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何度も夢を見た。
暗い水面を青い睡蓮が流れていく。
睡蓮の花言葉は“滅亡”。
かつて神々に反逆した魔術師が使う術の発動の様子にも似ているということから、創造の魔術師、辰砂の花とも呼ばれている。辰砂の狂信集団“睡蓮教”の名はそこからつけられた。
だが、古代の神学に詳しい者の見地から言わせればそれは少し違うと言う。
睡蓮はもともとある神の象徴だった。辰砂はその神の使徒であるから、術の発動形式をあえて睡蓮の花が広がるように調整したのだ。
その神の名は――。
「今が幸福だから」
――今を生きましょうよ、リューシャさん。決して過去には戻れません。
「私は過去に帰ることを選びません」
前世で双子の弟だった者の決断と、彼女の前世に関わる決断は同じものだ。それはやはり二人が前世では同じものだったことを示す。
でもここから先は前世ではなく、今を生きているこの自分の話。
セルマはリューシャやウルリークのようには、海辺の記憶を夢に見ることはなかった。彼女が繰り返し見たのはひたすら闇を流れる睡蓮の花。常闇の底から聞こえる呼び声は決して今の彼女の名を呼ばない。
その時からきっと、こうなることはきっと決まっていたのだ。
青い睡蓮の向こうの闇にセルマは背を向ける。
さようなら、私の神様。
背徳と快楽の神。異端と呼ばれ迫害される民を受け入れてくれた、禁じられた愛を認める神グラスヴェリアよ。
「あんたは……」
セルマの十字の切り方が独特であることを見て、辰砂が何かに気づいたように眉根を寄せた。
不審の眼差しで見つめられて、セルマはにっこりと笑う。
黙し続けること、それが自分の役目だと。過去を過去として切り捨てたのであれば、もう思い出す必要はない。
「中に戻るぞ、二人とも」
リューシャが扉前で二人を呼んだ。
◆◆◆◆◆
そこはこの世のどこでもない空間。
永遠の夜の静けさと闇だけが辺りを包む。
光の差さない暗闇は朝も昼も夜も変わらず、時の流れはこの中ではあってないようなもの。
時計の壊れた世界。
常闇の牢獄。
地上のように時の流れに任せれば自然と癒えるような傷もこの場所では永遠に癒えない。
少なくとも、そこに留まり続ける本人にそれを癒す意志がなければ、尚更。
「……」
「……」
ここでの時間の大半を、彼らは無言で――ただ無言で過ごしてきた。
挨拶を交わすこともなく機嫌を伺うこともなく。
沈黙し、背を向け合い、関心を殺し。
「……」
それでもお互いの存在だけは脳内から完全に消す訳にも行かず。
黙し続ける。
発狂しそうな暗闇の中で。
「……」
今、そのうちの一人がもう一人に何かを語りかけようかと口を開きかけた。
逡巡の後、彼女は結局再び唇を引き結ぶ。
彼女が何を口にしたところで、彼は振り返らない。
自らの力でここに自分ごと彼女を引きずり込んだ時以来、彼女をずっと無視し続けている。
ここは時の流れぬ止まった永遠。
それでも地上では、天上では、あれから幾億の夜が過ぎ去ったことだろう。
何千年の時が過ぎたことだろう。
置いてきた片割れのことを想うと胸が軋む。それでも。
この世の終わりのような空間にただ二人きり。
それを、彼女はどうしてもただ不幸なのだとは思えなかった。
◆◆◆◆◆
「……言わないの?」
闖入者を退けて明け方、体力のないリューシャと、見張りを交替した銀月が眠りに行った後。
夜明け前は一番闇が深い。
お互いの顔も見えない別荘の長い廊下を、目の前の気配のみを頼りに歩く。
ふいに、手を取って尋ねた辰砂にセルマは笑って返した。
「言いません」
誰にも。リューシャにも。背徳神グラスヴェリアにも。
「あの人は……今も君を待ってる。ずっと、君だけを」
「それはもう“私”じゃない」
セルマの一言に、辰砂は辛そうに俯いた。
今生で出会ってから彼が見せたことのない表情だ。前世で出会った頃、見た目だけではなく中身も本当に十四歳だった彼が「彼女」の前でだけ見せていた表情。
