Fastnacht 30

120

 ――総ては運命。神の御心のままに。

 タルティアンは何事もなかったかのように明日を迎える。
 国王とクラカディル王子が相次いで“病死”した発表を受けて国民は動揺するものの、王族は彼らだけではない。まだ幼い王子を後見の貴族が擁立し、大地の神恵み豊かな国を支えて行くことだろう。
 日々は何事もなく平和に過ぎていく。
 この数日にあった動乱を記憶しているのは、もう、一握りの人間しかいなかった。

 ◆◆◆◆◆

「そうですか……ルゥ様はやはり遠いところへ行かれたのですね」
 豊穣の巫覡アナイスは、そう言って寂しそうな顔を見せた。
 今朝方アレスヴァルド一行と名乗る人々に、改めて一連の事態の説明をしてもらった。彼らの話はとても難しくて彼女にはよくわからない部分が多かったが、先代巫覡であるルゥがタルティアンに残らないことだけはわかった。
 今日の彼女は、大人しく神殿内で過ごしている。ここなら多くの神殿騎士がいて安全だ。
 彼女の護衛である神殿騎士ラーラは、本日は休暇をもらっているのだ。朝方説明に来てくれたアレスヴァルド一行の見送りに行くだとかで、王都の出入り口に向かった。
 だからアナイスは極力神殿から出ないようにする。新米巫覡である彼女にはまだまだ、覚えなければいけないことが多い。ルゥがいなくても、彼が守ってくれたこの国を支えていくために頑張るのだ。
「神子様、神力の訓練のお時間ですよ」
「あ、はい。パウルさん、すぐに行きます!」
 部屋の外から呼びかける声に、アナイスは元気よく応えて準備をし始めた。

