Fastnacht 32

第6章 神の帰還

32.彼が得た絆

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 待ちわびた再会に父親は相好を崩した。
「ダーフィト」
 名を呼んだきり、あとは言葉もなく息子を抱きしめる。息子は一瞬困った顔をして、静かにそれを受け入れた。
 髪の長さが違う。ゲラーシムと同じ真紅の髪をいつも腰に届くほど長く伸ばしていたのに、今は方にも届かぬくらいにすっきりと短くしている。
 顔立ちは変わらないが、顔つきはここ半年で変わったようだった。やわらかい表情を浮かべていることが多かったダーフィトだが、旅の苦労を知ってか些か削ぎ落とされた部分がある。
 一方息子は息子の方で、父の変化を敏感に感じ取っていた。
(父上……痩せたな……)
 本職に敵う程ではないが、ゲラーシムも王族の一員としてそれなりに鍛えていたはず。国政を担うには体力が必要だと、あれだけ健康に気を遣っていたのに。
 ダーフィトは父親似だ。背の高さはほとんど変わらぬ、いつの間にか父はこんなにも弱っていたのかと思う。まだそんな年齢でなくとも。それが彼自身の罪の重さに削られた部分だとしても。
「……ただいま、父上」
 ダーフィト=ディアヌハーデはようやく父の下に戻る。

 ◆◆◆◆◆

「ゲラーシムのところに戻る?! 正気か?!」
 その提案を聞かされた際、もちろんリューシャは反対した。
 いくらゲラーシムがダーフィトに危害を加えることはなかろうとはいえ、いくらなんでも危険すぎる。
 現在のアレスヴァルドは表面上平和とはいえ、それはゲラーシム側で作り上げた現在の体制が安定しているということだ。彼が良くとも彼の仲間や部下は、その現状に一石を投じることとなるダーフィトの存在を良く思っていない可能性もある。
「ああ。神剣を大神殿から出すには継承者書き換えの問題を引き起こすのが一番手っ取り早い」
「確かに直系以外の者が次の王になるとすれば、神剣にそれを認めさせる手間はかかるだろうが……」
 王とその継承者しか抜けないとされる神剣。具体的にどのような作業をしてそのような術をかけているのかわからないが、ダーフィトの言うことにも一理ある。
「なんかよくわからないけど、『虎穴に入らずんば虎児を得ず』ってこと?」
「そういうこと」
 ダーフィトは辰砂に視線を移す。
「当分この国に留まるんだろう? リューシャを頼む」
「……まぁ、そのつもりではあるけどね」
「でもダーフィトさぁん、こう言っちゃなんですけど、あなたが懐柔される恐れは? あなたがそのまま次の王様になってしまえば、一番簡単にリューシャさんを排斥できますよね」
「ウルリーク」
 ダーフィトを信用しないその発言に、セルマがウルリークを睨む。淫魔は肩を竦めた。他の人が言わないことを言ったまでです、と。
「確かにそう思われても仕方ない立場だってわかってるよ。でも約束する。神剣に触れる機会ができたら、必ずリューシャを呼ぶ」
 本来王位を継ぐはずだった再従兄弟は、それでもまだ渋い顔をしていた。
「我はお前のことは信用しているが、ウルリークの発言にも一理あると思うぞ。ゲラーシムが強硬な態度……例えばお前を監禁したまま継承権の用意を進めないとも限らない。その時はどうするんだ? お前は奴に危害を加えることなどできまい」
「……だからだよ、リューシャ。他の誰にもさせられない。だからこそ、俺が自分で行くんだ」
 ゲラーシムはリューシャの敵。この構図は最初から明らかだ。
 だがダーフィトにとってはそれでも父親なのだ。条件さえ整えばゲラーシムを殺してでも陰謀を止めるつもりの他の面々とは違い、ダーフィトはどうしてもゲラーシム自身に生きて簒奪の罪を償ってほしい。
「ナマ言わないでくださいよ。そんな日和った手段で、一国の簒奪継承問題に決着がつくわけないでしょう」
 綺麗事とは無縁のウルリークが、愚か者を見る目でダーフィトを蔑む。だが。
「……本当に、それでいいんだな」
「殿下」
「リューシャさん」
 他でもないリューシャが、それを認めた。
「お前があくまで我らの味方であり、そして父親のことも殺したくないとなれば、取る手段は限られる。荊道だぞ? 例えこちらの作戦が全て成功したとしても、お前は今度はゲラーシム陣営から裏切り者として見られることがある」
 獅子身中の虫となるというのは、そういうことだった。父にこれ以上罪を重ねさせたくはない。だからこそ、ダーフィトは父を信用させ、再び裏切るのだ。
「今更だ。そんなの」
 親子の理想が重なっているうちは良かった。けれど心はすでに――もう、とうの昔に離れてしまっていたのだ。
「……お前にそこまでの覚悟があるのなら」
 覚悟、の言葉に、ダーフィトの脳裏に王族としての矜持を果たした金髪の少年の姿が一瞬過ぎる。
「好きにしろ」
「ありがとう、リューシャ」

