132
「ようやくその気になってくれたか」
ダーフィトが戴冠式の話を受け入れた時、父はここ数年見たことがないくらいほっとした顔をしていた。
ダーフィトはダーフィトで長らく父を間違っていると糾弾し続けていたが、それと同時に自分を心配する父の心を痛めさせてもいたのだろう。
お互いに愛情があることは確かなのに、すれ違う父と子は互いのためにできることがあまりにも少ない。
それでもダーフィトがとにかくアレスヴァルドに、自分のもとに戻ってきたことをゲラーシムはただ喜んだ。遠くの大陸で無事にやっているかどうか案じるよりも、手元で反抗される方がまだマシだと言う。
ナージュは親子二人きりの方が良いだろうと、彼らの会話の席ではあえて外していることが多かった。
元々彼は目的があって地上に降りてきた神だ。ゲラーシムのことなどどうでもよいのだろう。
長年亡き妻、ダーフィトの母妃を愛し続けていたゲラーシムが、例え魔術で誑かされたのだとしても、そんなナージュを妻として迎え入れている姿が尚更憐れだと思う。
そんな父を、自分こそがこれから裏切るのだと知っていても。
◆◆◆◆◆
事前準備はもう入念に、一部の隙もなく行ってあった。それがいつ実行することになっても良いように。
「明日は良い天気だそうですよ」
王城の自室で寛ぐゲラーシムに、扉の開く音と共にそんな声がかけられた。
「出入りの者たちが口ぐちに言っていました」
「天候か……そうだな。それも考えねばならぬのだったな」
ゲラーシムは今思い出したと言った顔で頷く。彼としては息子の戴冠式を行うためには、雨だろうが嵐だろうがかまっていられないからだ。
とはいえ参列する諸貴族や祝賀を催す王都の民にとっては関心の高いことだろう。人々はアレスヴァルドに戻ってきたダーフィトが王位を継ぐ日の空が青いことを、心から願い、祝っている。
式典が何事もなく終われば、それでゲラーシムの憂いは全て晴らされる。
とはいえ、先王を弑して玉座を奪った男は物事がそう簡単に運ぶなどとは考えない。
先程部屋に入ってきた人物、ナージュは彼本来のものに近い低めの声で囁く。
「……いいのですか? ダーフィトは何か企んでいますよ」
「そうだろうな」
案じる妻の声音にあっさりと頷いて、いまやこの国の玉座を欲しいままにする男は静かに微笑む。
「ゲラーシム」
「あのダーフィトがそう簡単にこれまでの意志を翻すわけないだろう。あれは、私の息子だ」
恐らく明日の戴冠式には、ダーフィトがこれまで行動を共にしていたはずのリューシャたちが乱入してくるだろう。ゲラーシムの簒奪の証拠や諸々を携えて。
何事もなく終わるはずなどない。そんなことはわかっている。
そしてこれまで父の言葉に逆らい続けて、立場的には王位を巡る敵であるはずのリューシャを庇い続けたダーフィトがそう簡単に彼を見捨てるわけがないのだ。
そして父はまた息子に裏切られる。それもわかっている。それでも。
「親の贔屓目なしに見ても、リューシャよりもダーフィトの方が王位に相応しい。だから王位につけたい。それは、傲慢な望みだろうか」
かつてディアヌハーデ公爵と呼ばれ、今はアレスヴァルド王を名乗る男は仮初の妻を振り返る。
「いいえ」
ナージュは考えるよりも早く、反射的に彼の迷いを否定した。
「いいえ。間違っていません。あなたは少しも」
厳格なる規律の神。公正と秩序を愛する法の神は口にする。
間違ってはいないはずだ。間違ってはいけないのだ、自分は。
なのに何故、感情ではなく理性によって行動すべき神の胸が軋むのか。
ナージュの揺らぎを知るかのように、ゲラーシムは言葉を続けた。
「長い戦いだった。私だとて知っているさ。神託のことさえ考えねば、エレアザルにもリューシャにも罪など一つもない」
すでにこの国の頂点に立った男は、そうではなかった昔を懐かしむように遠くへと眼差しを馳せる。
「従兄弟とその息子を、心の底から憎んでいたわけではない。だが敵対しないわけにもいかなかった。我々の立場では相手を信用しきることも憎みきることも許されなかった」
ゲラーシムがダーフィトとリューシャの再従兄弟らしい穏やかな交流を黙認していたのは、情というよりは単にそれが必要なことだったからだ。