 ◆◆◆◆◆

 秋の風が吹く。もうすぐ収穫の季節であり、聖地祭も始まる。
 王都の封鎖は解除され――否、何事もなかったことになり、今日も旅行者や取引先に出かける商人が忙しなく門を行き交う。
 王都を出発して一路アレスヴァルドに向かうリューシャたちを、ラーラが門まで見送りに来ていた。
 数日前はこの門で足止めされた。今は王都の内と外を繋ぐ門は風通しも良く開け放たれている。
「本当に、ありがとうございました」
 ラーラはリューシャたちに向かい頭を下げる。
 もう彼女も自由に街中を歩ける立場だが、今日も一応変装していた。ラーラは自由だが、リューシャたちがそうではない。この国ではちょっとした有名人であるラーラと共にいて注目されてはかなわないからだ。
「この後もいろいろ大変だろうけど、頑張ってくれよな」
 ダーフィトとラーラは握手を交わす。
 ラーラはこの国で起きた一連の出来事の真実を知る数少ない人間の一人だ。同じ秘密を共有する新しき豊穣の巫覡アナイスの護衛として、再び神殿に勤めることになる。
 あの後。
 シャニィディルの肉体にディオーの意識が融合した新しき大地神シャニディオールは、このタルティアンから、かつての自分の痕跡を全て消していった。
 シャニィディル=タルティアンという王子が生まれた記憶。彼と第二王子クラカディルが争った記憶。それら全てを、神の力によって改変する。
 彼は神となった。だが人が神になる、なれるなどという事実を歴史に刻むことは、この先人類のためにならない。
 だから過去は改変される。タルティアン王国に、シャニィディルなどという王子は生まれなかった。その存在によって派生した出来事の全ても、神の力とは無関係な日常のありえそうな出来事として置き換えられる。
 途方もない神の力。恐ろしい能力。
 今自分が信じている記憶が本当は真実ではなく、神の力によって書き換えられたものかもしれないという可能性。
 それでも神が地上に降りてくることがあるなどと、人は知らなくていいのだ。知らなくても生きて行ける。
 クラカディルが父王を殺害した簒奪未遂も、結局は“病死”とされた。今回の事件で出た被害は全て、流行り病のせいだと。
 大地の神が新しく生まれ変わったことも、タルティアンの民は知らない。だが彼らの脳にはすでに、かつての神ディオーではなく、新しい神シャニディオールの名が刻まれている。
 そうして、日々はまるで何事もなかったように続いていく。
 この事件の核心に関わった数人の記憶を残して。
「ラーラさんは本当にいいんですか? 忘れることもできるそうですし、彼らについて天界に行くこともできたんじゃありませんか?」
 ルゥと、神獣になったティーグは神となったシャニィディルと共に天界へと向かった。
 死んでしまったティーグと生まれ変わったシャニィディルはもちろん、あの時すでにルゥの命も尽きる寸前だった。
 力の弱った状態で、国中の大地の息吹を取り戻すという無茶を行ったのだ。失った神力の代わりに命を燃やして、ルゥはそれを行った。
 彼はティーグが死んだと聞かされていたので、役目を果たしたらもう死んでも構わないとその時は思っていたのだそうだ。
 けれど神獣として生まれ変わったティーグを見て、欲が出てしまったと笑った。
 大地の神に仕える祭祀、豊穣の巫覡であった少年は今度は大地の神の眷属となる。
 神の眷属となったのだから、当然住む場所は天界だ。それが神獣となったティーグと唯一、一緒に生きられる方法だった。生まれ変わったばかりのシャニディオールのことも支えねばならない。元豊穣の巫覡はあちらでも相変わらずの人気のようだ。
 そしてラーラも、どうせなら一緒に来ないかと彼らに誘われたのだが。
「いえ……私はいいんです」
 迷いのない顔で、彼女は晴れやかに笑う。
「色々あったけれど、私はそれでも、この国が好きですから」
 捨て子として生まれ、神殿に拾われたラーラ。両親の顔も知らないし、これからも数少ない女騎士として男連中と張り合って行かねばならない。
 あるいは天界でルゥたちと暮らした方が幸せかもしれない。
 それでも、大地の子は、この大地に足をつけて生きていくことを選んだ。
 どんなに辛い冬が待っていても春にはまた芽吹く花のように、強く微笑む。
「そうですか」
 問いかけたウルリークも、それを聞いていたリューシャたちも彼女の前途を心から応援した。
 むしろこれから先試練に立ち向かわねばならないのはアレスヴァルドに戻る自分たちの方なのだが、それでもお互いに頑張ろうと。
「では、我々はそろそろ――」
「あの!」
 一通り別れの言葉を交わし、アレスヴァルド方面に向かう乗合馬車を探しに行くと切り出そうとしたその時だった。
 ラーラが頬を赤らめてリューシャを見つめる。
「?」
「あの、リューシャ殿下、その、その、私――」
「なんだ?」
 言葉にするよりも、むしろ行動に移した方が早い。
 ラーラは素早くリューシャに歩み寄ると、その頬に軽く口付けた。
「!」
「私……リューシャ殿下が好きです!」
 ――初めて出会った二年前の聖地祭からずっと。
 ラーラの告白に、リューシャは固まった。
 ダーフィトも固まった。セルマは目を丸くした。ウルリークにはにやにやしている。そして。
「うわ……そうなんだ。ラーラの好きな人って、リューシャ王子だったんだ」
「ルゥ?!」
 天界に向かったはずの元豊穣の巫覡が、何故かあっけらかんと姿を見せる。彼だけではない。シャニディオールとティーグまで一緒だ。
「あ、俺たちのことはお構いなく」
「構うわ! どうしてここに?」
「天界と地上って意外と簡単に行き来できるらしいんだよね。神様たちがしょっちゅう降りてきたら混乱を招くからやらないだけで。でもお忍びとして眷属たちは結構来てるって」
「どこの白蝋だ……」
 辰砂の弟子の一人白蝋は、天界に住みながらも半分以上地上で暮らし、オリゾンダスのジグラード学院で講師までしている。それぐらいの気軽さで地上に降臨した大地神とその眷属たちにダーフィトは思わず突っ込んだ。
「リューシャ、お前もそろそろ正気を取り戻せ」
「……は!」
「まだ固まっていたんですか? リューシャさん……」
 我に帰ったリューシャは、慌ててラーラの方へと視線を向ける。
「そ、その……我は……」
「殿下の御立場はわかっているつもりです。ただ、気持ちを伝えたかっただけですから、どうか気にしないでください」
 そう言うわけにも行かないだろう。リューシャは自分の人生で、初めて真っ向から素直な好意を向けてくれた少女を見つめ返す。
「その……気持ちに応えることはできないが、我は今まで国でも忌み嫌われ、誰かにそうやって好意を向けられることがなかったから……」
 わたわたと取り乱しながらも、リューシャはなんとかその一言を告げる。
「ありがとう。嬉しかった」
「……はい! 私の方こそ、ありがとうございました」
 ラーラの金色の瞳に薄らと涙が浮かぶ。
 気持ちこそしっかり伝わったものの、たぶんこの先彼女が彼と会うことは二度とない。それをラーラも理解しているのだ。
「この先殿下が望む結果を得ることを、心よりお祈りしております」
 忘れられない別れを経験し、リューシャはようやく、彼の国へと帰るのだ。

