Fastnacht 30

119

 剣の刃が擦れる金属音が響いた。ルゥがはっと振り返り、ティーグがそれを抱きしめる。
「クラカディル殿下……!」
 シャニィディルの顔をした神に向けて、クラカディルが剣の切っ先を向けていた。
 金髪の神は口を開く。
「クラカディル……」
 彼にはシャニィディルの記憶がほぼそのまま残っている。クラカディルのことも、弟だと認識しているようだ。
 無恵と呼ばれた聖色を持たぬ王子は、ディオー神の憑代となり新たなる神として生まれ変わったのだ。
「ふ……」
 剣を構えたまま、クラカディルが唇を歪めるようにして笑う。
「本当にシャニィディルなんだな」
 自分と同じ顔。でも今までは、そう似ているとは思わなかった。
 銀の髪に青い瞳のシャニィディル。金の髪に緑の瞳のクラカディル。その印象はあまりにも違い過ぎたから。
 そして髪や、瞳、肌の色に至ってまで変化しただけではなく、今のシャニィディルと今までの彼が同じとも思えない。
 内側から光を放つかのようなその存在は、同じ人間とは思えなかった。
「この方はディオーであり、シャニィディルであり……新しき大地の神です」
 ルゥが告げる。まだ名もなき神。ディオーの意識もシャニィディルの意識も残したまま、彼は別の存在となる。
「ふ……はははは! あーはははははは!」
「クラカディル殿下……」
 剣の切っ先を下ろし、突如として狂乱したかのように笑い出したクラカディルの姿に、周囲は遠巻きに怯えた。
 国に仇なす者と信じ処刑しようとしていた兄が、国を守護する神へと生まれ変わった。今のクラカディルの立場や心境を慮ることができる者はそういない。
「ああ、そうか……」
 式典が始まる前、ダーフィトと交わした会話をクラカディルは思い出した。
 ――もしもリューシャが、その能力のないまま王になったとしたら。
 ――王になるための教育を受けてきた俺は、全力でリューシャを支える。
 昨日、セルマに投げ付けられた言葉を思い出した。
 ――自分を信じてくれない人のことを、信じるのは難しいですよ。巫覡殿にあなたの想いが届かなかったのは、あなたがまず巫覡殿の言葉を信じなかったからでは。
 自分の後見者たちの、自分に敵対する人々の、これまでにかけられた言葉や交わした会話を思い返す。あらゆる想いが胸の中で暴れ回った。
 これまで自分は何を信じて生きて来たのだろう。正しいと確信して行ったことでさえ、こんな風に笑えない程の空回りでしかなかったのに。
「不要なのは、国に仇なし、神を傷つける大罪人は……私の方なのか」
「クラカディル殿下」
 もう彼にはわかっていた。
 シャニィディルが王位を継ぐことはない。一度死した後、神として復活した彼はもはや人間の範疇にはいない。
 けれど、クラカディルがこのまま玉座に着くことも相応しくはない。
 人の道を外れ、神の意志を取り違え、豊穣の巫覡を穢し。辰砂に及ぶことこそないが、もはや立派な神への反逆者ではないか。
 クラカディルは己が罪とその間違いをようやく認める。
 これまでは罪と知りつつ自らが王として立つしかないと思っていた。だが今は、もう……。
「他者の口車に乗せられて罪を犯す自惚れた男よりは、他の弟たちの方が王としてはまだまともでしょう」
「クラカディル」
「何故そんな目で私を見る? シャニィディル、私はお前を殺したんだぞ」
 直接的に手にかけたわけではない。だが聖色を持たぬ王子を殺す、その命を下したのは間違いなくクラカディルだ。
「お前がそう命じずとも、“シャニィディル”はいずれ死ぬはずだったよ。神として生まれ変わるには、人としての生を終える必要がある」
「そうか。ならばこれも所詮は“運命”などと言う安っぽい言葉で飾られた、ありふれた茶番でしかなかったのか」
 そしてクラカディルは道化だ。全てが定められた舞台の上で、誰かの思惑通りに踊り続けた。
 自分がダーフィトのように、運命の振りかざす試練にも負けずその場で立ち続ける選択ができたなら、結果は変わったかもしれない。
 だがクラカディルにはできなかった。聖色を持たねば不吉だろうと信じ、植物が枯れれば凶兆だと疑いもせず、シャニィディルを殺して国を建てなおそうとした。
 欲と権力に憑りつかれ物事を都合の良いように捉え、それがシャニィディルを新たな神へ生まれ変わらせる一連の流れの歯車の一つにしか過ぎないことに、気づけなかった。
 最初から最後まで、運命という誰かの手の中で踊らされた。そんな人間が、どうしてこれから数千万の民を導く王として先頭に立つことができよう。
 他のどんな失敗を重ねた時よりも、ルゥを無理矢理手に入れシャニィディルを殺し、目論見通りに計画を進めた今程敗北感を覚えたことはない。
 自らは王に相応しくない。そう思ったのは、玉座がもの目の前にありいくらでもそこに座ることができると思ったこの時。
 なんてつまらない、予定調和の茶番なのだと。
 だが、物語は一度始めた以上、どこかで幕を引かねばなるまい。
 クラカディルはシャニィディルに向けた切っ先こそ下ろしたものの、剣を手放してはいなかった。
 その刃を、自分の方へと向ける。
「クラカディル殿下!」
 刃を引く一瞬、彼はルゥの方を見て囁いた。

