Fastnacht 31

第6章 神の帰還

31.帰還

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 ――たぶん、その時救われたのだ。

 天界にも人気のない一角はある。人とその似姿をした眷属たちだけではなく、動植物たちのためにあるような森の果ての崖。とくに見所もなく用もなければ滅多に人が寄りつかないその場所に、少年は一人いた。
 否、彼は少年であって少年ではない。
 見た目は良いとこ十四、五歳。けれどその精神は、不老不死とも噂されその記憶を抱いたまま無限の輪廻を繰り返す伝説の魔術師だ。
 老いも寿命も超越し、いっそ狂気が一周して正気に見えているだけではないかと口さがない連中に煙たがられる創造の魔術師は、崖上で風を感じていた。
 地上に置いても崖と呼ばれる場所は大概それなりの高さがある。ましてやここは天上という空間の最果て。途切れた仮初の地面の向こうはすでに無限の空とその下方遥か彼方に地上が広がる。転げ落ちればひとたまりもない。
 それ故に一人になるにはもってこいの場所なのだ。
「お師様ー」
 しばらく何をするでもなく泥のような物思いに耽っていた辰砂の耳に、気の抜けた青年の呼び声が届く。
「銀月」
 応じてここだと示せば、弟子の一人は驚きの一つもなくのんびりと近寄ってきた。三年以上の付き合いになるが、辰砂はこの青年が動揺に慌てふためく場面を数える程しか見たことがない。
 銀月は揺らがない。彼にとって一番大切なものはいつも決まっていて、そのために彼自身が取る行動もあらかじめ決まっているからだ。
 辰砂は弟子の報われ難きその想いに胸を痛めることはあっても、自分に口出しのできる問題でもないと放っておいた。そもそも人の恋愛事情に口出しするなど野暮なことだ。
 だが、先日、一つの問題が起きた。
 もっとも、それを問題だと思っているのは辰砂だけで、銀月本人にとっては当然の選択だと言い張るのだが――。
 崖際に足を降ろした自分と並ぶように下生えに胡坐をかいた弟子に、辰砂はあらためて問いかける。
「……本当に、良かったのか?」
 月女神セーファの誘いを受けて、銀月は彼女の眷属となった。女神の下すこまごまとした雑用をこなす代わりに、永遠の命を与えられるという契約だ。
 不老不死。
 それは太古の昔より人類が追い求めてきた夢の一つ。
 実際にはそれ程良いものではないと、他でもない辰砂だからこそ知っている。否、この世の多くの人間は知っているだろう。無限の命など本来人間には不要のものだ。
 その生があまりにも短く無残に散らされた場合ならばともかく、自分の人生に満足した人間であれば永遠の命など望む必要はない。当たり前のように生きて死んでいく。人にとってそれに勝る幸福はないのだと。
 永遠など望むのは、所詮は強欲な狂人だけだ。
 この世で最も不老不死に近い人間はそう自嘲する。
 限りある生だからこそ輝く。月並みな言葉で言い表されるけれどそれが真実。だからこそ銀月の選択が不思議だった。そのことを知らぬ弟子ではないだろうに、どうして。
 その理由を、辰砂は本人の口からではなく、その想い人から聞かされた。
 ラウルフィカは言った。
「お前のためだ」
 端的な言葉の理解を辰砂の脳は瞬間的に拒む。
「え……」
「自分の胸に聞いてみろと言ったぞ、創造の魔術師。ザッハールが神の眷属となることを選んだのは、お前のため。輪廻を繰り返すお前を孤独にしないため。そのための不老不死だ」
 淡々と告げられる言葉は苛立ち交じり。当然だ。ラウルフィカは永遠を選ばなかった。多くの人間がそうであるように、人として限りある生を懸命に生きることを選び、月女神にもそう答えた。
 それを知っていながら、銀月は辰砂のために不老不死を選んだのだ。言い換えれば、銀月はラウルフィカより辰砂を選んだとも取れる。
 告げられた言葉に辰砂は困惑し、動揺し――そして気づいてしまった一つの真実のために一人きりになれる場所を探して逃げ込んだ。
「良いも悪いもないですよ」
 隣に座った銀月が穏やかに笑う。
「俺がそうしたいと思ったからそうしたまでです。それともお師様には、俺が自分の心に適わぬ選択をするほど殊勝な人間に見えますか」
「見えない」
 辰砂は間髪入れずに答えた。そう、見えない。だからこそ意外だったのだ。
 銀月は当たり前のように、ラウルフィカと生きていく未来を選ぶのだと思っていた。
 それが、神に隷従してまで不老不死を選ぶ。それも、自分などのために?
「僕は」
 だけど、だからこそ、気づいてしまった。

