Fastnacht 29

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「そうか。巫覡殿はもう脱出したのか」
 変装して街中をひたすら歩き周り情報を集めていたリューシャとラーラは、翌日になってウルリークからその報告を受け取った。
「クラカディル王子が大分消沈していましたよ」
 用がない時は異空間に引っ込んでいるウルリークには、クラカディルも見張りをつけようがないようだった。それだけではない理由で今国中が騒がしく、ウルリークはあっさりと城を抜け出すとリューシャたちに報告した。
 今日は朝から宿の中が騒がしかった。リューシャたちも実際に起きてきてすぐに異変に気付いた。
 街のあちこちにある植物が枯れてしまっているのだ。昨日まで青々としていた常緑樹の街路樹が干からびたように茶色く枯れ切っている姿は王都中に驚愕を運んだ。
 なんでもこの異変が起きているのは、王都だけではないらしい。
 今日になってタルティアン全土で同じことが起きているようだ。畑の作物どころではない、山や森が丸々全て枯れてしまっている。
「何ということだ……」
 街のあちこちでは動揺しきった人々の姿が見られる。神殿に押しかける人数は、むしろ昨日よりも増えていた。
 彼らは口ぐちに叫ぶ。豊穣の巫覡のお姿を見せろ! ルゥ様、我らをお救い下さい!
 このままでは暴動に発展する一歩手前のところで、またしても王城から発表があった。
 二日後に予定していたシャニィディルの処刑、そしてクラカディルの戴冠式を明日に早めると。その時に豊穣の巫覡も姿を見せる。
 今は豊穣の巫覡も大地神に必死で祈りを捧げている最中だからと、兵士だけでなく神官たちまでが出てきた集まった人々を追い返した。
「この国は、一体どうなるのでしょう?」
 ラーラが悲痛な表情を浮かべる。リューシャは強いて冷静な口調で言った。
 この国で誰よりも大地神のことを知っているのは豊穣の巫覡ルゥ。そしてクラカディルの下を脱出した彼は、言いなりの神子ではなく“豊穣の巫覡”として役目とやらを果たしに明日の戴冠式に姿を見せる可能性が高い。
「全ては明日だ。明日には恐らく、この国の全てが明らかになる」