 ◆◆◆◆◆

 ルゥたちはリューシャたちが出発すると共にあっさりと天上へ戻った。本当にただ単に地上に降りてきてみただけだったらしい。
「平和だな」
「そうですね」
 乗合馬車の中、平和以外の何物でもない光景を見ながらリューシャは呟く。ウルリークが気のない様子で相槌を打った。
 あんな大事件があったことも忘れ去り、タルティアンの日常は続く。
 乗合馬車の中は狭く、乗っている人間は十人にも満たない。そのうちの半数を占めるリューシャたちもこの状態ではあまり話すような気分ではなく、それぞれ静かに物思いに耽っていた。
「……ダーフィト。大丈夫か?」
「あ、いや。なんだ? セルマ」
「いや、特に用事はないが。お前、具合でも悪いのか? 眉のあたりが険しいぞ」
「あ、はは。別にそんなことはないぞ。馬車酔いしたらいやだなぁとは思うが」
「しばらくは平坦な道が続くそうだから平気だろう。あまり考えすぎるなよ」
 ダーフィトの内心を見抜いているのかそうではないのか、セルマはそう告げて会話を終わらせた。
 再び思考の世界に戻り、ダーフィトはこの数日を思い返す。
 少し歯車が違えばもう一人の自分と言えたかもしれない、一人の少年の死に様を思い返しながら。
 ――私は玉座が欲しかった。王位に手の届く立場に生まれて、玉座を望まぬ人間がおりますか? あなたはどうなのです? ダーフィト=ディアヌハーデ=アレスヴァルド。
 王になりたかったというクラカディル。その考えは少しばかり身勝手で人の意見を聞かずに熱しがちだったが、彼は彼なりに国を思っていた。
 報われることのなかったその想い。全てが神の手のひらの上で、彼は運命に翻弄されて命を失った。
 もちろんクラカディルにも罪はある。父である国王を殺した。王を守ろうとした騎士やルゥを守ろうとした聖騎士たちの中にも死者はいるだろう。
 だが、まだ十四年しか生きていない少年の「国を守りたい。そのために王になりたい」という願いは、そんなにも罪深いものだったと言うのだろうか。
 ダーフィトはクラカディル程は思いきれない。父ゲラーシムも再従兄弟リューシャも同じく家族として愛している。けれど。
(正しき道とは……王の器とはなんだ?)
 答の出ない問いが繰り返し脳内で反射する。
 己に王となる資格がないどころか、国に対して有害な存在だと判断するや否や即座に己の命を絶ったクラカディル。
 ――ここまで来たらもはや引き返せません。
 ――私は行きます、ダーフィト殿下。
 あれほどの覚悟が、自分にはあるか?
 ダーフィトは自問する。

 馬車はゆっくりと街道を走り続ける。
 神の血を伝える古王国、彼らの故国アレスヴァルド王国は、もはやすぐ傍まで迫っていた。

 第5章 了.