Fastnacht 33

第6章 神の帰還

33.神を継ぐ国

129

 ダーフィトの方はゲラーシムとの腹の探り合いが難航しているのか、待っても待ってもその日は連絡が来なかった。何事もなく夜を迎えた時、逃走劇に疲れた体は自然と睡眠を欲していた。
「寝れば。僕たちも寝るけど、誰か一人は常に起きているようにするし」
 辰砂の言葉に甘え、リューシャは限界を眠気として訴える体を素直に寝台に任せた。神としての力を得ても人としての肉体に引きずられるリューシャは体力のなさもこれまで通りだ。
 顔合わせに自己紹介……と言う名の一騒動を終えた面々も、順に眠りにつく。
 そして草木も眠る真夜中、慣れた気配を感じてセルマは静かに目を醒ました。
 逃亡者として警戒を忘れず、寝る前は服を着替えることもなく手元に剣を置いていたセルマは簡単に身支度を整えて屋敷の外へ出る。
「どうしたの?」
 屋根の上からその名と同じ天体を背負うように、銀月の声が降ってきた。彼が今夜の見張り役というわけだ。
「気配がした」
「気配? って、あれ? まだ随分距離があるし、一人きりで歩いているから兵隊さんというより道に迷った旅人さんかと思ったんだけど」
 見張り役として志願して残っている銀月の目にも、セルマが起き出してきたその気配の持ち主はすでに屋根の上から視認できていた。しかしまだ距離があることもあって、そう不自然な存在とは見えなかったらしい。
「違う。あれは暗殺者だ」
 言い切ったセルマに銀月が驚きの表情を向ける。二人は緋色の大陸で出会った頃からリューシャたちを奪還しようと色々協力した仲だが、あまり相手のことに詳しいわけではない。
「なんで」
「私と同じだ。たぶん……昔、私がいたその組織に依頼したんだろう。ディアヌハーデ公爵の目論見だろうな」
 リューシャの護衛騎士であるセルマの強さは、アレスヴァルドの騎士や軍人の中でも明らかに一線を画していた。彼女を確実に排除するためにゲラーシム派がとる行動と言えば、それは彼女に対抗できる実力者を派遣するしかない。
 すなわち、かつてセルマがリューシャと出会うまで所属していた暗殺組織への依頼だ。
 七大陸のうち、身体能力が高く武芸に優れた人間が生まれやすいのは紫と紅の大陸。セルマは大陸の地表のほとんどを万年雪で覆われた極寒の地、紫の大陸で生まれ育った。かの大陸は昔から暗殺者を多く輩出するという真偽の知れぬ噂がある。
「みんなを起こし――」
「いや、必要ない」
 屋根から降りて屋敷の中に戻ろうとした銀月に答えたのは、セルマではなくこれまで聞いたこともない男の声だった。
「お前たちは皆ここで死ぬ」
 気配を感じるどころか、視力によっては姿を確認するにもまだ距離がある。そう思っていた人影はすでに切っ先の届く間近にまで迫っていた。
 声を伴わない、息を呑んだ音だけが漏れる。銀月は魔術師であって武芸には疎い。
 そして近接戦闘の実力者は時にどんな奇跡をも演出する魔術師よりも強い。術を発動させる前に首を掻っ切られては、魔術師だろうと界律師だろうとさすがに敵わないからだ。
「させない」
 だがここには、セルマがいる。銀月の背後に音もなく迫った刃を、同じように音もなく退ける。確かに得物同士が噛み合ったはずなのに、金属の擦れる音さえ響かない。
「やはりお前か」
 男は言った。その眼はすでに銀月など思考の外に追いやり、セルマだけを見据えている。
「生きていたか」
「そちらこそ」
 抑揚もない問いかけにセルマもまた、淡々と返した。
「いつまで経っても戻って来ないからそんなことではないかと思っていたが……アレスヴァルドから依頼が来た時は驚いたぞ。この国の王子はどんな魔法を使ったものか、何度刺客を送りつけても返り討ちにしてくれたからな。とはいえ、お前がしてやられるとは誰も思っちゃいなかった」
「してやられてしまったのさ。二度と戻らない。私はもう死んだも同然」
「そして第二の人生を謳歌する、か。馬鹿馬鹿しい」
 男の瞳が鋭くなる。相対するセルマはともかく、銀月にはその仕草が、黒い影が揺らめくぐらいにしか見えなかった。
 海千山千の宮廷で後ろ暗い行為を働く者たちの一味であった銀月は、危険など慣れているつもりであった。