 ◆◆◆◆◆

 少女は一人、水張りの託宣の間で祈りを捧げていた。
 幼い少女だ。まだ十になるやならずや。タルティアンの民に多い茶の髪に緑の瞳という色彩を持っている。それは大地の聖色だ。
 ここはタルティアン王都に存在する大地神の神殿である。託宣の間は、代々の豊穣の巫覡が大地神ディオーに祈りを捧げ、神託を受け取る儀式の間だった。
 神殿の最奥にある託宣の間には小さな水路から水が流れ、床の上を足首程まで浸している。その水面を色とりどりの花が流れていくのが本来ならば美しいのだが……今はその花たちでさえ、黒く枯れきっていた。
 物悲しいその水面に視線を落とし、凍える両手を組んで少女は祈る。
 彼女は、クラカディル派が見出した次代の豊穣の巫覡。神子としての素質を認められた、巫覡見習いだった。
 しかし。
「だめ……」
 俯き一心に祈りを捧げていた少女は頭を上げる。あどけない顔立ちがくしゃりと歪み、たちまち涙に暮れた。
「聞こえない。何も聞こえないよ! 私じゃだめなの……」
 まだ修業期間を終えるどころか、先代巫覡が健在だった以上、見習いとして勤めるのも初めてだ。その彼女が今こうしてここにいるのは、クラカディル派に強硬に命じられたからだった。
 先代豊穣の巫覡はその資格を失った。だからお前が次の豊穣の巫覡だ。明日のクラカディル殿下の戴冠式までに作法を覚え、豊穣の巫覡としての役目を果たせ。
 無茶な命令だとしても、病気の母を抱えた少女としては受けるしかなかった。彼女自身の意志としても、自分が神子としてこの国のために何かできるならばしたいと思う。けれど。
「どうして……? ディオー様の気配がしない。わからない。わからないよ。こんなの初めてなんだもの!」
 本来次代の指導をするべき先代豊穣の巫覡本人がいない。どうしてと聞くと、彼女をここに連れてきた兵士たちは怖い顔をした。
「ルゥ様……ルゥ様……」
 クラカディル王子は彼女の指導のために、巫覡の儀式作法を知る人物を探している。しかし数も少なければ今は王都にいない者ばかりで、明日までに連れてくるのは無理そうだ。
 先代豊穣の巫覡、ルゥはどこに行ってしまったのだろう。昨年の聖地祭。自らの長い髪を切り落とし黄金の麦の穂へ変えて見せた彼の奇跡を、少女は一市民として目の当たりにした。あの日からルゥは彼女の憧れであり、彼に近づくためこれまで一生懸命神殿の小間使いを務めて来たというのに。
 この神殿内部にはクラカディル派の兵士もいない。外を警護という名目で見張っているのは彼らだが、中へ入るのは必要なとき以外遠慮しろと、元々神殿に住んでいた神官や神殿騎士たちが告げた。
 ここはタルティアン王国で最も神聖な場所。いくら次代の王と言えど、その場所を踏み荒らすつもりならば考えがあると。その代わりに彼らは、次の豊穣の巫覡として彼女が託宣の間で祈ることは受け入れた。
 それでも彼らの眼差しは、クラカディル派から強制的に押し付けられた新たな豊穣の巫覡に対して冷たい。彼らにとって豊穣の巫覡と言えばルゥなのだ。
 そして少女自身も……本当は、そう思っている。
「私じゃ力が足りないの」
 床に張られた冷たい水面にぽつりと涙を落とした。その時だった。
「そんなことないよ」
 聞き覚えのある声がした。
「え……」
 その人は遠目にも鮮やかな金の髪。近づくことはあまりにも畏れ多く、今まで遠巻きに見ていることしかできなかった姿。
「ルゥ様……!」
 少女は泣いて彼に駆け寄った。以前の身分では本来気安く触れることも許されない程立場の隔たりがあるはずだったが、今はそんなこと言ってられなかった。
「ルゥ様、わたし、わたし……!」
「大丈夫。落ち着いて」
 疲労が見せた夢でも幻でもない。どこから来たのかもわからないが、ルゥは今確かにここにいる。人肌の温もりを感じ、少女はますます彼にしがみついた。
「ルゥ様、御無事だったのですね……! 私は、次の豊穣の巫覡となれと選ばれた者です。ですがルゥ様がいらっしゃるのなら、私など……」
 彼女を次の巫覡として選びここへ連れてきた大人たちは、誰もルゥの安否に関して教えてくれなかった。ただ彼は資格を失ったとだけ告げて、有無を言わさず彼女が次の神子となるよう神殿に捻じ込んだ。
 だがなんということだろう。資格を失ったなど嘘。ルゥの体からは今でも暖かい神の加護を感じる。
「君の名前は?」
「アナイスと申します」
 少女、アナイスはそこで改めて名乗った。
 神殿の小間使いとして勤めていたとはいえ、彼女はルゥの前に出られるような身分ではなかった。通り過ぎ様に姿を見ることぐらいはできても、豊穣の巫覡に名乗るようなことは今までなかったのだ。
「そう。アナイス、よく聞いて」
 彼女の両肩を掴み、ルゥは言い聞かせた。
「俺はもう豊穣の巫覡ではなくなる。だから君が、このまま次の豊穣の巫覡となるんだ」
「え……」
 自らとルゥの力の差は歴然だ。それを今まさに感じていたアナイスは、ルゥの言葉に動揺を隠せない。
「ど、どうしてですか?」
「行かなければいけないところがあるんだ」
 ルゥは言った。とても優しく笑って。
 だからアナイスは、それはきっと幸せな場所なのだろうと信じた。そこに行けばもう、痛みも悲しみもなくなるような永遠に幸福な場所だ。
「そう……なのですか? でもルゥ様、明日は……」
 シャニィディルの処刑は本来三日後――今からなら二日後に予定されていた。しかし国中の植物が枯れると言う凶事が起きたことにより、クラカディル派は行動を早めた。
 もう明日にはシャニィディルの死亡を発表し、クラカディルの戴冠と新しい豊穣の巫覡の継承を行う。
「俺も行くよ。でもそれは、豊穣の巫覡としてじゃない」
「……大事なお役目なのですね」
 アナイスには何もわからない。少女にはこの国を巡る王族や権力者たちの思惑などわからないし、ルゥやシャニィディルが置かれていた立場もクラカディルの野心も何もわかっていなかった。
 けれど彼女は次の神子だ。大地の神の声を聞く者だ。ルゥが神から与えられた何らかの使命を帯びていることだけは、魂で感じられた。
「そうだよ。だから君にも協力してもらいたい。……ちゃんとずっと傍にいて引き継ぎしてあげられなくてごめんね」
 明日の戴冠式が終われば、ルゥは先程言ったように、遠いどこかへ行ってしまうのだ。アナイスはそれもまた彼の言葉や表情から感じ取る。
 しっかりしなければ、と思った。
 彼女に豊穣の巫覡としての役目が与えられたように、ルゥには大切なお役目があるのだ。そのために今頑張っているのだ。だから彼女も頑張らなければいけないのだ。
「いいえ。ルゥ様。私、頑張ります」
 拳を握り強く頷いた少女を見て、ルゥはにっこりと微笑んだ。