「それでも、あなたを愛していたことだけは私の真実でした」

 血飛沫が舞う。瞼を塞ごうとするティーグの手を振り払い、ルゥが彼の腕から飛び出す。
 暗い通路の奥に隠れていたダーフィトも駆け出してきていた。けれど誰も間に合わない。
 シャニィディル、否その生まれ変わりである神が手を伸ばしかけ、それを引き戻した。ゆっくりと首を横に振る。
 白い巫覡の衣装を赤く汚すのも構わず傍らに膝をついたルゥの姿を見て、クラカディルは思い出していた。光の中にいた彼に恋をしたことを。

 王城の回廊を歩いていると、中庭に見知った人影と、どこかで見たような気がするがあまり馴染みのない姿を見つけた。
 ――あれは誰?
 シャニィディルとラーラは知っている。けれどあの清楚な白い衣装を身につけた少女は誰だと、問いかけた彼に取り巻きの男たちは答えた。
 ――先日代替わりを果たしたばかりの豊穣の巫覡、ルゥ様にございます。
 ――式典の時は衣装ばかり華美でお顔がよく見えませんでしたが、可愛らしい方でしょう。
 ――そうだな。
 少女は光の中で笑っている。シャニィディルもいつものように作ったような愛想の良さではなく、心の底から楽しそうな笑顔を浮かべているように見えた。
 彼らのいる場所だけ、太陽が目をかけているようだ。否、この国の文化から言えば、そこは大地神の慈悲と言うべきか。
 回廊の陰の中から、クラカディルはただ遠くそれを見つめていた。
 それはクラカディルがこれまでに見た中で一番美しい光景だ。そして、王位以外の理由で兄に対し始めて嫉妬を覚えた瞬間でもあった。
 いくつもの季節が過ぎ、少年は歳を重ね、やがて王位について真剣に考えだす時期が来る。
 運命を別つ昨年の秋。クラカディルの野望を打ち砕いたのはルゥだった。
 そう、あの時もクラカディルと対峙したのはルゥだったのだ。自分はいつも兄であるシャニィディルを標的に企みを実行するが、それをことごとく跳ね返すのは、彼の守り手である豊穣の巫覡。
 男だと知って、自らの彼に対する想いは幻想だと落胆して。
 それなのに嫌いにすらさせてくれない。焦がれる想いは募るばかり。何度瞼から振り払おうとしても、陽だまりの中で笑う可憐な姿も、少年らしい生き生きとした姿も繰り返し脳裏に蘇る。

 愛していた。あなたを。
 だから誰にも渡したくなかった。この手に捕まえたかった。でも。

「本当は……」
 切り裂いた喉からは言葉ではなく血が溢れる。
 わかっていたのだ。
 クラカディルが焦がれたルゥは、光の中にいる姿。彼は太陽の光の下で、大地の恵みである黄金の麦穂を抱えているのが良く似合う。
 対してクラカディル自身はいつも影の中にいる。初めてルゥの存在を意識した時だって、回廊の陰の中から光の中のルゥを見つめていた。
 最愛の相手。でも最大の敵。クラカディルの本当の敵はシャニィディルではない。ルゥの方だったのだ。だとしたら、勝敗は最初から決まっている。
 惚れた弱味という言葉があるくらいだ。どんなことをしたって、クラカディルがルゥに勝てるわけがない。
 クラカディルが愛したルゥは光の中の存在。けれどクラカディルが影に生きるのであれば、彼が手に入れた瞬間にルゥは彼の愛するルゥではなくなってしまう。
 最初から叶わぬ恋だった。
 永遠に成就することのない想い。
 ルゥは本当に、絵に描いたような理想の巫覡だった。肉体をいくら穢そうと、魂は穢れない。
 でもそのことに、誰よりも自分自身が安堵している。
 クラカディルがどうしたところで、ルゥの魂が光を失うことはない。報われない恋が嘆くのに、それ故にこの光は永遠だ。

 私は永遠を手に入れた。

「クラカディル殿下!」
 ルゥが名を呼ぶ。細い指が血で滑るクラカディルの手を握りしめた。
 ああ、やはり私は王に向いていない。
 野望は何一つ叶わなかったというのに、今がとても幸せだと感じている。
 永遠の恋を手に入れて、愛した人に手を握ってもらいながら逝けるのだから。

