Fastnacht 32

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 ディアヌハーデ公爵夫人、今は王妃とも呼ばれるべき存在だが、あえて裏方に徹し、決してそう名乗りはしない存在。それがナージュだ。そのナージュから、彼らは主君の最大の敵の捕獲を命じられた。
「いたか?!」
「いや、こちらは無人だ。通りの向こうはサグラスの隊が見張っている」
 ゲラーシムとその奥方であるナージュに心酔している兵士たちは、何としてでもその「敵」をひっ捕らえ主君の前に引きずり出してやるのだと躍起になっている。
「向こうは何人か、無関係な人間が通りすぎて行っただけらしいぞ」
「あと調べていないのはこの道だけだ」
「この先は行き止まりだぜ」
「ああ……」
 ほぼ裏道のみの利用とはいえ、街中を縦横無尽に逃げ回る三人組。父王を殺した呪われし王子とその護衛騎士、その仲間だと伝えられた少年は見た目よりも随分と手強い。
 ディアヌハーデ公爵夫人の兵士たちは、三人を捕まえるために徐々に市中を捜索する人数を増やしていた。リューシャ王子の護衛騎士セルマの噂は彼らも聞いている。非常識な強さを誇る女騎士を打倒しリューシャ王子を捕獲するためには、何人兵士を集めても足りない。
 街中を歩きまわる人数は確かに限られているが、その限界ぎりぎりまで動員して捜索に励む。それが功を奏し、彼らはもう一歩でリューシャ王子たちを捕らえられるというところまで来ていた。
「この道以外に逃げ場はない」
 地元の者ならだれでも行き止まりだと知っている裏道を行く。
「おい、あれ」
 普段はがらんどうとしている道の突き当たりに、一台の馬車が停まっていた。
 兵士たちは顔を見合わせて緊張を高める。他に逃げ場はないのだ。あの中に彼らの追う相手がいるかもしれない。
 貴族の所有らしき上質な馬車だ。彼らは目配せを交わし合い、警戒を解かないまま表向きは丁寧に声をかけた。
「すみません」
 慌ててかけつけた御者はまた別の兵士が抑える。馬車の中をしっかり検めるまでは、追い返されるわけにはいかない。
 応えこそないが、馬車の中で人の気配がした。
「我らはディアヌハーデ公爵夫人の部下。指名手配の殺人犯を追っているところです。疾しいところがなければ、馬車の中を検めさせていただきたい」
「おいおい、あんた方、無礼だぞ!」
 御者の若い男が兵たちを止めようとする。
「だ、旦那様!」
 いかにも見られては困るという風に焦る御者の様子に、彼らはますます疑いを強めた。
「いかがなさいますか。この馬車の扉を開けてもかまいませぬか。それができぬという場合は我らに御同行願うことになりますが」
「――開けても構わぬが……」
 ようやくのこと中から返ってきた声は、若くて冷涼な、耳通りの良い美声だった。如何にも貴族的な話し方だが、雰囲気は酷く気だるげだ。
「見て困るのは、どちらかと言えばそちらの方だと思うぞ」
「御協力ありがとうございます。それでは拝見し――まっ!」
「きゃあっ!」
 リューシャ王子やその護衛騎士を匿っているのではないかと臨戦態勢のまま扉を開けた兵を出迎えたのは、返り討ちを目論む拳でも覚悟や敵意などでもなく、頬を真っ赤にして羞恥を浮かべた少女の悲鳴だった。
「――へ?」
 罪人の首を検めるつもりだった兵たちは、馬車内のまるで別世界のような惨状を見て度肝を抜かれた。
 床一面に積もった、脱ぎ捨てられた服の山。狭い空間で肌を絡め合う三人の男女。
 どう見てもお楽しみの最中だ。
「んなっ――」
「だから言っただろう。見た方が困る、と」
 見惚れる程に美しい黒髪の男が、半裸の少女を膝の上に抱えている。対面の席にも可愛らしい少女がいて、先程悲鳴を上げたのはこちらの方だ。
 裸を隠そうと衣服の山をかきあつめてはいるが、そのなまめかしい素肌の総てを覆うには足りない。胸や下半身は布に覆われているが、それでも覗く肩や首筋、あるは臍近くの際どい部分にこれ見よがしな鬱血痕が見える。
 それでも彼女はまだよかった。問題はこちらに顔を向けることもできないもう一人の少女と男の絡み具合だ。
 こちらもやはり肝心な部分は男の腕や、腰に引っかかった脱げかけのドレスに隠れて見えない。だが大胆に男の膝をまたいで抱え上げられた白い足の震えを見れば、今まさに交歓の最中なのは明白で……。
「ひあっ!」
 見えぬところで男がどんな悪戯をしたのか、その胸に顔を埋めた少女の唇から押し殺すような甲高い喘ぎが漏れた。
「そろそろいいか? 私の愛人が、さっきから待ちきれないと下の口で訴えているものでね」
 赤く染まった耳に唇を這わせた男が、さっさと失せろという言葉代わりに少女の痴態を見せつける。
「うあ……うわ……し、失礼しましたぁ!!」
 見てはいけないものを見てしまった気の毒な兵士たちは慌てて扉を閉めた。あーあという顔をした若い御者が溜息をつく。
「だーからやめとけって」
「た、大変失礼いたしました。そ、捜査協力に感謝いたします」
 しどろもどろの挨拶だけ述べ、兵士たちは一目散にその場から撤収……もとい逃げ出した。