直系を守りながらも代々子種の少ないアレスヴァルド王家。エレアザルの代はゲラーシムだけ、リューシャの代はダーフィトだけが親戚と名乗れる程度の血縁であり、この四者だけで身内としての関係が成立していた。
妻の外戚などに権力を奪われぬよう慎重に立ち回った結果、信頼できる身内は酷く限られた。そしてリューシャとダーフィトの立場を思えば、エレアザルとゲラーシムがそれほど親交を深めるわけにもいかない。
ゲラーシムもエレアザルも、父親たちは己の息子を溺愛していた。だからと言って相手の息子を害して自らの子だけを優遇するような考えに踊らされるわけにはいかないが、周囲はそうは見てくれない。
リューシャを殺害すれば、ダーフィトに王位が転がり込んでくる可能性が高い。国中の者たちがそう思っている。
だがそれを言うのであれば、リューシャの世継ぎの王子としての立場を守るならば、一番手っ取り早い方法は競争者であるダーフィトを殺してしまうことだ。だからこそゲラーシムはリューシャを敵視し、ダーフィトはそれでもリューシャの味方をする。父が敵視し息子が友好を保つことで、奇妙な均衡が築かれていた。
敵対しすぎれば邪魔者として消される可能性があり、信用しすぎればそれもまた裏切られる可能性があった。エレアザル王とリューシャ王子の立場は、一つ視点を変えればゲラーシムとダーフィトにも当てはまる。
複雑な立場の身内同士でついに命運を分けたのは、リューシャに与えられた不吉な神託。リューシャの存在が次の王に相応しくないと思われれば思われる程、彼らが望まずとも周囲の圧力で対立は激化する。
「……ゲラーシム。後悔しているのですか? あなたの従兄弟を手に掛けたことを。その息子に罪を着せて葬ろうとしていること」
目を伏せながらそっと問いかけたナージュに、ゲラーシムは緩やかに首を振って返す。
「いいや。……これが私の選んだ道だ。私が選んだ運命」
エレアザルはもういない。
敵対者でありそれ故に唯一の理解者。同じ痛みを分かち合うべき身内をゲラーシムは殺害した。
選び、決めたのは他の誰でもない自分だ。後悔などするはずがない。していいはずがない。
息子であるダーフィトと従兄弟とその息子。どちらを選ぶかなど決まりきっている。それが自らの望みだけでなく、この国にとっても良いことであるとなれば尚更だ。
もしもリューシャが呪われた神託の持ち主でなかったとしたら。
考えても詮無いことを考える。だがそれももう終わり。
「ナージュ」
ゲラーシムは妻に語りかけた。椅子から立ち上がり、そのほっそりとした体をそっと抱きしめる。
「これまでありがとう」
彼の肩越しに背後の景色だけを目にし、ナージュは一瞬、呼吸を止めた。
「私は常に、あらゆる可能性を考慮した上で自分が正しいと思える道を選択してきた。それが息子であるダーフィトにさえ受け入れられずとも。だがお前は……そんな私を理解し、支えてくれた」
「ゲラーシム……」
「お前が何者でも構わない。私に近づいてきたことも、何か目的があるのだろう」
人はこの関係を何と思うのだろうか。
一応妻という肩書を得てはいても、ゲラーシムとナージュの間にある感情、関係は特殊なものだ。リューシャから継承権を奪うために手を組むのに自然な口実があれば、それで良かった。けれど。
「愛しているよ。お前が私をどう思っていようと、それだけは変わらない。……これが最後になるかも知れぬから伝えておく」
表面上は父親の言うことに従う振りをしたダーフィトが何かを企んでいるのは明白。戴冠式には十中八九、リューシャやその仲間が乗り込んでくる。
彼らの目的は一つしかない。ゲラーシムの罪を暴き、リューシャの手に正当な王位を取り戻すこと。
その時、リューシャたちがゲラーシムを生かしておくなどという保証はない。むしろ殺される公算の方が高いだろう。
ゲラーシムはそう思っている。
「――」
ナージュは自分を抱きしめる彼の背中に腕を回して囁いた。
「大丈夫。ゲラーシム」
そして。
「大丈夫。私が決して……あなたを死なせはしない」
あなたは何も間違っていない。
自分の目で見える範囲で常に正しいことを行っているあなたが、正しくないはずがない。
「私は、あなたを――」
この感情になんと名前をつければいいのだろう。
神は、まだそれを知らなかった。