 しかしこれは彼が今まで経験したどんな事態とも違う。男の殺気は悪意の欠片もなくあまりに純粋で、ただただ気圧される。これほど無心に人を殺そうと言う思いだけが伝わってくるなど――。
 そしてセルマは、それに負けていない。
 金属の触れ合う硬質的な音。僅かなそれだけが二人の激戦を物語る全てだった。超人的な動きはもはや同じ身体能力を持つ者にしか見極めることができない。銀月程度では、ただその空間に微風が吹いた程度にしか感じられず、何が起きたかもわからない。
 キンッと銅貨を弾くような音と共に、二人の動きが止まってようやくその姿が見えるようになった。
 それと同時に夜風に鉄錆の匂いが交じるようになる。
「くくく」
 影のような男が笑った。
 その腹部から血を流しながら。
 月明かりが照らす青い夜の中でその色はしかと見えずとも、月光を反射する液体の質感だけが酷く生々しい。
「腕を上げたな」
「……ええ」
 セルマの顔にようやく表情らしいものが現れる。陰に沈んで何色か分からなくなった瞳は憂いという心の色だけを映していた。
「まったくお前は規格外だった。普通は教団が適性のある者を攫ってくるのに、お前ときたら夢を見たからと言って、自ら門を叩いたのだから」
「……ええ」
 セルマはまた静かに頷く。だが今度のそれには続きがあった。
「暗い夢の中で――青い睡蓮が何度も私に囁くのです。寂しい寂しいと。だから私は……行かなければと思った」
「睡蓮?!」
 銀月は動揺から叫び声を上げた。意味深な会話に横槍を入れてしまったことに気づき、慌てて自らの口を塞ぐ。
 そう言えば先程、刺客の男は「教団」という言葉を口にした。ではまさかこの男の所属、そして昔セルマがいた組織というのは、まさか――。
「『睡蓮教団』の暗殺部門、ね……」
 澄んだ少年の声が、再び夜気を切り裂いた。
「!」
 手負いの男を除き、セルマも銀月もハッとして振り返る。今度は誰も気づかなかった。何故なら世界最強の魔術師が、結界で自らの気配を殺して彼らを観察していたからだ。
「セルマ」
 杖を持った辰砂の隣に立つリューシャがぽつりと騎士の名を呼んだ。
「殿下」
 セルマは剣についた血を振り払い、今の彼女の主君のもとへと歩み寄ろうとした。その背中に男の声がかかる。
「いいのか? トドメを刺さなくて。せっかく腕を上げたのに、そんなことじゃそのうち足元を掬われるぞ」
「……いいんだ」
 セルマは振り返って頷く。膝の力が抜けてゆっくりと地に這う男に告げた。
「我が師よ。あなたには世話になった。けれど今の私はもうあなたの教え子の暗殺者ではなく……」
 リューシャ王子の騎士だ。
「師って……」
 銀月がセルマの言葉に眉根を寄せる。同じ師と弟子の関係でも、銀月は辰砂のために永遠を選び、セルマは師を殺す。
 そして銀月の師は何を考えているのか、もはや虫の息の男へと歩み寄った。
「おお……!」
 辰砂の姿に男の目が爛々と輝きはじめる。
「その色違いの瞳……あなたは、あなたこそが、我らの神……人類の解放者、創造の魔術師よ……!」
「……僕は、神なんかじゃない」
 神のように思われることもある。辰砂が直接その手で救った人々からは。だが辰砂は神ではない。むしろそれらと相対する者……どこまでいってもただの人間でしかありえない者だ。
 睡蓮教とは、かつて神々に反逆した魔術師辰砂こそ、人間の可能性を示す導き手として崇める狂信集団だ。
 辰砂の威光を示すなどと言って信仰深い西の地で何度も破壊工作を行ってきた彼らを、その信仰の対象である辰砂自身は認めていない。
 人であるが故に神に反逆した者を崇めながら、その存在を自らと同じ人間と思えぬのであれば、それは世界の多くの人々が神を信仰するのとなんら変わらない。否、自らを正当化しようと望みながら結局人間よりも大きな存在に寄りどころを求めるなど――何の意味もない考えだ。それならば初めから神と定義されたものに一心に信仰を捧ぐ純粋な宗教信者の方がマシだ。
 事切れる男の耳元で辰砂が何かを囁く。その音はあまりにもかそけく、常人ならざる五感を持つセルマの耳にしか聞こえなかった。
 彼女は静かに十字を切る。
 彼女は彼と違い、神を信じていた。