「たぶんお前に……救われたんだ」

 永遠を生きる魔術師。
 神々への反逆者。
 この世のどこにも居場所のない異端者。
 仮宿を与えられてはいても、安住の地を見つけることは叶わない。一時道を交える相手はいても、最後まで共に生きる者はいない。
 情けない話だが、辰砂は銀月の選択によって、ようやく自分がこの永遠の中で欲していたものを知った。
 ――傍にいる。
 ――今度こそ、いつだって傍にいる。
 それは、人として生まれ変わった破壊神が祭りの夜に詫びた過去と同じもの。
 寄り添う相手のいない孤独。辰砂が忌避しながらもなれきっていた――痛み。それからの救い。
 自分でも知らなかったのだ。自分がこんなに寂しさを感じていたなんて。
 気まぐれに弟子を拾う。何年か共に過ごす。そしていつか別れる。それで当たり前だと思っていた。それ以外の結末などないと。
 これまで誰一人、辰砂のために永遠を選ぶ人間なんていなかったのだ。
 自分が不自然な生を生きていることは誰より自覚している。だからそれに誰を突き合わせることもないと思っている。
 だからこの弟子が、自分の意見も聞かずにさっさとそんな理由で永遠に付き合うなど、思ってもみなかったのだ。
 かつて神々に反逆した。それはすでに神話となって遠い時の果てに過ぎ去った取り戻せぬ時代であり、辰砂としては悔い改める必要もない選択の結果だ。
 しかしその選択が揺るぎなければ揺るぎない程、後に続くものがない。辰砂という人間の価値は神に対抗できる程の力であり精神であり、それが全てだと。
「何を今更」
 銀の月が笑う。
「もともと俺を救ったのは辰砂、あなただ。あの時俺は、西側の人間が神を信仰する気持ちがようやくわかった気がした」
 神を持たず自らの才と努力で全てを手に入れ、そして失った魔術師は笑う。
 それでも今が幸せなのだと。
「俺だけじゃない。紅焔だって白蝋だって、みんなあなたに救われた」
 辰砂は永遠の少年として生きる。
 奪われたものを忘れぬために、一番幸福で一番慟哭した時間をその身に刻み込んだ。
 人間の精神は少なからず肉体に引きずられる。少年の姿を取り続ける辰砂の精神もまた若い。何千年もの生を記憶を重ねながらも子どもっぽい部分をも持ち合わせるのはそのためだ。
 人類最強の魔術師であることは確かながら、辰砂の人格は聖人とは程遠い。悪戯好きで楽しいことが好きで嫌なことはやりたがらず、人を玩具にする。ろくでもない人間と言えばそうだろう。
 それは人間らしいと言えば人間らしいのだが、神話に名を刻んだ魔術師の性格としてどうかと言われると反論できない。
 それでも。

「知らなかったんですか、お師様。俺はあなたが大好きなんですよ」

 神話の悪役として歴史に名を刻まれ、等身大の姿は尊敬すべき大魔術師像とは程遠く。
 それでも、過去を背負って今ここにいるそのままの辰砂を銀月は肯定し受け入れる。
 創造の女神の名を奪い神々が地上を去る切欠となった存在。辰砂自身が誰よりその過去を気にしていることを知りながら銀月はただ、彼の目から見た辰砂を肯定し賛美する。
 そのような過去を持つ辰砂だからこそ、銀月にとって信じてもいなかった“神”たりえるのだと。
 そうして、辰砂もようやく救われる。
 苦しみ喘ぎながら辿った血塗れの道。過ぎ去って取り戻せない時間。痛みを伴う記憶。それがあるから「今」がある。
 この時代に生きる銀月や紅焔たち。彼らの言葉、行動。それを受けることによって、ようやく辰砂の中でもあれらの過去が、本当に「過去」となった。
「……覚悟しろよ、銀月。不老不死なんてのは……本当に、ずっと、ってことなんだからな」
 見た目通りの幼げに言って、辰砂がしゃくりあげる。ぽたぽたと暖かな滴がその両目から滴り、顔を伏せた。
 青年はその髪を撫でるようにして、そっと師を抱きしめる。
 そして月女神への忠誠を誓った時とはまったく別の言葉で、彼にとっての永遠を約束した。
「ええ。お付き合いしますよ。辰砂、我が師よ。あなたが進む道ならばどこまでも、いつまでも」

