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シャニィディルの処刑を行うと宣告していた期日を変え、すぐにもクラカディルの戴冠式が行われることになった。
新しい豊穣の巫覡の発表もそこで行われる。
国中の植物が枯れて一気に冬が来てしまったかのような荒涼とした景色にも関わらず、その日は朝から晴天だった。
雲一つない青空で、太陽ばかりがその慈悲たるやわらかな光を投げかける。
「神の意志はわからないのだろう?」
控室。賓客ではあるが、公式の訪問ではないため式典を遠くから見るに留めるダーフィトが、出陣直前のクラカディルへと声をかける。
もとよりいくら戴冠式と銘打っても、これは所詮簒奪だ。列席者はクラカディルの即位に賛同した彼の協力者だけで、それも皆それぞれの思惑を裏に抱えているという寒々しい式でしかない。
「シャニィディルに全てを押し付ける気か?」
「ええ。これは絶好の機会。人の悪意と神の意志が引き起こした奇跡なのですから」
新しく豊穣の巫覡として見出された少女アナイスは、大地神の声を聞くことができなかった。
彼女の力が不足しているわけではないことは、彼女を次の巫覡として用立てたクラカディル派が一番良くわかっている。それでも神の声が聞こえぬというのは、建国以来の非常事態だ。
国内全土の植物が枯れた時点でそうだ。タルティアンは本当に、大地神の加護を失ってしまったのかもしれない。
それでもクラカディルはこの十四年間望み続けた場所を手に入れるために、偽りの冠を戴く式に臨む。
「私は玉座が欲しかった。王位に手の届く立場に生まれて、玉座を望まぬ人間がおりますか? あなたはどうなのです? ダーフィト=ディアヌハーデ=アレスヴァルド」
ダーフィトの現在の名はダーフィト=ディアヌハーデ。リューシャの現在の名はリューシャ=アレスヴァルド。
アレスヴァルドやこの青の大陸、他大陸でも多くの地域では、名と主姓、副姓二つを繋げて三つの名を名乗ることか、もしくは名と主姓だけを名乗ることが多い。
ダーフィトのディアヌハーデやリューシャのアレスヴァルドは現時点での彼らの主姓だ。そして二人とも本来はきちんと副姓がある。青の大陸では名、副姓、主姓を全て順に名乗ることもよくある。
伝統ある最古の王国の王族でありながら二人が自らの名を略すのは、それが後に変わる可能性があることを示している。特にダーフィトはその可能性が高かった。
今はディアヌハーデ侯爵のダーフィトだが、リューシャが国を継がずダーフィトが継ぐことになる時は、アレスヴァルドの姓を名乗ることになる。
ダーフィトはエレアザル王の血縁としてその養子になり国を継ぐと目されていたので、いずれ国の名を主姓とする“ダーフィト=ディアヌハーデ=アレスヴァルド”という名を名乗るだろうと考えられていた。
ダーフィトに関してその名を使う時は、彼が次のアレスヴァルド王であることを強く意識していることを示す。
一方リューシャはもし穏便に王位継承権を譲るならば、王族籍を捨て他の姓を頂き、それが主姓となる可能性があった。
クラカディルはダーフィトに尋ねる。
「なりたくはありませんか? 王に」
しかし問いかけてはみたものの、クラカディルとしてはダーフィトの答を必要とはしていなかったようだ。ダーフィトが何と答えようと、クラカディル自身の選ぶ道はもう決まっているのだから。
昨夜はなんとか時間を見つけ、北西部の人為的な凶作に関して犯人を突き止め、真意を問いただした。
だが答は受け入れがたくもわかりきったこと。彼らは言う。あなたのためだと。
クラカディルは王になりたい。彼らはクラカディルを王にしたい。
そのために、他の誰をどれだけ悲しませたとしても。
今更綺麗事は言えない。クラカディルとて、すでにルゥを傷つけた。昨年の計画の時からそうだ。あの事件で傷つくのはシャニィディルだけではなく、ルゥも同じはずだった。結局そうはならなかったけれど。
「……本当に、それでいいのか?」
ダーフィトはクラカディルに尋ねる。
望みが叶う記念すべき日だと嘯く彼の表情は、決して晴れやかなものではなかった。
何が正しいかなんてもうわかっている。
それ以上に、その道を選べないこともわかりすぎている。
「シャニィディルが普通の……聖色を持つ王子であれば、私の一連の行動はこの国に対する反逆にしかならないでしょうね。けれどすぐ上の兄は聖色を持たず、それを差し引いても人に認めさせる程の人物ではなかった。私はこの国のためにも、自分が王になるべきだと考えました」
本人の意志ではないとはいえ、国に仇を成したクラカディルが王の器と言えるのかどうか、ダーフィトにもわからなかった。
彼が最高の王になれないとしても、ではシャニィディルだったらクラカディル以上の王になれたのか?
