんだ? シャニィディルのことを不吉だと疑っていたのなら、そのことについてもっと豊穣の巫覡殿と話し合えば良かったじゃないか」
忠告と言うには遅すぎる言葉。あるいはこれはクラカディルの胸を抉るだけかもしれないと思いながら、それでもダーフィトは尋ねずにはいられなかった。
シャニィディルの味方をしていた豊穣の巫覡ルゥは彼に大地神の加護がないとは決して言わなかったはず。聖色を持とうと持つまいと大地神の意志を聞けるのは豊穣の巫覡だけなのだから、神の意志に疑いがあるのなら、ルゥともっと交流するべきだったのだ。
「あの人が欲しかったから」
ぽつりと呟いたクラカディルの声音はただただ寂しい。
手錠で拘束してまでルゥを監禁していた人物と言うにはその声音はあまりにも寂しく、寒々しく響く。病んでいるようでそうではない。これは――。
「シャニィディルには渡したくなかった。あいつだけじゃない……あの人を誰にも渡したくなかった……」
絶望を含んだ諦観。そんな風にダーフィトには聞こえた。まだ十四歳の少年が抱くには、あまりにも悲しい感情だ。
「でも巫覡殿はシャニィディル殿下のことに対してずっと庇い続けていましたよね。その言葉を、あなたは信じなかったわけでしょう」
それまで静観していたセルマが口を開く。呆気にとられるダーフィトの前で、彼女は淡々と容赦なく告げた。
「自分を信じてくれない人のことを、信じるのは難しいですよ。巫覡殿にあなたの想いが届かなかったのは、あなたがまず巫覡殿の言葉を信じなかったからでは」
「せ、セルマ……」
ここにリューシャがいたらどうせ同じことを言っていたかもしれないが、傷心の国を背負った少年に対しあまりにも容赦ない言葉だ。
もっとも、ダーフィトとセルマはクラカディルがルゥに対して行ったことを知らない。それを知れば、ダーフィトの意見はまた変わったかもしれない。
ここでそれを知っているのはクラカディルだけだ。だから彼自身は、セルマの言葉に顔色を変えた。彼女に糾弾の意志はなくとも、罪の自覚がある本人は責められたように感じた。
今やシャニィディルどころか国そのものから大地神の加護が消えた現状。民の心は大地神の言葉を聞くべく豊穣の巫覡の存在を今まで以上に望んでいる。
だが、今のルゥにこれまでのような強力な神力はないはずだ。神子の力は純潔を守ることによって保たれる。
クラカディルはルゥを穢し、彼の力を奪った。その身も心も、例え神にでさえ渡したくないと。
シャニィディルの死が、大地神にとってどれほど意味があるのかなどクラカディルは知らない。今頃になってそんな風に人に報いを与えるくらいなら、最初から奴に聖色を与えておけば良かっただろうと開き直るばかりだ。
だけど彼は、豊穣の巫覡を穢した。他のことはまだしも、それは間違いなくクラカディルだけの罪。
「だからなのか……私が豊穣の巫覡を蔑ろにしたから……これはその報いなのか……?」
「さぁ、どうでしょうね~?」
独り言にのんびりとした返答がかえる。
「ウルリーク、戻ったのか」
「ええ。たった今」
先程転移で出て行ったウルリークが、再び転移で部屋の中にまで戻ってきた。魔術師とはつくづく便利な力を持っているものだ。
「それで、どうだった?」
「なんとも言えませんね」
息せき切って問いかけるダーフィトは、その答にがっくりと肩を落とす。何のために調査に出したと思っているのだ。
「そうあからさまに落ち込まないでくださいよ。俺なんてその辺の善良な一般淫魔なんですから。そんな高度な技を期待しないでくださいって」
「“傾国”の大淫魔なんじゃなかったのか?」
「人間相手ならともかく、枯れた植物相手に俺のお色気大作戦がどう通用するって?」
それもそうだ。ダーフィトは気を取り直して詳細を尋ね直す。
「何かわかったことはあるか」
「とりあえず人間業じゃありませんね。この国のあちこちに飛んでみましたが、嘘だったり罠だったりするわけじゃなく、どこでも本当に植物が枯れています。王都の中の街路樹や民家の軒先の花もそうです」
ウルリークはダーフィトが感じたのと同じことを告げる。すなわち、こんなことが実際に出来るのは神かもしくは辰砂くらいだと。
「辰砂がそんなことするわけありませんし、被害が出ているのはこの国だけですから大地神が噛んでいるのは間違いないでしょうね」
「大地神の影響というところに間違いはないのか? つまりそのー、えーと、あれだ」
「リューシャさんが何か関与してないかって? 大丈夫ですよ。いくらあの人でもそんなことする必要も利点もなければ、こんな微妙なさじ加減もできませんてって。あの人の力ならせいぜいこの国燃やし尽くして更地にして地図の上から消すぐらいですよ」
結果としてはそちらの方が恐ろしい。とりあえず神としてのリューシャが関与していないと保証されて、ダーフィトは安心した。
「……ふうん。やはりいるんですね。アレスヴァルドの神託の王子」
「あ、やべ。バラしちゃった」
ウルリークがてへっと舌を出す。これまでのダーフィトの健気な努力を返して欲しい。
「まぁいてもこの事態をどうにもできない人の話なんかしてもしょうがないでしょう。それよりも、大地の神の話ですよ」
「なんとも言えないんじゃなかったのか?」
「そりゃあ俺は豊穣のほにゃららさんじゃありませんからね。大地神のことなんぞ知ったこっちゃありませんよ。だから確定ではないんですが、ちょっと気になったんですよね」
ウルリークは、彼にしては珍しく自信なさげにそう前置きして告げる。
「この国の植物の様子は、まるでディオー神の力の衰えを示すかのようです。これは怒りではなく……大地神の悲鳴なのではありませんか?」