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「私はこの三年、ずっと嘘をつき続けてきました。自分がこの国一番の神子であるという嘘を」
代替わりして次代に“豊穣の巫覡”の名を譲ったばかりのルゥの言葉に、人々は驚きざわめいた。老いも若きもなく、あちこちで顔を見合わせては囁き合う。
「ルゥ様」
背後からかけられた声に、ルゥはようやくクラカディルと向かい合う。
巫覡の正装を纏うルゥは、その名を失ってもなお神々しい。人の手に余る程の奇跡を行う神の子。
しかし近くで彼の様子を見て、クラカディルはルゥがその額に薄らと汗をかいていることに気づいた。顔色も神のように白い。
アナイスがルゥの身を労わるように支える。
それでもクラカディルは、次の王として彼に問い質さなければならなかった。
「……それは、どういうことですか? あなたは不正に“豊穣の巫覡”の座に着き、タルティアンの民を謀っていたのですか?」
「いいえ」
ルゥは首を横に振る。
「私が国家に認められた巫覡であったことは事実。ただし――“豊穣の巫覡”とは、本来国で一番大地神の加護を受けたる者が名乗るべき称号」
「まさか」
「そう。私は、この国一番の神子ではありません。私より強い力を持つ……まさしく神子としか言えない存在が、この国に同時に存在していた」
眼下の民衆だけではなく、儀式会場の貴族たちもざわめいた。今はクラカディル派としてここにいても、三年前にはルゥが豊穣の巫覡の座につくのを見守った者たちもいる。彼らは彼らでその時も真剣に最もディオーの加護厚い者を探したのだ。それが間違っていると言われ、動揺せざるを得ない。
クラカディルが緑の瞳を鋭く眇めつつ、ルゥに問う。
「誰なのです、それは」
この事態全ての鍵を握る、大地の神の加護が消えたこの国で今なお強い力を持つ神子たち、その頂点に立つ者の名を。
「それは――」
ルゥはゆっくりと息を吸い、声を響き渡らせた。
「シャニィディル=フューナス=タルティアン。彼こそが私の知る限り、最も神の力を持つ者」
王都中から音が消えたかのような静寂が場に落ちた。
長い長いその静寂の果てに、人々は今までより一層動揺激しく口を開いた。
「シャニィディル……?」
「シャニィディル殿下が?」
「そんな、まさか」
「嘘だろ……!」
これまで十五年間のタルティアンの認識を覆すような話だ。誰もが皆驚くばかりで、ルゥの話を受け入れるどころか、疑うことすらもできない。
「嘘だ!」
その中で真っ先に異を唱えたのは、やはりクラカディルだった。
「シャニィディルこそが最も大地の神の加護を受けし者? そんなことはありえない!」
それが真実だと言うならば、今までクラカディルがやってきたことは何なのか。
ルゥは悲しげな眼差しでクラカディルを見つめる。
悲しげではあるが、その瞳は上から見下す憐れみではなく、クラカディルと今こそ向き合う闘志をも湛えている。
「……神の力と言えば、皆さんは何を思い浮かべますか?」
突然の問いかけに、人々は惑いつつも頭を働かせた。元より答を聞くための問いではなかったらしく、ルゥは構わずに言葉を続ける。
「大地の聖色と言うのは、大地の神の加護を身に受けた証」
だから聖色を持たぬ者は大地神の加護がないとされ、“無恵”と呼ばれていた。
「この国は世界中のどこよりも大地神の加護を受けた国。だから大地の神の身に起きた変化をどこよりも早く強く受ける。聖色もその一つに過ぎません」
国から神の加護が消えたのは、大地の神に忌み嫌われた無恵の王子シャニィディルのせい。誰しもがそう考え、クラカディル派はその思考を利用しようとした。
「この国の植物が一斉に枯れ始めたのは、国を守護する大地神ディオーの御力が弱まったからです」
ルゥの告げる衝撃的な事実に、民衆の間からも疑問が飛ぶ。
「何故! 何故神の力が弱まったりする!」
「それは……」
ルゥはちらりと、自分が出てきた背後の入り口を見遣った。通路内の暗闇に隠れてリューシャがいる方向に。