 ◆◆◆◆◆

「ナージュの説得が功を奏したな。お前が戻ってきてくれて嬉しいよ」
 息子の目から見て、父の言葉に偽りがあるようには思えなかった。これは間違いないゲラーシムの本音で、ダーフィトの胸にも抑えきれない懐かしさが去来する。
 だが次の言葉で、頭に冷水を浴びせられたように冷静になれた。
「神託の王子リューシャは危険な存在だ。ようやくそれがわかったのだな」
「父上」
 違う。
 これは今までの父親ではない。
「何故……そのようなことを。あなたは神など信じていないはず。リューシャの神託だって、本気になどしていなかったのに……!」
 上手くゲラーシムに取り入るという本来の目的を考えれば、それは危険な台詞だった。
 だがダーフィトは問わずにはいられなかった。彼がいない間にゲラーシムに起きた変調を。
「半年前にこの国からリューシャを追い出そうとした時とは、言っていることが違う! 父上、あなたは意味の曖昧な神託の不確かさなど、信じてはいなかった!」
「ダーフィト? ……お前こそ何を言っている」
「父上、あなたがあなた自身の意志で簒奪を始めた時……俺は、あなたを止めることができなかった。俺自身にも迷いがあったから、信念を持って行動を起こしたあなたをの意志を俺如きが翻せるはずもなかった」
 平和なアレスヴァルド。王都に着くまでに見てきたその光景を作り上げたのは全てゲラーシムの手腕だ。ダーフィトも、リューシャでさえも、ゲラーシムがこの国をどれだけ大切に思っているかを知っている。
 簒奪を起こしたのだって、あのままリューシャが王位継承者として国に存在することを危惧し、できるならばダーフィトを王位につけたいと願っていたから。けれどそれは純粋にアレスヴァルドの国風から生まれる国民感情を考慮したもので、リューシャがこの国を滅ぼすなどという神託を心から畏怖していたわけではない。
 今もあの時もゲラーシム自身の取る行動はほとんど変わらない。周囲の人間も恐らくゲラーシムの精神の僅かな変容に気づいてはいないだろう。
 だが、ダーフィトにはわかった。
 今ここにいるのは、ダーフィトがよく知っている父親ではない!
 彼が口にした意見。それはまるで――。
「駄目よ、ダーフィト」
 いつの間に扉を開けて室内に入って来たのか、背後から涼やかな声がかけられた。
「ナージュ……!」
 見たくもなかった顔を再び見て、ダーフィトはぎりりと唇を噛みしめる。
 この女だ。この女が現れてから全ては狂い始めた。
 否、女ではない。女の姿に変化した規律の神。辰砂を憎み、リューシャを憎み、彼らに敵対する者。
「お父様の仰ることに刃向かうなんて、悪い子ね」
 先程ゲラーシムが口にしたのは彼自身の意見ではなく、ナージュの考えだ!
 ダーフィトは咄嗟に剣の柄に手をかけた。ゲラーシムがその動作を見咎めて声をあげる。
「何をする気だ、ダーフィト」
「……」
 ダーフィトも剣身そのものは抜きはしない。だが。武人としては最大の警戒をナージュに対してみせる。室内に走る不穏な空気。
「何もしないわ。今はね」
 答えたのは問われたダーフィトではなく、ナージュの方だった。そして彼女の目線はゲラーシムに応えるのではなく、ダーフィトの方を向いている。
「あなたの決意と覚悟。それは私にとっても必要なことだから」
「……?!」
 謎めいた言葉を残し、言いたいだけ言ってナージュは踵を返す。
 後には彼の背中を睨みつけるダーフィトと、そんな息子を困惑の眼差しで見つめるゲラーシムだけが残された。