比べることのできない立場にて、それでも二人を比べる。
「あなたは本当にそう考えたことはないのですか? アレスヴァルドで最も玉座に近い男とされたダーフィト閣下。リューシャ殿下がもし何事も起こさずとも、王としての教育を受けていない彼をそのまま玉座に着かせることに不安を感じたことはありませんか?」
リューシャとシャニィディルの立場が似ているように、ダーフィトとクラカディルもまた似ていた。クラカディルの生き様は、ダーフィトにとっての鏡だ。
「私は不安だった。だから自分が王になるしかないと考えた。私の愛する者が、私と敵対しても」
大事な再従兄弟。大事な父親。ダーフィトには選べない。
クラカディルは父や兄の命と国を天秤にかけて国を選ぶことができた。それだけの違いだ。
ほんの少し歯車がずれていれば、クラカディルがこうして簒奪を起こす前に、ダーフィトの方がアレスヴァルドで王位を得ていたかもしれない。
ダーフィトは国よりも家族が大事だ。もちろん民のことも大切だが、愛する家族があってこその王国。罪なき者を傷つけてまで王位に着こうとは思えなかった。そのために何万と言う無辜の民が苦しんだとしても。
アレスヴァルドでリューシャに不安を感じてダーフィトが即位するよう働きかけていた一派は、そのことを見落としていたのだ。
「もしもリューシャが、その能力のないまま王になったとしたら」
先の質問に、ダーフィトはようやく答えた。
「王になるための教育を受けてきた俺は、全力でリューシャを支える」
「――!」
クラカディルが息を呑む。
「リューシャをあのように育てたのは国の意志で、リューシャに罪は何もない。それは国のためで、俺が帝王学を学ばせられたのも国のためだ。だから二人で力を合わせて、二人で国のために力を尽くすよ。もしもリューシャの神託が国に仇なす時が来たら、その時だって二人でなんとかしてみせる」
凍りついたクラカディルの表情が秋の日差しに段々と溶けていき、やがて大きな笑い声となった。
「あ、ははは。あはははははは! ああ、そうか! やはりあなたはそう言う人だ!」
目尻に浮かんだ涙を浮かぶ。笑い涙と言うには、その目元の縁は痛々しい程に赤い。
「ふ、ふふふ。そうか。自分では高潔を通したつもりでも、やはり私の望みは薄汚い我欲に過ぎなかったのか……」
クラカディルとダーフィトの立ち位置はほんの少し似ているが違う。クラカディルは兄を嫌っているがダーフィトは再従兄弟を愛している。
けれどそれを差し引いたとしても、自分にダーフィトのような考え方はできないとクラカディルは思った。
王となるのはただ一人。敗者は蹴落とされるだけだと。そして王となるべき者が複数いるのであれば、どちらかが勝った暁には敗者は勝者を憎むものだとばかり考えていた。
王になりたいと思っていた。シャニィディルを蹴落として。国のためにはそれが正しいと信じていた。シャニィディルに大地神の加護がなければ自分が支えるなど、思いつきもしなかった。
ああ、でも、そうだ。
ルゥは、豊穣の巫覡は、ずっとそうしていたのだ。シャニィディルの存在のみでは不安だとされる役目の諸々に、ルゥは彼を支えるために出席し続けた――。
ルゥやダーフィトにできたことが、クラカディルにはできなかった。
「お前は孤高だ、クラカディル。ただ一人の強き王が求められるのであれば、本当はお前のような性格で正しいのかもしれない」
「今更下手なお世辞はよしてくださいよ。真の王の器ならば、統べる国を選ぶなんてことはしない。タルティアンの王族として生まれてきた以上、私は他の全ての国で王失格と蔑まれても、この国にとって相応しい王になるため研鑽せねばならなかった」
目の前の男との距離を、クラカディルはようやく思い知る。ここが自分の限界なのだ。
ルゥはそれを知っていたから、クラカディルには目もくれなかったのだろうか。
塔を脱出したルゥが今どこにいるのかクラカディルは知らない。少数の配下に昨日一日かけて探させたが、ついに見つけることはできなかった。
だけど予感がする。
建国以来一、二を争う力を持つ豊穣の巫覡。ルゥは決してタルティアンを見捨てはしない。
どうせもうすぐ会える。彼は必ずクラカディルの即位式典に姿を現すだろう。この茶番劇を終わらせるために。
「……それでもいいさ」
「クラカディル」
「ここまで来たらもはや引き返せません。父王もシャニィディルも殺し、この国の王という存在を奪った。他の人間に出来ない以上、私が王として立つしかない」
盛大なお膳立ての結果、盤上からはクラカディル以外の駒が消え去った。後に残された弟たちの力はまだ彼には及ばない。この先余程のことがない限り、クラカディルが王位に着くしかない。
「その私自身さえ、所詮誰かの傀儡でしかないとわかっていても」
これは演出された奇跡だ。
新しい豊穣の巫覡を抱きこんで、クラカディルは彼女に自分にとって都合の良い託宣を出させる。
国に起きた不幸を全て死んだシャニィディルに押し付けて、他者の悲劇を踏み台に玉座へと上り詰める。
王になりたかった。だがもしもこの方法で自分が王になれたとしたら、やはりこの国に、もう大地神の加護などないのだろう。
誰よりもクラカディルがそれを知っている。それでも舞台へ上がらずにはいられない。
頂点に上り詰めるか奈落の底へ叩き落されるのか。運命定める審判の舞台へと。
「私は行きます、ダーフィト殿下」
少年は微笑んだ。
「さよなら」
「クラカディル――」
まるで二度と会えないかのような口調で告げられた別れに、ダーフィトは目を瞠る。
鐘が鳴る。式典前に鳴る最後の鐘が。侍従たちがクラカディルを呼びに来た。
そして聖色の王子は、戻れない道を進むために歩んで行った。