「今この時が、そういった星回りなのです。神の力は永遠ではない。かつて辰砂と呼ばれた創造の魔術師が神々に反逆し幾人もの神を殺すことができたことからも、それは明らかでしょう」
突然の辰砂の名に、人々の顔に嫌悪の感情が浮かぶ。信仰深い西の土地でも大地神という特定の神を信仰するタルティアンでは、その名は良い印象を持たない。
「神との繋がりは、必ずしもその加護を受けるだけではありません。代々の豊穣の巫覡たちがディオー神に語りかけてきたように、人から神へと手を伸ばすこともできる。……人が神を殺すことも」
ぎりり、とクラカディルは唇を噛んだ。
「何が言いたい」
ルゥが振り返る。
「それで、あなたは結局何が言いたい」
睨み付けるクラカディルの眼差しに、真っ向から対峙した。
「シャニィディル殿下は」
ルゥはずっとこの日を待っていた。運命が果たされる。
「力を失った神ディオーの憑代として、次の大地神となるべき方なのです」
どこかで馬の嘶きが聞こえた。
「何を馬鹿なことを……! 人間が神になる? それもあのシャニィディルが?! そんなこと、ありえる訳が――」
言葉を重ねながら、クラカディルの脳裏にはここ数日の様々な出来事が駆け巡っていた。
誰かに禁じられでもしているように、会話の途中で声を失ったルゥ。消えたシャニィディルの死体。そうだ。確かに殺したという報告は受けたものの、自分は結局彼の死体を見てはいないのだ。
「シャニィディル殿下が大地の聖色を持たなかったのは、神との繋がりが弱いのではなく、その逆です。いずれディオー神そのものを受け入れるために、加護という形が邪魔だっただけ」
彼は恵みを受ける立場ではなく、その逆だからだ。
「嘘だ。戯言だ。荒唐無稽な作り話だ」
クラカディルはただ否定を繰り返す。冷静さを失い的確な語彙の選択もままならないその様子は酷く幼げではあったが、気持ちは皆にもわかった。
儀式会場にいる貴族たちや民衆たちも不審な顔の者は多い。ルゥの話はタルティアンに生きる民にとって、到底受け入れがたいものだったからだ。
「――そうまでしてシャニィディルを守りたいのですか? あなたはどうしてそれ程までに、あの男に肩入れする」
「私が、大地の神に連なる者を祀りこの国を守護する豊穣の巫覡だったから」
これはルゥの最後の役目だ。
「ディオー神がその力を失い、シャニィディル殿下という憑代を得た時。大地神とこの国の神殿を繋ぐ経路は一度切れてしまった。私の役目は、その流れをもう一度、新しい神との間に繋ぎなおすこと」
そのために彼は生まれた。タルティアンの豊穣の巫覡としても歴代で一、二を争う強い力を持って。
「それこそが私の運命。役目を終えた今、私が豊穣の巫覡として存在する理由も――」
今やルゥの顔色は蒼白で、彼がとても無理をしてこの場に立っていることはクラカディルにも他の者たちにもわかった。
「ルゥ様!」
崩れ落ちる体を、アナイスが必死に支えようとする。クラカディルも咄嗟に駆け寄ろうとした。その時。
とても近くで馬の嘶きがした。
「あ、あれはなんだ?!」
「黄金の……」
「そっくりじゃないか」
「クラカディル殿下?」
不思議そうに自分の名を呼ぶ声に、クラカディルは思わず振り返る。そこにいたのは、光り輝く一頭の馬と騎乗する人物。
馬の足音も高らかに、中空を優雅に駆けてくる。
顔立ちはクラカディル自身にそっくりだ。肌の色の違いを除けば、クラカディルそのものと言ってもいい。これ程自分に似ている人物など、一人しか知らない。
「シャニィ……?」
子どもの頃のように思わず愛称で名を呼ぶクラカディルに、儀式会場であるテラスへと降り立ったその人はやわらかく微笑んだ。
誰もがその姿に見惚れ、動くことができなかった。この場の最重要人物であるクラカディルを守るために駆けださねばならない護衛の兵士たちも、一歩も。
その人は金の髪、緑の瞳。そして褐色の肌。大地の申し子のようなその色彩を纏い、自ら光を放つ。