 ◆◆◆◆◆

「ふむ。思ったより素直だったな。もうちょっと粘られるかと思ったが。そっちも顔を見せろくらい言われるかと」
「陛下ー、俺もう服着ていいですか」
「構わん、さっさと着ろ」
 ようやくラウルフィカの許可が下り、先程までの恥じらい演技はどこへ行ったのか、平然とした顔のシェイが付け毛を外してちゃんとした服を着始める。
 馬車はゆっくりと動き出していた。御者役に徹していたラウズフィールからは何の声もかけられていないが、すでに打ち合わせ済みということだろうか。
「……おい、ラウルフィカ」
 眉間に皺を寄せたリューシャが、若き青年貴族――に扮したラウルフィカの膝を降りて詰問口調になる。
「どういうことだ。これは」
「どうもこうもない。見ての通りだ」
「わかるか!」
 突然出てきて人を引きずり込んで鬘を被せ半裸女装させた挙句、あの演技だ。
「と言うか、生きてたのかお前! シャルカントではベラルーダ王は死んだって……!」
 リューシャはそう聞いていた。ここに彼が平然とした顔でいることが信じられない。
 まさか幽霊や偽物と言うにはその体温は生きた人間そのもので、言動は間違いなくラウルフィカでしかありえない。
「え? リューシャ知らなかったの?!」
「辰砂から聞いていないのか?」
 しかし二人は逆にリューシャがそれを知らなかったことに驚いたようだった。
「な、え……?」
「だって辰砂様が伝えに行ったんだろ? なんで知らないんだ?」
「聞いてないものは聞いて――って待て、辰砂が?」
 リューシャはふとオリゾンダスの宿屋で起きた……やってしまった例のアレを思い出した。
 あの時確か辰砂は自分に何かを伝えに来たのだ。その時伝えようとしたことが……もしかしてこれか?
「……」
「リューシャ? どうかしたの?」
 シェイが目の前で手を振っている。リューシャはようやく我に帰った。
「い、いや、なんでもない。その……悪かった」
「「?」」
 シェイとラウルフィカが不思議そうに顔を見合わせる。
「えーと、まぁ、その……二人とも、また会えて、良かった。ラウルフィカも……生きて、たんだな」
「――それはこちらの台詞だ。ルゥから聞いたが、タルティアンで国家の問題に首を突っ込んだとな」
「どうしてルゥと……ああ、そう言えばさっきいたな。と言うことは今は皆、天界にいるのか?」
「ああ」
 ルゥは大地神シャニディオールの眷属として天界で暮らすことになったはずだった。そう言えばシェイも同じく月女神セーファの眷属になるとか言っていたか。
 ラウルフィカに関してはよくわからないが、砂漠の帝国では死んだということにされながら今ここにいるのだから、複雑な事情があるのだろう。
「生きて……」
 先程は平然と口にした台詞を思いがけず繰り返した時、リューシャの胸には言葉にならない感情がこみ上げてきた。
 この国から始まった事件と旅の中、こうして再会できる人もいれば、もう二度と会えなくなってしまった人もいる。
「生きてて……良かった」
 向かい合った姿勢そのまま、リューシャはことりとラウルフィカの胸に頬を埋めた。
 あの時、シャルカントの宮殿を包んだ青い炎はリューシャ自身の力。殺したと思っていた、何度もすれ違い傷つけ合った目の前の相手を。
 ラウルフィカが手を伸ばしリューシャの髪をいつかのように優しく撫でる。
 あの時彼の瞳にあった虚しさや諦観は、もうない。