 ◆◆◆◆◆

「……本当に、良かったのか?」
 リューシャは尋ねた。
 ルゥがきょとんとした顔で振り返る。質問の意図がよくわからないという顔で。だがリューシャは知っている。表面上は明るく穏やかに振る舞う彼の瞳の奥にある、まだ癒えない悲しみに。
 ――タルティアンを出発する前日。
 豊穣の巫覡ルゥとアレスヴァルドのリューシャたち一行は、タルティアンの王位を狙う第二王子クラカディルの野望を阻止し、第一王子シャニィディルの肉体を憑代として大地神が復活するのを見届けた。
 これはそのすぐ後の話。
「お前は、クラカディル王子を愛していたのではないか?」
 タルティアンでは神の憑代となった第一王子にまつわる記憶が人々の中から消され、今回の騒動で死んだ人々は「病死」だと歴史が改変される。ルゥも新たな大地神を支える眷属の一人として、地上では死んだこととなり天上の世界へと昇る。
 その前にどうしても聞かずにはおれなかった。
 自らの首を掻き切って死を選んだ簒奪者の亡骸に縋り泣く彼を見ていたからには――。
「……俺は彼のことを、心から嫌っているわけではありませんでした」
 決して肯定的ではないが、ルゥは自ら死を選んだ簒奪の王子への想いを否定はしなかった。
「あの人が俺に向ける感情はあまりにも強くて眩しくて……どうしてあんな風に執着できるのかがわからなくて……俺は怯えるばかりでした」
 亡き人を想い、紡ぐ言葉はいつだってほろ苦い。榛の瞳をここではないどこかへ向けて、ルゥは彼の目から見たクラカディルを語る。
 その視線で射抜かれるたびに身体中が燃え上がるような強烈な感情。ルゥがクラカディルから感じていたのはそれ。
 そして恐らくルゥ自身の中にも、彼のそんな感情に惹かれる何かがあったのだ。
 しかしその「何か」を認めることは、ルゥには決して赦されない。
「一つ言えることがあるとするならば……俺はきっとこの先一生、誰とも肌を合わせることはないでしょう」
 その笑みに、リューシャは思わず呼吸を忘れた。
 大地の神子。豊穣の巫覡。新たな神を支えるために選ばれた――運命の少年。
 それはあまりに神の世界に近しく、まるでこの世の一切の穢れから無縁のような存在だ。
 だからこそルゥは、自らの「人らしさ」と共にクラカディルへの想いを切り捨てる。
 影の中の光に焦がれる想い。それは真に神に仕える高潔なる巫覡には赦されない感情だと。
「それでいいのか? 本当に」
「ええ。俺はティーグ様を愛してしますから」
 常闇から出て共に歩いて行ける相手として、ルゥはティーグを選んだのだ。豊穣の巫覡として永遠に神に仕えることを誓ったルゥこそを愛し見守ってくれる相手を。
 例え胸の奥にどれほどの想いがあったとしても、ルゥがクラカディルを選ぶことは、万が一にもありえなかった。
「俗な言葉で言えば、俺はとんだ移り気な男ですね。責めて蔑んでくださってもかまわない」
「そんなことはない。だが我は、お前が……」
「いいんです。破壊神様。いいえ、人としてのリューシャ=アレスヴァルド王子殿下。これは俺が人として生きた証であり、そのために当然受けるべき痛み。このように苦しむのがきっと、俺も人間だったということなのでしょう」
 美しいもの、清いもの、正しいものではなく、闇や影に焦がれる気持ち。多くの人間が意識するまでもなくほんの少しだけ持ち合わせているもの。
 神であるリューシャには理解できない痛みだ。だがその望みを切り捨てることもリューシャにはできない。
 その望みは、かつて辰砂が愛した神の名、すなわち背徳と言うのだから。
「心配してくださってありがとうございます。次はあなたが神としての御自分を取り戻された時に、ぜひお会いしましょう」
 にっこりと、綺麗に笑ってルゥは頭をさげる。その見事な笑顔の中に、幾重にも人としての俗な痛みを押し隠し。
 そしてリューシャは自分の未熟さを思い知る。ラーラに乞われて彼らの手助けをと奔走したものの、結果的に自分はこの国にとって、一体何ができたのだろうと。
 きっと人を心から救うのは神ではなく、その人にとって大事な人間でしかないのだろう。
 これまでの旅路で、リューシャが本当の意味で知ったのはそれだけだ。

 ――運命の王子は、ようやく祖国へと帰還する。