彼だけではなかった。彼が乗っている馬……否、神獣だ。“それ”もまた金の鬣から光を放つ。
“それ”は雄々しい一本の角を額に生やした純白の一角獣だった。乙女の守護者とも呼ばれ、処女の膝で眠ることが知られている。
神獣を見た瞬間、ルゥの表情が変わった。
「あ、ああ……ああああ!」
すでに立ち上がる力もなかったような少年が、アナイスの手を緩やかに解き、危なっかしい足取りで駆けだす。
金髪の神が一角獣から降りる。そして身軽になった一角獣も駆け出した。一身にルゥのもとへと。
一角獣のその姿が徐々に糸が解けるようにとけていき、一人の男の姿となる。
「ティーグ様……!」
ルゥは男の名を呼んだ。
「ティーグ様、ティーグ様、ティーグ様……!!」
感極まって涙を零すルゥを、ティーグは抱きしめる。もう二度と離さないと言うかのように、力強く、愛情あふれる仕草だった。
その姿を見ていた人々は、ルゥがまだ少女だと信じられていた頃、一時期この二人が恋人同士であるという噂が立ったことを思い出した。
そしてそれ以上に、目の前で繰り広げられる光景の美しさに、ただ涙した。
人も神も生者も死者も性別も、全ての概念を超えて想い合う二人の姿だけが、そこにある。
「ティーグ様……良かった……」
金の睫毛を涙が滑って行く。ルゥはそれ以上かける言葉も失って、ただ泣いた。
無事だったとか、生きていたとか、そう言う言葉は言えない。
報告通り、ティーグは確かに無事ではなかったのだ。今の彼はもう人ではない。わかっている。それでも。……それでも!
抱きしめる手を緩め、濡れたルゥの目元を優しく拭いながらティーグは尋ねる。
「貴方を永遠に守ると私は誓いました。清らけき巫覡、ルゥ様。もはや人ではなく大地の神の神獣と成り果てた私でも、傍に置いてくださいますか」
ルゥもまた雫を拭うティーグの手が追い付かない程の涙を零しながら頷く。頷きながら、彼もまたティーグに尋ねた。
「わ、私はもう、皆が求めていたような、清らかで正しき豊穣の巫覡ではありません。ただのルゥです。それでも、一緒にいてくださいますか……?」
「もちろんです」
想い合う二人。幸福に包まれた恋人たち。
どこから見てもそうとしか見えない姿を、クラカディルはただ見ていた。
ルゥの涙は何度も見た。何度も泣かせた。けれど傷つけるばかりで、クラカディルではルゥにこんな表情をさせることはできない。
嬉しい時にも人は泣くのだと……そんな当たり前のことを思い出させる。だけどクラカディルにはできない。
そして光が遠ざかる。
◆◆◆◆◆
「……ありがとうございます。リューシャ殿下」
通路の陰の中、ラーラが涙ぐみながらリューシャに礼を言う。
「我は何もしておらん。それどころか……」
リューシャは考えていた。タルティアンに影響が出る程大地神ディオーの力が弱まったのは、リューシャの存在に関係しているのではないか?
彼は破壊神の生まれ変わり。方法的には生まれ変わりと呼ぶが人間の転生とは違い、その魂は実質的に破壊神そのものだ。
世界を、総てを滅ぼす神の復活が、大地神の存在を揺るがしたのではないかと。
「いいえ。何もしてないなんてことありません! ルゥが今笑顔でいられるのは、リューシャ殿下のおかげです!」
死んだティーグの魂を新たな大地神の眷属である神獣へと転生させた。もっとも、その姿を選んだのはティーグ自身の魂の在り方であり、リューシャはきっかけを与えただけだ。
ティーグ自身を救えたなどとはとても言い難い。彼に出来た事と言えば、ほんの少しばかりルゥを喜ばせただけ。でも。
「ありがとうございます。本当に……」
ラーラの笑顔にリューシャは難しいことを考えるのはやめた。
何もかもを計算で動かすことができずとも、自分がその時信じた行動により、結果的に一人でも誰かを喜ばせることができたのだ。ならば、それで良いではないか。そう思うことにした。
だが、和やかな雰囲気はダーフィトの押し殺した叫びに切り裂かれる。
「っ! クラカディル!」
まだ、全てが終わってはいなかったのだ。