「シャルカントの宿で、あの曲を聞いた時に気づくべきだったよ。よく、海辺で歌っていたね。竪琴を奏でながら」
それは他の誰かならともかく、辰砂の耳にはなじみ過ぎた音色だった。だからすぐに気づけなかった。かの神の探し人が他でもない彼女だということに。
「気付かなくて良かったんですよ。言う必要もない。どちらにしろ過去は変えられませんから」
同じように生まれ変わっても、破壊神であるリューシャがまた辰砂を愛したようにはセルマは背徳神を選ばなかった。
「どうして……? グラスヴェリアを見捨てるの?」
闇の中でくしゃりと辰砂が顔を歪めるのが、見えもしないのにセルマにはわかった。
「この選択を見捨てたと言われるなら、そうなんでしょうね」
俯いて二つの過去を思い返しながら告げる。
「“彼女”の人生は終わり、それに本人はすでに満足してしまっている。だから私はリューシャ殿下と出会ったあの時に、私の人生を始められた」
選んだのだ。
過去に帰るよりも、今この瞬間を。
暗殺の師を殺してもリューシャを守ると決めた今夜のように、選んだのだ。
「僕たちが間違っていると言うのか? 君もディソスも僕たちが愚かだと言うのか」
「そういうことではありません」
夜が明ける。
すれ違う相手の、向き合う相手の顔もわからない時間は終わりやがて朝がやってくる。廊下の窓から差し込む白い日差しがお互いの顔を照らし出す。
昔とまったく変わらない容姿を魔術で維持し続ける辰砂と、生まれ変わって「彼女」とはまったくの別人になったセルマ。神々の長子と呼ばれる太陽神フィドランの投げかける光は全ての真実を明らかにする光だ。
「愚かだとか賢いだとか、見捨てるだとか見捨てないだとか……たぶんきっと、そういう話ではないんです」
いつだって人は一人で生まれてきてそして死ぬ。背徳神の巫覡であるアディスとディソスは双子だったけれど、それでも別々の人間だ。
かつて一緒に生まれてきて一緒に死んだけど、それでも今は別々に生きている。
「辰砂、今でもまだわからない? もしも時を巻き戻せる魔法があるのなら、あなたは過去に戻りたいと思う?」
「僕は――」
辰砂はセルマの手を離した。
彼女はアディスではない。もうアディスはいない。
辰砂自身が「この時代」で救われてしまったから、よくわかっている。
「僕は、戻らない。みんなが死んでも、背徳神様がああなっても、僕が――破壊神に殺されても」
――知らなかったんですか、お師様。俺はあなたが大好きなんですよ。
――ええ。お付き合いしますよ。辰砂、我が師よ。あなたが進む道ならばどこまでも、いつまでも。
「僕のために……人として正しい在り方も何も捨ててついてきてくれる奴がいる」
――傍にいる。
――今度こそ、いつだって傍にいる。
「完全無欠の神の座を捨て、人として生まれ変わった奴がいる」
今を捨てられない。やり直しなんてできない。
どうしても取り戻したいものはあるけれど、そのためにここまでの人生で手に入れたものを捨てることなんてできないのだ。
「今更失えやしない」
「私もだ。だから」
「でも僕は……背徳神の民であることも捨てられない……!」
辰砂の悲痛な叫びに、セルマもハッとして憂いを湛える。
「いいんだ。それでいいんだ」
女騎士として肉体を鍛え続け、見た目の年齢は一回り以上も上の彼女の方が辰砂よりも背高くたくましい。小さな頭を抱きこんで告げた。
「“辰砂”の生はまだ続いているというのなら……それでいいんだ」
人を超え神を超え、辰砂は永遠を生きる。付き従う弟子や懐いてくる破壊神と共に。彼にとってもう――アディスやディソスと過ごした日は夢の彼方。
「もう私を過去にしろ、辰砂。もうすぐ全てが終わり始まる」
隔てられた生と死の遠さを感じながら、いまだその狭間で心彷徨わせている憐れな神のことを想う。
「どうすればあのひとを救えるの?」
どちらの口からも、答は終ぞ出なかった。