 さようなら。この世界。
 例え何一つ思い通りにならずとも、私はこの世界を愛して、とても幸せだった。

 ◆◆◆◆◆

「クラカディル!」
 呼吸の終わりを感じ取り、ダーフィトが叫ぶ。ルゥが握りしめた指から最後の力が失われ、血でぬめる手は滑り落ちた。
「クラカディル殿下!」
 事切れたその人の襟元にしがみつく。接触箇所が増えてルゥの衣装はもはや最初から赤い生地でできていたのかと見紛う程。
 ラーラやリューシャたちもたまらず飛び出してきた。彼らは周囲の驚きも意に介さず駆け寄ってきたが、それ以外の人々は神や神獣の姿に恐れをなして近づいて来れない。
「ルゥ、お前……」
 クラカディルはルゥを拉致し、傷つけた人間だ。何度も敵対して険悪な関係にあったはずだ。
 その相手の死をこれ以上なく嘆いている様子のルゥに、ラーラはかける言葉を失う。
 ティーグは最初から近づかず、ただルゥのしたいようにさせていた。
 元はシャニィディルであった神も、自らの過ちを認めて幕を引いた弟の姿を涙の浮かぶ目でただ遠くから見つめている。
 そしてルゥは。
「違う。違うんだ。そんなんじゃない。俺は、俺は……!」
 もはや人よりも他の存在に近いその身は、手を握った瞬間のクラカディルの最後の想いを読み取った。
 クラカディルがルゥを光の中の存在だと思っていたこと。自分はどうあっても、シャニィディルの陰の中でしか存在できないと思っていたこと。
 ――言いたいことはいくらでもありますが……きっと、どれ程言葉を費やしても、私の想いがあなたに伝わることはないでしょう。
 ――影の中に生まれた私があなたを見る時、いつもまるで、光の慈雨に打たれるかのようでした。あなたにはわからない。……わからなくていい。
 わからないと、わかるはずがないと。わからなくていいのだと。
 まるで最初から理解を期待しない口調で彼は繰り返していた。
 それはルゥとクラカディルで、立ち位置が違いすぎると思っていたから? でも。
「俺は、光の中が似合うような人間じゃない……!」

 ――どうしたのルゥ? 行くよ。
 ――ねぇ、あれは誰?
 巫覡になったばかりの頃、友達になったばかりのシャニィディルに案内されて王城を回っていた。
 中庭で花を楽しんでいると、回廊の方から強い視線を感じた。どうにも気になって振り返る視界に、ちょうど廊下を通り過ぎるところだった金髪の少年の姿が映る。
 ――ああ……あれはクラカディル。私のすぐ下の弟。一番の競争者。
 ――噂の第二王子ですか。
 明るい場所から暗い場所を見たから、確かに彼は陰の中にいるように見えた。
 けれどルゥの目には、彼はその黄金の髪の如く、眩く輝いているように見えた。

 見ているものが違いすぎる。それは確かだ。
 だけど何度も感じていた。こちらを熱心に見つめるその眼差しを。
 何度も自分を誤魔化し続けた。彼が自分に何故興味を持つのかわからないと。
 そう感じる時点でルゥは薄々自覚していたのだ。クラカディルの向けてくる眼差しの意味を。
 けれど彼はシャニィディルの敵だったから、その即位はタルティアンの破滅の引き金となると知っていたから、不必要に近づかないように、心通わせることがないように、距離を取った。
 例え神の意志にそぐわずとも、国を思うその気持ちがひたむきであることを、彼と敵として相対したルゥこそが誰より知っていたのに。
 触れればこの身を焦がすような、その想いの強さから逃げ出した。
「光なんかじゃない。俺は卑怯だ。役目を果たせば全てが終わると、それ以外に目を瞑り、耳を塞いで……」
 本当は。
 振り返ってしまいたかった。
 戻れぬ陰の中だとしても、その視線の主がいる場所を。一度見たら二度と戻れぬとわかっていたから、振り返らず歩き続けた。
 自分は強くも美しくもなければ、もうとっくに穢れている。
 この気持ちは何なのだろう。次々に湧き出てくる痛み、後悔。
 力足らずはクラカディルだけではない。ルゥもだ。ダーフィトのような選択をクラカディルができなかったのと同じく、ルゥもまた全てを捨てずに抱え続けることができなかった。
 それができていればせめて、クラカディルの命だけは救えたかもしれないのに。
 ざわめきが遠く響く。相次ぐ衝撃に誰もが心惑わせている。
 アナイスが声を張り上げているのが聞こえた。彼女は豊穣の巫覡。人々の心の拠り所。
 ルゥにはもうその資格はない。
 この事態に誰よりも心揺らがせているのは、他でもない自分自身なのだから。
 時計塔の鐘が鳴る。
 それは戴冠の儀の終わりを告げる鐘の音だった。いまだ王のいない国の戴冠の。